カテゴリ:柳田国男の部屋
柳田先生追憶・石田幹之助氏著
『定本柳田国男集』月報35 昭和39年11月 筑摩書房 一部加筆 山口素堂資料室
高等学校の一年の時、東洋史の箭内亙(やないわたり)先生から『甲寅叢書』といふものを示され、今度僕等の友達でかういふシリーズを出さうといふことになり、これがその一つだよと云って『山島民譚集』といふ柳田先生の著述を貸して下さった。 あの河童の話を集めた、クリーム色の小冊子で、四 六判の背に清朝体の活字で表題を示した本であつた。これが多分私が先生の著書に接した最初であらう。勿論先生がもと松岡國男といはれ、「抒情詩」に収められた詩集の作者などとは夢にも知らず、外の論著も何にも知らなかった。大学へ行ってから先輩たちに交って「史学雑話」の編輯委員の末席を汚し、月に一回根津に在った事務所に集って打ち合わせをする会に出た。その時史学会宛に寄贈されて来る単行本や雑誌を拾ひ読みしたものだが、ふと先生の『石神問答』が目についた。中には私の先生の白鳥庫吉博士に問ひかけた質疑が二条ほどあり、大へん興味を覚えたのでそれを借りて帰り、全編を読み通した。 また「郷土研究」が丁度創刊された頃で、それも事務所にあったのでそれを通じて柳田先生の論考を数々知るやうになり、学問にもかういふ残された部面があり、史学を治める者もこの途を踏んで行かなければならないなと、感動を覚えたのであった。
初めて先生にお目にかかつたのは大学卒業後、大正八~九年の頃かと思ふ。 何かの用事で上田万年先生のお宅へ伺ってゐた時、玄関に訪なふ客があり、女中さんが剌を通じて来た。私はもう用談も済んだのでお暇しようと思ふと、上田先生は 「まあ待て、君にも引き合はせて置きたい人だから」 と云はれるままに客間の隅に居残ってゐると、それが柳田先生であった。先生は甥御さんの岡村干秋さんを通じて私のことを知ってをられ、
「君はいろんな事に手を出すさうだが、あれもこれもとやってて虻蜂取らずになりさうな生きた標本がここにゐるわけだから、二兎三兎を追はずに何か専門に固るやうにしろ」
と深切な忠言を賜った。
「私などはほんの少しばかり見聞を広くしたいと思って、いろいろな学問の門口をウロついて見るぐらゐの所なんです。先生のやうな本当の博覧に亘及びもつかぬ所です。どうかさうお解し下すって今後とも御指教をお願ひ致します。」 と云つて、穴へでも入りたいやうな気持であつた。 然し学問に於けるディレッタンティズムが寧ろ罪作りな邪道であるとさへ、常に唱へてをられた先生だけに、これは私も深く服贋して来た所であったが、不敏にしてよくは守られなかったことを悔いてゐる。
それから間もなく先生の居られた朝日新聞社で或る年信州の木崎湖畔で夏季大学を試みる企があり、「誰か日本史を受持つてくれる新進の秀才を世話してくれないか」 といふ御于紙を頂き、私は田保橋潔君(後の京城帝大敦授)を推薦した。これは大へん成功だったさうで、後から絵葉書の御礼状に接し、丁度座右にあり合はせたものだからと例の「鉄仮面」(英文)を一冊お贈り頂いた。 それから先生はジュネーブに行かれ、国際聯盟の事務局に勤められたが、故国には大正十二年の大震災が起り、書物が大量に失はれたと聞かれ、任果てて帰朝される時民俗学や神話・伝説の研究に関する本を出来るだけ買って来たよとよく話された。それを市ヶ谷市川の御宅で拝見してその数の多いのと各部門がよく網羅されてゐるのに驚いたものであった。 牛込で思ひ出すのは大正十四年先生が雑誌「民族」を創刊された時分のことである。岡正雄君を初めとし、有賀喜左衛門・田辺寿利・奥平武彦等の新鋭陣が編輯に協力し、私もその一員として毎月のやうに先生の御宅に集るのが楽しみであった。 この会は用務が済めば先生を中心に何かと学問上の話を承り、また同人が一騎当千の士であつたから中々景気のいい集りであった。 さうして国際的な色彩も豊かで、準同人のやうな意味で朝鮮の孫偕泰君や支那の何畏(思敬)君なども来り会したやうに覚えるし、大阪からネフスギー君も上京の序には顔を出したかと思ふ。そんな縁で私もこの雑誌には毎号何か書いて僅かながらお手伝ひをして謂滴の徴を致した。 「郷土研究」停刊の後を承けてこの雑誌は最広義の史学の研究を志すのだと先生は屡々声明されたが、先生も油の乗ってゐた盛りであるから非常な意気込み方であり、毎号巻頭を優れた長論文で飾られたものである。 昭和十年頃から大藤時彦君が私の関係してゐた国際文化振興会に勤められるやうになり、同君を通じて先生の消息は始終伝へ聞いてをり、木曜会のタブロイド型の会報もいつも頂いてゐた。それに味喰買橋の伝説を載せられ、どこかに類話がないかとお質ねを受けたが、私にはどうも見附かりませんと御返事をしたまま、いつか十数年を経てしまつた。 近頃どなただかがそれを国内に見出して報告してをられてゐたやうに覚えてゐる。
成城の御宅にも幾度かお邪魔した。戦争中は珍しく先生も洋服を着て例の隠居さんがかぶるやうな帽子をかぶられ、広い書斎の真ン中に座を占めて人とも接し、執筆もしてをられた。終戦直後に伺った時、先生の御宅の焼け残ったが私の家も幸に難を免れた事を申すと大変喜んで下すつた。 昭和二十四年の七月、或る民譚の類話を求めたく、先生の文庫の御厄介になるのが近道と思って成城に出向き、そんならごれで右見給ヘと云はれて Clouston Popular Tales and Fictions を示された。 何しろ厚い二冊本だから私は一往目録をノートして幾ページかを繰っただけで他日を期して辞去したが、これは私の失敗で燈台もと暗しの諺の通り、曾て東洋文庫へ高木敏雄先生の旧蔵本を買っておいたのをすつかり失念してゐたことを後で思ひ出し、成城まで出かけて読ませて頂く要がなくなったのは大笑ひであつた。 先生の御著述は大抵初版のものを出る都度頂いたり、自分で求めたり、本屋から寄贈されたりして大かた揃へてゐるので定本集は学校の図書館で必要な部分(例へば後から書き加へられた所など)を参考してゐる。 私は本の見返しか最後の余白に識語のやうなものを書いておく癖があって、先日もちょっと参照の用があつて『火の昔』や『木思石語』を出して見たら、何月幾日神田で何の会の帰りに買ったとか、学校の買店で今買って来たのを仙台へ行く急行の寝台車で一読したとか、そんなことが書いてあってその時々の事が今更のやうに思ひ出芯れる。 先生は世間からはとかく民俗学者としてその偉業を讃へられてゐるが、国語学者・方言学者としての半面をも高く評価しなければならない。
ここにその一々を言ふ紙幅を持たないが、これは決して逸することが出来ない一側である。それから何となく先生はホークロア(民俗学)を治める者が民族学(エスノロジー)にも指を染め、それに走るのを嫌はれたやうに伝へられてゐるがこれは断じて間違ひで、私の先生から常に伺った所ではそんなことは少しもない。八月のこの月報で石田英一郎さんが書いてをられる通り、 「日本という境界をこえて問題を考えることは、先生の本旨に背くものだ」というような、奇妙な考え方が日本のホークロアリストを支配したこともあつた」 のは世間の誤解である。 現に先生の古稀のお祝ひが昭和二十年西銀座の泰明小学校で開かれた時、大後私は先生から親しくフォークロアとエスノロジーは宜しく境界線を取り払ひ、雑訪なども一つになって然今へきだと伺った。先生はただ日本の民俗をもロクに究めもしないで、徒らに野蛮未開の原始人の風習などを引合ひに出すのを戒められたのだと思ふ。 先生の文章には一種の風格と滋味があり、蝕人の追隨を許さぬ高い香りがあつた。 底にはいつも暖いヒューマニズムの流れがあり、詩人松岡國男の息吹きが感ぜられる。『海南小記』の序にはジュネーブに老を養っていた老日本学者の功を讃ヘ、 「新しい民俗学の南無菩提の為に、謹んで此書を以て日本の久しい友、ベジル・ホール・チェンバレン先生の生御魂に供養し奉る」 と結ばれ、『秋風帖』の中には武蔵野の片田舎から町の工場へ息子を送り出してゐる母親の眼には、暮靄に沈む小都会の灯影が濡れて映るに違ひない。 「雲に鎖された夕方でも、一つだけは其方角に見えたのかも知れぬ」 といふ一節があり、遠州の山村から浜松の町に奉公に来てゐる子が偶々郷里に戻って 「夕方には戸に凭(もた)れて下の灯を眺めるやうな、レアルネのやうな気持になったかも知れぬ」 と云はれたあたり、思はずホロリとさせられたものである。 の世に無い。ごひだすら御冥福を祈るのみである。 ------その先生ももうこの世に無い。ひたすらご冥福を祈るのみである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年08月07日 06時59分46秒
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