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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月07日
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カテゴリ:柳田国男の部屋

柳田國男先生の思い出 鈴木栄太郎氏

  
 定本柳田國男集

 

 柳田先生の御葬儀の時、青山斎場の休息室で有賀喜左衛門君、喜多野清一君、大藤時彦君、関敬吾君等と一つのテーブルを囲んで先生の事など話していた時、

「あんたは先生には何時頃から近づいて来たのか」

と云ったのは有賀君だったと思う。

「たしか四谷あたりの古い大きな侍屋敷に住んでいられた頃伺ったことを記億している。お宅に伺ったのはそれが最初でなかったかと思う」

と云ったら、

「あの頃から知っている人はもうそんなに多くはないだろう」

と云った。あの時はたしか夏休みの直後でお約束していた「津島記事」を持って行ったのだから、もうその前から近づいていたのであろう。もう四十年も前の事である。

 私はその後岐阜や京城や札幌で地方生活をつづけ、最後にまた東京に来て此頃やっと落ちついて来たのであるが、先生との近づきは地方生恬の時代にもずっとつづいて居た。

 私が地方に住んでいた頃には私が上京した時何度か先生をお尋ねしたのは勿論であるが、先生が私の岐阜の任地に立ち寄られた事もある。旅行好きの先生は私が出生した壱岐の郷之浦にも行かれ、そこからお便り頂いた事もある。私が青年時代を過した対馬からは、そこに住んでいる私の旧友にお会いになり、彼との寄せ書を頂いた事がある。

 先生との四十年にも及ぶ結びつきの間には、深い印象のある思い出もいくつかある。

 

 私がはじめて職につき岐阜高農に赴任したのは大正十三年であったが、その前後に私は何度か柳田先生をお訪ねして岐阜の事を色々うかがった。その時紹介していただいた美濃太田の林魁一氏とはその後私が岐阜を去るまでは勿論のこと、つい二三年前に林さんが亡くなられるまで親交をつづけて来た。岐阜高農の同好の季生二三十名ばかりと共に、林さんのあとについて美濃飛扉の山野を歩きまわった記憶は今もなつかしい。この一団は温古会という名で呼ばれていたグループで、農業の学校には異色のある存在であった。毎年何回か欠かさず調査研究に出掛けた。主として考古学に関するものであったが民俗学に関するものもあった。林さんは美濃飛騨における考古学及び民俗学の何れも第一人者であった。

 その林さんも小首をかしげてどうもよく知りませんと云われたのは、山高の話である。柳田先生は私が岐阜に落ちつく事をお話した時、この林さんを紹介されると共に、美濃飛騨の山詞の生態を観察する事をすすめられた。私はその後二十年近くも岐阜高農に在職したが、学校の場所柄からも、学校の性質からも、山林や山村に関係ある人に接する機会は甚だ多かった。学生にも職員にも美濃飛騨の各地から来ていた者がいたし、私は在任中ずっと同校の山岳部長をつとめていた。私自身は山には登らなかったが、山を愛し山を眺め山を語る事が好きであり、山村は私の大事な研究の場でもあった。又岐阜高農の林学部の先生達は自分達の研究の為にも、学生の指導の為にも、美濃飛扉の山林にはよく出掛けていたから、各地の様子は相当詳細に知っていた。私はそれ等の人達に山調について何かの見聞があったら知らしてくれる様に繰り返し頼んだ。山窩に関する報告は色々の雑誌などに無い訳ではなかったが何れも雲をつかむ様な断片的なもので、実証的研究の拠点となる時点と場所に関する決定的なものが知られていなかった。だから私は美濃飛扉の山窩の生態につき時点と場所について確証を得たならば、直ちに学生達の協力を得て実証的調査をどこまでも進めたいと念願し待期していた。

 然し柳田先生が飛騨の奥地から伊勢の海岸地方までの山窩のルートがある様だと話されたそのルートはおろか美濃飛扉の山高の実在性を積極的に立証する何の手がかりも得られないままに二十年近くも空しく過ぎ、私は岐阜を去った。

 然し最近では、私は山窩の実在性を認め得ると共に、身近にそれを感じ得るに至っている。

 

柳田先生の「遠野物語」は明治四十三年先生の三十六歳の時の作である。山窩の生態を霞のかなたに描き、未知の世界への探求をかすかに誘う妙な作品である。山窩研究のパイオニアーの報告といえるものである。読む者にほのかな胸騒ぎも覚えしめる不思議な作品である。文学と科学を一つにしたもので、これはその後の先生の一生の家業民俗学を貫いている神技の様に思える。

 科学的合理性のみから批判する事も芸術的な価値のみから評価する事も先生の作品は余りに多くの後味を残し過ぎる。だがその後味は日本の民族文化の深層構造を嗅ぎ出そうとする者には類のない力となっている事はたしかである。

 

 終戦直後私は京城から引き揚げて来たばかりの頃、一年足らずCIEに勤務した事がある。その頃私等の室には社会学の者三名と民俗学地理学の者四名とがいた。その中の誰であったか先生の「祭日考」の書評を書いてみないかと云った。私は終りにその書評は公にはしなかったが、読んだあとの感想を口にまかせてその友人に云った。良い点悪い点について色々述べたが、朝鮮の民俗との関連や比較が少しも見られないのは日本の最高の民俗学者の研究としては遺憾だと述べた。

朝鮮の洞神祭の祭日に関する調査報告は先生の「祭日考」の研究に影響をしない筈はないと強く思ったからである。

 この私の批評をどんな風にその友人が先生に伝えたのか、先生を怒らしたらしいと云うので少し気にかかった。彼に話す心算で云ったので先生にそのまま伝えるとは思っていなかった。そんなこともあったので、札幌に赴任する日が間近になった頃、私は先生のお宅にお伺いする事にした。私のこの計画を知って同室の諸君は皆行こうと云う事になった。

 今のNHKにあったCIEを出て駅に行く道路を歩きかけた時、どこから帰って来たか同僚の一人が「先生は今日折口さんと箱根に連俳を作りに遊びに行かれてお留守だ」

と知らしてくれたので、その日の訪問

は急に止める事になった。

 それから札幌在住十一年、半分は病床で過したが、縁あって再び東京に帰り来て狛江に住む様になった。先生の成城とは隣接しているところである。

 東京に住みついたのは三十三年の秋半ば過ぎた頃であった。上京の挨拶状を先生に出したのは勿論であるが、それを見て先生からすぐ自分から出かけて行くと云ってこられた。私は涙が出る程嬉しかった。けれども私の方からすぐお伺いするだけの健康力はその頃の私はまだ持っていなかった。然しその時先生はもう八十六歳になっていられた筈である。

それで愚息を私の代理にやって私から

「行きたいがまだ健康に自信がないので桜の花が終った頃にはきっとお伺い出来るからそれまではじっとしていて下さい」

とお詫びを伝えてもらった。それでも先生から我慢出来ない様に今にも出掛けて来る様な気合いを書いたハガキが二三枚冬の間に来た。その度毎にまだ未だとお断りした。桜の花が散った頃愚息と共にお伺いして戦中戦後の御動静について色々承り、「炭焼日記」を頂いて帰って来た。お庭のライラックの花は真っ盛りであった。

 それから余り日数がたっていない頃にひょっこり先生が狛江の茅屋の玄関に立って家内に

「足を少しよごしたから拭くものを貸して下さい」

と云っていられる声を次の室から聞き知って、あわててとんで行ってお迎えした。

 どこをどう歩いて来られたのか、田圃路でも歩いて来られた風であったが、先生はこのあたりの土地の小名や大きな建物の名をよく知っていられたので、その名によって説明されたが、まだ住みついたばかりの私にはそれが読みとれず、どの辺をどう通って来られたのか全く見当がつかなかった。

(東洋大学教授)






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最終更新日  2020年08月07日 09時30分38秒
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