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2020年08月07日
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カテゴリ:柳田国男の部屋

柳田國男先生の思い出 中西三郎氏

 

 定本柳田國男集

  

一部加筆 白州ふるさと文庫

 

 柳田先生は大正十三年(今を距る三十九年前)の春、三田の文学科に 民間伝承の講筵を開かれた。                                集附録の年譜を見ると、

  大正十三年(一九二四)五十歳

  四月下旬より週一回、夏応義塾大学史学科に即働尹を講ず(三年くらい続く)。

 と記されてある。「民俗学」と明記されてあるが、是は後年一般化した常識的称呼に従ったものと思われる。当時未だ民俗学と云う語は社会の口耳に熟せず、先生は民間伝承と云って居られた。のち民俗学を提唱されても、無理解な学界から、「野蛮学」などと云う酷評を買うに過ぎなかった。今昔の惑に堪えぬ。

 三田文学科本科二年生の私は、全く僥倖にも先生の講義を聴く千載一遇の好機会を恵まれた。史学科とあるが、同科の学生は十指に足らぬ程の少数で、私が卒業する迄の二年間は国文学科の学生の方が熱心に聴講した様である。其国文李科とて私の同級生は四人に過ぎず、最も出席率の良かったのは神田三治君と私とであった。神田君は蒲柳の質で他の講座を欠席する事はあったが、先生のだけは欠かすまいと努めた様である。私は唯健康であった為に過ぎぬ。

予科時代、微兵検査に甲種合格したのは文科で私一人であった。「文弱」(当時はそんな熟語が流行した)

な三田の文科から兵隊の出るのは珍しいとされた。中学五年間を皆勤した私は、唯徒らに忠実な出席者であったに過ぎぬ。先生の事が新聞に出た時など、急に経済科の学生が殺到したが、長続きしなかった。健康な私は特別な事情のない限り、先生の講義は欠席しなかった。学生の側に特別な事情などとは可笑しな話だが、それは観劇の誘惑である。芝居気違の私は小山内薫先生や久保田万太郎先生達が課外講義を担当される三田演劇研究会の会員であった、観劇、いな見学の為には塾の講義を蹴飛ばして劇場ヘエスケープする事、度々であった。併し先生の場合だけは逃げなかった。其は先生の魅力に他ならぬ。

 全く勿体ない話だが、或日の如きは一対一、先生一人に私一人の事があった。当時先生はノートでなしに、カアドを持って講義された。私が一生懸命、一字一句をも漏らさじと筆記するや、

「中西君、一寸待給え。そんなに一々克明に筆記する必要はない。私の講義は理路整然たるノートにはなるまい。是は自分ながら不満足な未定稿である。何れ是を整理推敵して民間伝承論と云う一冊の本にする。だからそれ迄待ち給え」

と云われた。私は

「お言葉を返す様で恐れ入りますが、どうか筆記をお許し願います。こんなに面白い講義を唯聞流してしまうのは勿体ないし、又忘れてしまいますので」

と申上げた。すると先生は苦笑なされて

「では仕方がない。君の気のすむ様にし給え」

とおっしゃった。

 

 先生の講義は失礼な云い方だがノートしにくかった。論理が急に飛躍したり、脱線したり、挿入があったり、面喰らう事が度々であった。

(是は折口信夫先生の場合応当然であった。)

是は知り過ぎていられる為であろうか。言葉----文章のイキが長いと云うのか、牛の涎(よだれ)の様にダラダラと長くて歯切れが良くなかった。併し其も冗長緩慢と云うのではなく、委曲を尽くし、詳細を極め、徴に入り細を穿たんとするキメの細かい措辞の為である。思想の豊富は詞藻の富朧を招く。博学多識、一世の碩学は博引旁証、至らざるなきの概がある。

他の多くの教授の講義は、好んで切り口上式で、生硬な直訳的の漢語や、固苦しい学術用語を駆使される。その表現は仰山に云えばヘルバルト流の論理や発想法である。然るに先生は卑語俗語、又は方言、常民の用謳、農山漁村の爺さん婆さんが先祖代々使い馴れて来た言葉を用いられる。詩人出身の先生の措辞や発想法が、学者先生の講壇派と異るのは当然か。

 

 或日、私は先生に卒然として質問した。気が弱くて、縁な質問もなし得ぬ私としては、まして先生の如き大学者に対して、よくせきの事である。民間伝承と云い、民俗学と云い、未だ海の物とも山の物ともつかず、茫漠としてつかまえ所がない。先生の著作が色々あるとは云え、まだ決定打は出て居ない。どこから手をつけたら良いのか、多岐亡羊と云うか、さっぱり見当がつかぬ。やむにやまれず、

「先生、民間伝承学を勉強するのに先ず何を読んだら宜しいのでしょうか」。

万巻読破の碩学に唯一世の典籍を指摘せよとは容易の事でない。先生は虚を衝かれた様に破顔微苦笑い暫らくして

「出来る沢山読まねばならんが、----では喜多村信節の嬉遊笑覧を読みなさい」

とおっしゃった。この本は考証随筆の巨擘、江戸時代の百科全書である。馬鹿の一つ覚え、此書は我が生涯の好伴侶、座右の手沢本----私は良い本を先生から教えて戴いた。全く惑謝に堪えない。

 

 先生は民俗学の開山である。教祖である。先生は古典を中心とする折口信夫氏と、物を中心とするエスノロジイの渋沢敬三氏との二人を脇立とし、自らその本尊となり、日本民俗学の三尊仏を形成された。教祖とは傘下に幾多の俊秀を集め、彼等をインスパイヤアするメシアである。多分に宗教的感化力と、薫化力を有する人物である。先生は其等を総て具有する逸材であった。

 

 先生はもと「文庫」派の抒情詩人松岡國男であった。詩人の稟質の上に、博覧洽聞、努力精進して深道な学殖を積まれた篤学者である。鋭い直感と、深い洞察力とを以て、足下の土から砂金を発見し、磽确不毛の沙漠から金剛石を拾い上げて彫琢する。或は爪面玲瓏の完璧とする。その文章は天衣無縫、瓏々として妙音を発する金玉の名文である。

私は正則中学五年生の時から三田文科の本科一年生頃迄、内村鑑三師の聖書之研究を聴講した。内村師は無教会派の開山である。幾多の悛才を其門下に擁し、目本近代の宗敦界に一大王国を打ち建てた開祖である。私は内村師の説敦を聴きながら柳田先生の魅力と説得力と一味相通ずるものがあるのを感じた。二人はともに根が詩人である。オーバアな云方だが、私は肉限を親から貰い、心限を柳田先生から貰ったと思って居る。

 

 先生は物心内外二面のスタイリストである。外面的服装容儀に於いて、また文章表現に於いて。三田の教授達は多く英国流の紳士士風であった。講師中の好一対は先生と、美学及美術史講座の田中豊蔵先生とであった。田中先生は時々紋付羽織袴姿であった。いつも羊羹色のモーニングを着ていた節山塩谷温先生だけは例外である。併し塩谷先生は東洋風の醇儒、高踏的漢詩人の風格十分であった。柳田先生は眉目清秀、しかも端然たる服装のボウ・ブランメールであられた。然るに今や其温容と高姿に接するを得ず、悲哉。

(千葉県立成東高校講師)

 






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最終更新日  2020年08月07日 09時34分14秒
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