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2020年08月07日
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カテゴリ:柳田国男の部屋

柳田さんの論説 殿木圭一氏著

朝日新聞社 論説委員

『定本柳田国男集』月報35

   昭和3911月 筑摩書房

    一部加筆 山口素堂資料室

 

 

 関東大震災から満州事変が起るまでの時期、それは私共の一生の間でも一つの特徴のある時代であったと思うが、柳田さんはちょうどこの時期を通して、朝日新聞社に身を置き、論説に健筆をふるった。

 朝目新聞社の記録によれば、柳田さんが朝日新聞に客員として入社したのは大正九年八月であるが、朝日の紙面にはすでにその前から筆をとっている。

そして正式に入社して論説委員になったのが、大正十三年二月七目のことであった。論説を書きはじめたのは七月一日からであったらしく、それから昭和五年九月十四日に至るまで、重複分を除いて三百八十八編が切抜き帳に残されている。

柳田さんの数え年五十歳から五十六歳にわたる期間である。

柳田さんが朝日新聞に入社したとき、編集局長は安藤正純氏が退社したあと欠員で、大正十四年二月六日緒方竹虎氏が編集具長になった。

 当時の朝日の論説陣は、米田実、関口泰、前田多門の諸氏と柳田さんの四人で、後には町田梓楼氏も加わり、大西斎、牧野輝智両氏も問題によって執筆した。

しいて専門を分ければ、国際問題は米田、町田、東亜問題は大西、経済は牧野、政治は関口、社会問題は前田、文化は柳田の諸氏が主として担当することになっており、大きな政治問題は緒方氏がみずから筆をとることもあったということである。

しかし柳田さんの書いたものは、政治、経済、社会、文化、その他あらゆる分野にわたっている。

強いていえば初期には政治、経済の一般問題が多く、後期には、文化、社会に関するものを多く取り扱っているようにもみえる。

 柳田さんの同時代人長谷川如是閑氏は、新聞の論説欄を批評して、今日の論説は専門化して分業的担当になっており、一つの専門的知識として優れている為のもあるには相違ないが、新聞的個性の影が薄いと述べている。

柳田さんの論説を全休として見ると、少なくとも柳田さんの時代には、諭説の執筆はオールラウンドであったことがわかるのである。したがって、この時期にあって、柳田さんは、政党内閣の成立と普選の実

施を喜び、震災後の不景気、とくに農村の慢性的不況を憂え、帝都の復興をたたえ、相次ぐ汚職を痛罵したのである。

 しかし柳田さんの論説はオールラウンドであるばかりでなく、プラスアルファがあった。柳田さん自身後になって『村山竜平伝』の中で次のように語っている。

 

「私が東朝の論説班員になった時のことだが、社長(村山竜平)から、『時代が変ったかち、社説も文化の方に力を入れて変化をつけなけりゃならんから、その方を一つやって貰いたい』

という話があったので、それはこちらの望むところと早速承諾した。当時の社説はで政治、外交、経済、事件に対する批判と、今風に大体書かれる項目がきまっていたが、私はその軌道かち出て色変りのものを書いた。金の義歯の悪趣味を突いた『金歯の国』などという社説を書いたのを覚えているが、こういう文化評論を社説に揚げるようになったのはこの時からで、それは村山社長の暗示によった為のであった。」

 

「金歯の国」は柳田さん自身、後までもよく記億していたように、さすがに出色である。

「諸仏の尊像に黄金を塗布した上代の信仰と、今の金歯の風習との間には、必ず隠れたる心理上の脈絡がある。」

という柳田調の書き出しで、金歯の国をするどく突いている。単なる揶揄(やゆ)ではない。文化史学的アプローチである。

そういった広範な問題を論説に取り扱う柳田さんの文章は、当時としては至って平易で、しかもその所論は自由であり、柔軟であった。歯切れのいい結論がいつもあった。

 

昭和二年一月に「文章対社会」という論説がある。ラジオ普及の新しい時代は絶妙のチャンスであるから、文章をやさしくしなくてはいけないという趣旨の論説である。」

「漢字はなるほど由緒ある美術であって、日によって人を動かす力は時として宗教的である。」

しかし

「大昔の朝廷でも神と万民とに耳を傾けしめんとする場合には、物に宜命といふ形式をお用みなされた。------文章は要するに手段だ。目的を達することを忘れるやうな者に、今後は朝廷でもこれを御任せなされぬやうにしたい。」

 

 当時の社会で、皇室に関してよくこういうことが言えたものだと感心させられるのだが、このことは後に、昭和三年の御大典に際し、柳田さんがふたたび皇室にたいして批判的な論説を書き、緒方編集局長の懇請によって、このときは自分で修正を加えている。どんな修正を加えたか社朝日新聞論説集で説明を加えているから、ここに改めて記さない。

平素柳田さんは、所信を率直に述べ、朝日新聞はそれを許した。よき新聞によき論説記者がいたというべきであろう。

 こうして柳田さんは足掛け七年にわたって、週一本ないし二本、時によっては週三本の論説を朝日のために書いている。しかしこの間にもよく旅に出たようだ。その間論説の執筆が欠けているのでもわかる。そして旅の収穫として「花を駅頭に」のような論説も書いている。(東大新聞研究所長)

 






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最終更新日  2020年08月07日 10時12分27秒
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