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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月08日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂翁の出生と甲斐について


佐々木来雪 三世素堂襲号記念集 『連俳睦百韻』を読む。


 俳諧大辞典・:俳諧撰集。三世素堂編。安永八年(1779)秋。

西村源六刊。不二山六百庵道阿序。(寺町百庵のこと)向丘庵欠歯道人跋。

佐々木一徳の来雪庵三世素堂襲号記念集。云々

 この本の所在が判明したのは、素堂を紹介する請書に甲斐国志の隙間を縫うように引用されていて、その所在を求めて山梨県立図書館に立ち寄った際である。「甲州文庫資料」その中に『連俳睦百韻』はあった。筆写本である。無学浅才な私にとっては字体からして判らないし内容もチンプンカンプンである。係の人に写真撮影の許可を得て全文を撮影する。早速我師小川氏に解読を依頼すると、しばらくして「解読出来た」との連絡があり胸踊らせて読み始める。そして素堂翁の家系を記述した部分に巡り合い、永い間求めていたので、その時の感動は忘れることが出来ない。

 これまでこの連俳睦百韻は今までその全文を紹介された書や研究書は無かったのである。私も甲斐国志の記述を信じていたので、その内容が理解できた時はしばらく放心状態に陥ってしまった程である。『連俳』にはどうしたことか甲斐国志のように素堂が甲斐の国で生れた事を示す記述がないばかりか翁の出生地についても甲斐国教来石村字山口との関連も甲府魚町の山口家の事も何一つ記載はされていなかったのである。

 『連俳睦百韻』は素堂の出生地については直接触れていない。ここで寺町百庵の序文の内素堂の家系についての部分を抜き書きしてみる。

 抑々素堂の鼻祖を尋ぬるに 其の始め河毛(蒲生)氏郷の家臣山口勘助良接接接翁と呼ぶ 町屋に下る 山口素仙堂太良(郎)兵衛信章 俳名来雪 其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ 接法肺して友哲と云ふ 後桑村三右衛門に売り渡し咤び家に及ぶ 其の弟に世を譲り太良(郎)兵衛 其の第三男山口才助一言 林家の門人 尾州摂津侯の儒臣 其の子清助素安 兄弟数多くり皆死す 其の末子幸之助 咤名片岡氏を継ぐ

 これによれば素堂の何代か前の祖先が山口勘助を名乗ったことになる。山口勘助が仕えていた蒲生氏郷は弘治二年(1556)に近江蒲生の城主蒲生賢秀の長男として生れた。

 父賢秀は信長との戦いに敗れ、氏郷を信長に人質として差し出した。信長は氏郷の武将としての素質を見抜き、末の娘冬姫の婿に選んだ。接、氏郷は秀吉に従い南伊勢五郡を領し、松十二万石の城主となった。猛勇の誉れ商い氏郷は秀吉の九州征伐折り、難攻不落の秋月氏の岩石城を一日で落城させた。

 天正十八年(1590)、秀吉は北条討伐に小田原に向かい北条氏規に和議を迫り北条氏は七月五降伏した。その接氏郷は秀吉の命で奥羽に向かい各地の一揆を鎮めた。秀吉は是を評して会津四十二万石を与え、天正十九年(1591)には五十万石を加増され、九十二万石を領した。一説には有能な氏郷を秀吉は左遷したとも言われている。文禄三年(1595)正月に病の後京都で没した。享年三十九才。(「歴史と旅」秀吉をめぐる88人より。) 

山口勘助が蒲生氏郷家の何時辞したか、又いつどの地方の町屋に下ったかは定かではないが、考えられるのはその時期が氏郷の没年時とすれば、素堂の生れは寛永十九年(1642)であるから四十七年前のこととなる。この時点の山口勘助の年齢は判らないが、 

山口勘助・:?○○○○:・9・○○○○・・・山口素堂

 鼻祖山口勘助は「任を辞して町屋に下った」とあるがその場所が、甲斐か京都か大阪か江戸なのかは判明しないが、甲斐国志の言う素堂の家は巨摩郡教来石字山口に住み地名を取り山口姓を名乗ったということは有り得ない事になる。当時山地の多い甲斐においては「山口」という地名は無数にあったのであり、小字名として冬山の登口、入口は『山の口」なのである。

 甲斐国志の編纂は文化二年(1805)に始まり文十一年(1814)に完成した。連俳睦百韻は安永八年(1779)に編まれているのでそこには三十五年の差がある。甲斐国志の著述者はどんな文献・書籍を参考にしていたかは知れないがこの連俳睦百韻は参考にしていなっかたのではないかと思われる。

 素堂の家は山口拗助・:?OO・:山口太郎兵衛(素堂)・弟、太郎兵衛(後法鉢して友哲)桑村三右衛門詫屋に及ぶ。

 素堂の家系は

 山口勘助:・?○○・・・

山口太郎兵衛(素堂)

山口才助

山口清助(素安)

山口幸之助(咤名片岡氏を継ぐ)となる。

 この中で第三男の山口才助は本来素堂の嫡男であり、清助素安は素堂の嫡孫であることは、この連俳睦百韻と寺町百庵の愛息の追悼句集である『ふでの秋」(享保二十年-1735刊)によって間違いのないところである。しかし山口勘助の実在を示す他の資料は未だ見ることが出来ないが、伊勢地方には従来山口姓は多くあり、かの「信長公記」の中にも山口太郎兵衛を始め山口姓の名称が見えるがそれが素堂の家系と関係あるかは現在のところ定かには出来ないでいる。

 山口素堂は連俳睦百韻によると、太郎兵衛・信章であり、甲斐国志のいう山口官兵衛や山口市右衛門の名称は見出せない。翁が編んだ「とくとくの句合」の刊行時の雷堂百里の駄文には素堂は「松兵衛」を名乗っていたことが記されている。又素堂の家と甲府中魚町山口市右衛門家が何処で結ばれたかは甲斐国志編纂当時の資料からでも読み取る意外にはないのではないか。

 結論としては連俳睦百韻からは素堂が甲斐巨摩郡教来石字山口の生れで甲府魚町に移住し酒造業を営み当時の人に「山口殿」言われる富家であったとは何一つ記されていない事実である。

 蒲生氏郷は織田信長に従い甲斐に武田勝頼を攻め諏訪口より、台ケ原に陣を張り翌日には韮崎の新府城を攻め落としている。思いを巡らせば蒲生氏郷の家臣山口勘助は怪我か病で進軍中に甲斐山口でリタイヤ、そのまま居附いてしまった。そして………

 尚、蒲生氏郷の家臣にはかっての武田家の武将も含まれている。武田家滅亡後京都にて士官したものと思われる。又蒲生氏郷はキリスト教の信者でもあり洗礼名はレオといった。又、茶人としても利休七哲のひとりで文人としても名高く辞世の句は

「限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山かぜ」

である。

 この連俳睦百韻を編んだ佐々木一徳は三世「素堂」を襲号している。一世は勿論山口素堂、二世は寺町百庵(素堂翁の嫡孫の山口索安が「ふでの秋」の中で自らは俳句を詠まないので寺町百庵に『素堂」号を委譲する旨の文が見える。)は素堂号を使った様子は見えないが、佐々木一徳来雪に索堂号を与える事と成る。

佐々木来雪が三世を襲号したが索堂号がその後どうなったかは不明である。素堂号ではない甲斐国志と同じ索道の名が「妻林業」(元文四年・1739~延享五年・1748の間の刊)又「妻林集後編」(五々斎素道編。宝暦九年・1759)の五々斎素道については不詳。又京都の大路という者が佐々本来雪が三世素堂を名乗る前に素堂名を無断で使用していたと記されている。

 索堂の親族とされる山目黒露も甲斐の出身とされ、諸書には酒遺業の山口市右衛門家を継いだ家僕の子と記されてあるが、これは間違いと思われる。連俳睦百韻には次ぎのように記してある。

雁山の親は友哲家僕を取り立て、山口氏を遺し山口太郎右衛門、その子雁山也。後浅草御蔵前米屋、笠倉半平子分にして、亀井町小家ある方へ婿に遺し、其の後放蕩不覇にて業産を破り、江戸を退き遠国に漂泊し、黒露と改め俳諧を業とし八十余にして終わる。

 甲府の山口屋が富家と甲斐国志にはあるが、素堂十九才の折り、江戸に出たとされる前年の万治三年(1660)には甲府は大火事にあっている。魚町を始め府中は全焼してしまったのである。甲斐国志では素堂翁は家督を継いだと解釈できるので長男として家を再建しないで、江戸に出たのであれば家督を継いだ長男として不自然であり、有りえない事である。

考えられることは翁は幼少より遊学していたので家業は早いうちに弟に実権を委せていたとの仮説も成り立つが、甲斐国志によれば元禄九年には身を挺して父母の国の為にと濁河工事に尽くしたのであるから火災直後の寛文初年に江戸に出たとの説は成り立たない事になる。

 素堂翁は寛文六年には江戸山口信章として俳諧にデビューしている。山口屋市右衛門は素堂とは別家、別入の可能性が高い。

 しかし連俳睦百韻を無視してはならない。いかに甲斐国志とかけ離れた内容であっても序文を記した寺町百庵が素堂の家系を偽り書く必要は何も無いのである。素堂の家系や略歴を書す場合は両書の信憑性を示す書物を示してから記すべきある。一書をもって真実のように書くことは避けなければならない。ましてや両書の都合の良い部分を繋ぎ合わせて、それが真実の様に書いたりすることはそれを読む人に戸惑いを与え真実を歪めて伝える事となるので心したいものである。

 連俳睦百韻の信憑性を確認する為に山口勘助を初め蒲生氏郷の家臣団や近畿地方の山口姓など、調査して後日またその結果を報告することとする。

 連俳睦百韻には素堂の「無弦の琴」を抱えた素堂像を京都市中の古物屋やで発見したとの『素堂像感得の記」も掲載している。木像で晩年の素堂翁の姿を伝えている。この素堂像は素堂死去の翌年(享保二年・1717)に茶瓢(江都の入)と酒堂で作成したものである。馬光は寛保三年(1743)素堂の像を芭蕉像とともに桃青寺境内の芭蕉堂に安置して供養したと萩原義月氏の「芭蕉の全貌」(昭和十年刊)に掲載されている。この像が茶瓢らの作成した素堂像かどうかは定かではない又素堂像のその後については不詳である。

 甲斐国志〔甲〕と連俳睦百韻〔連〕の比較

〔甲〕索道(索堂と同じ)官兵衛 信章 字は子晋 一云公商、其の後歯仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。

〔連〕山口索仙堂 太郎兵衛 信章 俳名来雪。

〔甲〕其の先は州の教来石村山口に家す因て氏と為す。後に居府中魚町移る。

〔連〕抑々歯堂鼻祖を尋ぬれば、蒲生氏郷の家臣山口勘助町屋に下る。

〔甲〕生れ 寛永十九年五月五日。

〔連〕生れ 寛永十九年一月四日。

〔甲〕家督 遂に舎弟某に家産を譲り(弟は市右衛門を襲名)自ら官兵衛と改める。

〔連〕其の弟に世を譲り後の太郎兵衛(後法肺して友哲と云ふ)

〔甲〕享保元年八月十五日没 葬谷中感応寺、甲府尊肺寺にも碑あり、法誹真誉桂完居士

〔連〕享保元年八月十五日没 谷中中瑞院に葬る。

〔連〕その他、連俳睦百韻のみに記載されている事項

   索堂師ははじめ来雨とかいへる。

  …… 参考 

  寺町百庵  俳諧大酔典より

   元禄八年(1695・素堂五十四才)~

   天明元年(1781)八十七才。

 越智言満、通称三知、幕府御坊主衆の家に生れ、正徳四年(1714・素堂翁七十三才)頃、百俵二人扶持の家業を継ぐ。茶は伊佐幸琢門。歌は冷泉為久、為村門。連歌に執心し、柳営連歌師の戦を狙って罪を得、太鼓坊主に降格され、以来一生を遊蕩と俳諧に暮らし、江戸座都会旅人の独武者として過ごした。家系は素堂につながる故に、俳諧は素堂門とも思えるが、直接には青眼門であろう。云々

 私註:・寺町百庵は江戸の豪商、紀乃国屋文左衛門が吉原で豪遊した折り小粒銀を蒔いた時の蒔き手であったと伝えられている。

文左衛門は芭蕉の門人其角とも交わり素堂翁の俳諧一蘭集の序文を写した当時の江戸を代表する書家、佐々木文山とも交友があった。寺町百庵にしても山口黒糞にしても今でいう大変な遊び人であったのである。寺町百庵・山口馬糞・山口素安についての詳細は別に述べることとする。






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最終更新日  2020年08月08日 09時56分29秒
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