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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月10日
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カテゴリ:山口素堂資料室
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荻野清氏著 山口素堂の研究 上   国語・国文学

   昭和七年一月号  

 『春泥発句集』『鬼貫句選』の序跋、及びかな『點印論』に於て、蕪村が他の四子と共に素堂の風格賞揚し素堂の洒落を法とすべしといっているのは、洽く知られてゐる事である。

   蕪村には、尚、素堂の「浮葉巻葉」に模した句があり、又同じ素堂の句を發句とした脇起しの試もあった。蕪村の實際の作句に就いて見るも、彼が素堂の粉骨を模した跡は明かに看取出来る所で、

  柳

 の如きも、嘯山の言を待つまでも無く、そのまゝ素堂の風格である。かくて、素堂は天明の偉才蕪村に依つて摂取せられ、その骨肉となったもので、之に加ふるに、更に素堂が蕉風の開発に参興したといはれる事、芭蕉と終始渝らざる懇情を持してゐた事、芭蕉没後にも元老として隱然俳壇に重きをなしてゐた事、及び彼が葛飾派の祖と稱されてゐる事等を併せ考へれば、當然彼の名は俳謎史上逸すべからざるものとして恩惟せられてくるのであり、彼の人物及び俳諧の検討が、決して疎にせらるべき性質のものでない事に思ひ到るのである。今、彼を論ずるに當り、私は順序として、まづ彼の生涯より筆を起さうと思ふ。

 

  一、生涯

  山口素堂、名は信章、字は子晋又公商、通称を勘(官)兵衛(太郎兵衛・松兵衛・佐兵衛・太郎衛等の異説あり、今一般の呼稱に従ふ)素堂は素仙堂の略といふ(連俳睦百韵)。別號として来雪、松子等を稱した。尚来雨の號があったと『連俳睦百韵』はいってゐるが、之は明かでない。彼は、又茶道に於ける庵號として、今日庵、其日庵を稱してゐる。

  山口家は、その祖山口勘助良侫(蒲生家の家臣)以来、甲斐国北巨摩郡教来石山口に土着した郷士であった素堂は、その家の長子として寛氷十九年五月五日(一説に正月四日)に生まれたのである 。即ち、芭蕉に先んずる事二年であった 。彼は幼名を、『甲斐国誌』に依れば、重五郎といひ、長じて家名市右衛門を継いでゐる。暫くして、家督を弟に譲り、勘兵衛と改名して上京した。山口家は、後年甲府に移住したのであるが、それは恐らく、素堂の少年時代であったらうと思われる。山口家は、甲府に於いて、魚町西側に本宅を構え、酒造業を営み巨富を擁し(功刀亀内氏蔵…『写本酒之書付』及び『貞享上下府中甲府再見』に依る)、『甲斐国誌』にも「家頗る富み時の人山口殿と稱せり」と記す如く、時人の尊敬を享けたのであった。かゝろ正しき家柄と、巨富ある家に、幼少年期を過した素堂は、必ずや、端厳且つおっとりした気風を持って長じた事と思はれる。

  とかくして、彼は、江戸に遊学のため出づる事になった。その時期は、勿論明確な事は云へないが、先づ寛文初年廿歳頃と推測される。元来山口家には好学の血が流れ、素堂の末弟の如、きも、林家の門人にて、尾州摂津守侯の儒臣であったといふ。彼も又少より学を好み、為に、あったと思はれる。彼が性格として又好学のため、酒造の如き家業を厭つた故もあつたらうがが、ともあれ此巨萬の富ある家を惜気なく弟に譲った事は、以て、彼の執着心の乏しさを、察するに足るものである。江戸に於いては、一般に、林春斎に就いたといはれている。 これに就いて、確たる文獻は無いが、人見友元が素堂を評して、「林門三才の随一たるべし」(斎藤氏紹介の『含英随記』に依る)と述べてゐるのに依って、少くも彼が官学の流を汲んだ事は疑ひ無い。彼が、斯く若くして、漢学を学び、しかもその深さ素養を有するにいたつた事は、彼の後年の人物俳風を考へる際に、かなり大きな意義を持つものであり、閑却出来ない事である。さて、彼は寛文五六年の頃、大和三輪神社に詣でてゐる。京へも勿論その折上った事と思われ、彼が和歌を清水谷家に、書を持明院家に受けたといふ『甲斐国誌』以下の説が、もし真ならば、この上洛の際に学んだのであるかも知れない。大躰、江戸出府以後、寛文末までの彼の消息は、甚だ明瞭を缺き、いかに穿鑿するも要するに憶測に止まり、たゞわづかに、彼の俳諧生活に就いて、二三の知識を得るのみである。彼の俳生活については後に一束して述べる。兎に角、此頃の彼が、未だ立身出世を目指して、齷齪してゐた事は信じて誤なからう。延宝年間に至れば、彼は後述の如く風雅にいよいよ傾いてゐる。併し、その頃、彼は尚、疎にすべからざる何等かの公職(恐らく儒を以て仕へしなるべし)を持ってゐたのであって、彼がさらりと職を抛ち、風雅専一の閑居生活に入ったのは、延宝七年長崎旅行より帰還した後であった。(こゝにいふ風雅とは箪に俳諧に限らず更に廣汎のものを意味する)今、彼の職に就いて、私は単に何等かの公職とのみ記して置いたが、事の序に茲でいさゝか筆を費して置かう。彼は後にもいふ如く、元禄九年甲斐濁河の治水に、代官櫻井孫兵衛の依頼によって助力したのであるが、その當時の事を記して例の『甲斐国誌』には「素堂ハ薙髪ノマゝ、挾二双刀一再ヒ稱二山口官兵衛一」といってをり、又若海の『俳諧人物便覧』には、素堂の職を普請役」なりしと明示してゐる。これらによっても元来彼が双刀を挾んだ地位にあった事が覗はれる。これら後世の編著はしばらく信じがたしとするも、彼自身の遺作によってやはり略似に結論を導き出し得るのである。​​​





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最終更新日  2020年08月10日 16時04分56秒
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