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柳沢吉保一代記 文昭日記(一部加筆)
宝永六年六月三日の項 甲府の城主松平美濃守吉保隠居す、子古里継ぐ(十五万千二百八十八石、二男経隆、三男時睦に、各一万石の地を分つ)。 【吉保は柳沢兵部丞信俊の孫】 柳沢吉保は、甲斐の武田の支流にて、柳沢兵部丞信俊が孫なり。 【吉保の父。信俊が二男を、刑部左衛門安忠】 信俊が二男を、刑部左衛門安忠と云ふ。元和元年より駿河大納言殿につかへ、 寛永十六年にめし返されて、上総国市葉村にて朱地を賜ひ広敷番となり、 又館林殿につけられて、延宝三年に致仕し、貞享四年に死す。 【柳沢吉保】 吉保初名は弥太郎房忠といふ、後保明に改む。 寛文四年に初めて常憲公に見え奉り、父の後を継て百五十石を領し、三百七十俵を加ふ。 寛文八年に本丸の小納戸となり、 貞享二年の冬叙爵して出羽守に任ず。 是より先に、頻りに加恩ありて、 元禄元年十一月地加へられ、始めて万石の列となる(和泉上総にて万石加へられ、合せて一万二千三十石)。 この比、公盛んに文学を好みて、吉保を以て弟子とし、学問怠らざるを賞して、曾子の像を画きて之を賜ふ。 天和二年の正月元旦、読書始の式を行はれしに、吉保をして、大学三綱領の章を講ぜしめ、永例として年々之を仕ること怠らず。此の時松平忠周、喜多見重政の列に同じく、内外の事承るべしと命ぜらる、御用御取次と云。 天和三年三月二十六日、二万石を増し、 天和三年十二月十五日、年比の勤労を賞して、四品にのぼり、二本道具もたすべき旨を命じ、 四年三月はじめて其の邸に臨む。これよりさき、邸内新たに殿舎を経営す、結構宏一麗、臨駕の日、母妻子及び一族等に至るまで、皆拝謁して物賜ふこと、あげて数へがたし。 吉保も亦数々の宝貨をささげ、山河の珍味をつくして之を饗す。 これより後、しばしば臨邸ありて、凡そ五十余度に及ぶ。 先親から経を講じ又は武芸を試み、家臣等をして経を講じ、義を論ぜしめ、又猿楽を催し、宴楽を開くこと、いつもかはらず。 元禄五年十一月、三万石まして六万三千余石になり、 元禄七年正月には、又一万石を加へて、川越の城主になさる。 元禄七年十一月二十五日、老中に同じく評定所に着座し、侍従に昇る。 元禄十年七月、東叡山に根本中堂営まれしに、惣奉行となり、二万石をくはへ、 元禄十一年七月、其の落成の功によりて、左近衛少将に昇り、中堂長時不断の燈をかかぐ。 これ延暦中比叡山の常燈を、忠仁公勅使として掲げられし例に倣はれし所也。 元禄十一年九月八日、紅葉山拝礼の先立を勤む。これより三山の拝礼に、父子代る代る先立を勤む。 元禄十四年十一月二十六日、臨邸の時、父安忠より以来、忠貞をつくすこと、 凡そ臣たる者の模範たるべしとの旨を以て、松平の称号をゆるされ、諱の字賜はりて、松平美濃守吉保と改む。 子三人も同じく称号をゆるし、長子安暉は諱の字賜はりて、吉里と改む。 元禄十四年十二月二十一日、吉保を少将の輩に列し、官位年順たるべしと命ぜられ、 元禄十五年三月九日、桂昌院尼を一位にすすめられしこと、吉保が申し行ふ所なればとて、又二万石をまし、合せて十一万三千三十石になる。 元禄十六年正月三日謡初の式に、吉保父子に大広間にて盃賜はるべしとぁりしが、吉保切に辞して、子吉里にのみ賜はれり。 元禄十六年十二月二十一日、将軍の儲嗣に定まりしこと、偏に吉保が執り行ふ所にして、何事も整備一事の欠漏なきを賞し、殊に甲斐の国府の城を賜ふ。其の税額は二十万石に余りぬれど、猶十五万千二百八十八石余と称す。 これより後は、甲斐国主と称すべしと命ぜられ、 宝永三年七月二十九日、甲府に於て私に金貨を造ることをゆるされ、九月四日に打物もたすることをゆるし、此の日隠居して保山入道と号し、此の後も時々の恩遇、在職の時に異ならず。歳毎の正月七日には、羽織着して登営し、大奥までもまかりて、御台所を拝すること年々かはらず。 正徳四年十一月二日卒、年五十七。
此の人の一代、殊に恩寵を蒙りて、身の栄燿を極めしことは、徳川氏勲旧、前後諸臣のなき所にして、威福を弄し奢多に耽りしこと、亦世の類ひなき所なり。但し性質伝才ありて、能く迎令に巧みに、陽に忠実を以て君の信を得、希代の寵遇を蒙りしは、偏に便嬖の致す所なり。されど性亦謹慎にして、敢て愚悪を肆ままにするの心あるに非ず、是其の始終君寵を 失はざりし所以なるべし(保山行実に、日々御登城被遊候へ共、暁六半時比、御城詰御小姓衆迄、御手紙にて毎夜の御機嫌御伺被遊候、又常に常憲公の為に、男子誕生あらんことを祈られし由見へ、又蔵人は、権現様の御名故、後々迄も、遠慮可仕旨被遊御意候とあり、是等の事、以て其の小心なることを推知すべし、又鳩巣の手簡に、瑞春院御前へ、保山事被罷在、御仕置之改り候事共、色々被申上候て、近年御徒之内何某、深川にて魚を釣、生類御憐みの御法を侵候に付、流刑に仰付置候、然る所、其2者を被召返、御赦免被成候迄にても無之、此の間上野へ御供も無構相勤候様被仰出候、是は余りなる事に御座候旨、被申上候所、瑞春院様屹度御詞を被改、扱は常憲院様近年の御政道、御尤なる事と被存候や、すきと箇様の事共、其の方など被致候事に候、此の度段々御改め被成候を、却て左様に被存候儀は、相聞不申儀と被仰候所、保山一言も不申、退出に候、云々とあるが如きも亦保山が心のほどを推測るべきものなり)。 其の身文学に志し、又倭歌を好み、己が味草に、かしこくも東山院の勅点を乞ひ奉り、芳ら禅学を嗜みて、みづから著す所の書を、護法常応録抄と題して、院の御製序を賜はり、名山におさめ、又其の比堂上の中に識者と聞えし、正親町一位公通公の妹を迎へて妾となし、「松蔭日記」とて、わが身の栄華を筆記せしめ、駒込の別邸に十二景を設け、これをも院より名を賜はらんことを請ひ奉り、公卿の味歌を集めて清観となす。其の邸中の異樹珍石は、皆諸大名の贈る所にして、仮山泉水、悉く風致を極め、奢一麗を尽したりと云。
世には此の人の栄華を憎む心の甚しきより、くさぐさの訛謗を伝へて、涯褻僣乱のことありなど伝れども、其は皆信ずるに足らざる也。
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最終更新日
2020年08月10日 18時14分27秒
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