2310114 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020年08月12日
XML




市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)

 

『日本逸話大事典第八巻』

編者 白井喬二氏・高柳光寿氏

 発行者 八谷政行氏

 人物往来社 昭和42

  一部加筆 山口素堂資料室

 

元禄期から続く歌舞伎役者の名跡。名実ともに江戸歌舞伎を代表する名として、代々劇壇に特別の地位を占めてきた。

荒事を家の芸として伝える。

現在までに十二代を数えるが、ここでは初代、二代目、五代目、七代目、八代目、九代目の六名を演劇史に特筆される名優として紹介する。

なお、三代目と六代目は二十二歳で早世。

四代目は宝暦四年(一七五四)四十四歳で團十郎を襲名したが、明和七年(一七七〇)実子に五代目を譲った。実悪を得意とした異質の團十郎であった。安永五年(一七七六)六十六歳で引退、深川木場に

隠棲し「木場の親玉」と呼ばれた。同七年没。

 

市川團十郎【初代】

 

『日本逸話大事典第八巻』

編者 白井喬二氏・高柳光寿氏

 発行者 八谷政行氏

 人物往来社 昭和42

  一部加筆 山口素堂資料室

 

生歿 万治三年~元禄十七年(一六六〇~一七〇四)。

出世には諸説あり、不明な点が多い。

立川焉馬の『市川團十郎家譜』によれば、

祖先は甲州(山梨県)の武土だったという。

父の堀越重蔵(十蔵とも)が慶安年問に江戸へ出て和泉町に住んだ。

地子総代人を勤めたというから人望もあり、親分肌だったようで侠客とも交わり「菰の重蔵」「面疵の重蔵」と呼ばれたという。初代が生まれたとき、親しかった当時有名な侠客の唐犬十右衛門が名付け親となり、海老蔵と命名された。 

芝居が好きで、十二歳で役者になる決心をしたという。

初舞合は延宝元年(一六七三)十四歳のときで、市川段十郎と名乗り、江戸中村座の「四天王稚立(してんのうおさなだち)」で坂田公時を演じた。このとき顔に紅と墨で隈をとり、全身を紅で塗り、童子格子の衣裳に丸ぐけの帯を締め、大太刀をさし斧を振りあげて登場し、大立廻りを演じたという。これ、が事実なら、荒事の演技や化粧法、扮装などの基本はこの時すでに形作られていたことになる。

また一説には貞享二年(一六八五)「金平六条通ひ」の坂田金平を勤めたのを荒事の創姶とする。この

金平役は、先行の金平浄瑠璃を取り入れたものであろう。

金平浄瑠璃は、坂田公時の子の金平をはじめとする四天王の子どもたちが活躍する語りもので、それに合わせて演じられる人形芝居では悪人の首を引き抜いたり、岩を叩き割るなどの豪快な演出が人気を得ていた。

これを参考にして、團十郎は荒々しい力の表現と幼児神の聖性を創出したのである。

延宝三年には「勝鬨誉曽我(かちどきほまれそが)」で曽我五郎時致を演じて好評を博し、以後この役を当り芸にしてたびたび演じた。

曽我兄弟の物語は中世から広く民衆に愛されてきたが、とりわけ五郎はその恨みの激しさと荒々しい于不ルギーで、一種の荒ぶる神として祀られてきた。

五郎は御霊に通じるという民俗学の通説によれば、曽我五郎も「暫」の鎌倉権五郎も御霊であり、荒ぶる神の性格を色濃くもっていた。

 

市川家と成田不動尊との結びつきは、

祖先が甲州から下総目(千葉県)埴生郡幡谷村に移住して以米の縁という。

初代も成田山を深く信仰し、自身「成田山分身不動」で不動の分身を演じている。

当時の歌舞伎狂言では、最後に神霊が現れて悪を懲らしめたり、身代りの奇蹟を現すというシチュエーションがあり、それを神霊事といった。

團十郎はここで密教の不動明王の忿怒と降魔の相を現して、修験道に連なる民間宗教の現人神を演じてみせたのである。

このように團十郎は、荒事芸を単なる雄壮活発な荒武者の演技から、民衆の心意に根ざした荒ぶる神の聖性の表現へと昇華させることで、江戸歌舞伎の中で特別の地位を獲得したのである。

当時の江戸は幕府を中心に旗本・御家人、全国から集まる大名とその家臣団、仕官の口を求める浪人など、武土の人口が圧倒的に多い特異な土地であった。住民の大半は地方からの出稼ぎであり、男が女の倍以上いた開拓地で、粗野で単純で荒々しい気風が満ちていた。こうした風上に團十郎の荒事はぴったりだった。

元禄六年(一六九三)京に上った前後に、段十郎を團十郎と改めたらしい。

京では彼の初上京が大評判となり、村山座は連日札止めとなった。

当時の俗謡にも

「お江戸團十郎見さい、京の名物ひとつ升、ますます評判高櫓、丸に釘貫白鳥毛、朝日に輝く目出たさは、ほんに結ぶの数へ唄」

と唄われている。

「歌舞伎事始」には、

團十郎が京で名人坂田藤十郎に会い、その姿形と立居振舞いの美しさに

「藤十郎が京にいる限り、江戸の役者は上がらせまい」

と言ったという話を載せているが、京の書肆八文字屋の出版物だけに、そのままには信じ難い。彼の芸は上方の風には合わなかったとの説もあるが、で八年に京で出版された評判記「役者大鑑」には

「諸芸幅ありてよし。口上の詰開き、身の働き、男に相応してよし。その外、敵役のならぬ事をもつとめ給う。実事、修羅、愁嘆、濡事、やつし、舞拍子何にても能く間を合はさるれば、立役というても苦しからず」

と絶賛されている。

彼は京で俳人椎本才麿に入門し、才牛という俳名を与えられている。その芸が荒事のみでなかったことは、貞享五年(一六八八)の役者評判記「野郎役者風流鏡」にも

「この市川と申せしは三千世界にならびなき好色第一の濡れの男にて、御器量ならぶ者なし。丹前の出立ち、なお見事なり。せりふ、天下道具なり」

「実悪、悪人、その外なにごとを致されても、おろかなるは無し」

「おそらくは末代の役者の鑑ともなるべき人なり」

とあることからも推察される。

三升屋兵庫の名で作・演出もした。

役者、が台本を書くのを文武両道に通じた武土にたとえ、自分の芸に合った台本を作れば「鬼に金棒」だと述べている。

のちに歌舞伎十八番として市川家の芸となる「鳴神」「不破」「暫」などの原型を作り、初演した。その作品の台詞ひとつを見ても、かなり学問があったようだ。元禄十四年の「星合十二段」はのちの「勧進帳」の弁慶の原型とされるが、大当りで見物が後から後から詰めかけて「押合十二段」だと言われた。

熱烈な信心家であった。彼が書いた願文が伊原青々園によって紹介されている。興行主が給金の高い彼を使おうとしないといって怒り、およそ興行主くらい打算高い者はないと非難し、役者という職業の不安定さに悩み、家族の生活の危機におびえている。

そして一家の無事息災を祈り、江戸随一の役者となって更に給金の上がることを祈願して、毎朝水垢離をとり禁酒し、妻以外の女色と男色を絶つことを誓っている。

豪快な舞台とは裏腹に、真面目で几帳面で内省的な性格で、親孝行でもあった。

元禄十七年二月、市村座で「移徒(わたまし)十二段」に出演中、同じ芝居に出ていた役者生島半六に楽屋で殺された。原因は不明である。享年四十五歳であった。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月11日 14時38分44秒
コメント(0) | コメントを書く
[歴史 文化 古史料 著名人] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X