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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月12日
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    市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬 

  

 『江戸時代おもしろ人物百科』 

 寛保三年(1743)に生まれる。

 本名は中村利貞。字は英祝。通称和泉屋和助。別号立川焉馬。談洲桜。桃栗山人柿発斎。 本所に住む大工の棟梁だったので、狂名は鑿 言墨金という狂歌師であり、洒落本、黄表紙、合巻などの戯作もあり、五代目市川団十郎と義兄弟になって戯作にも手を染めた。落語は彼の余戯であったが、天明六年(1786)四月十二日、大田南畝、鹿都部真顔の協力をえて、向島武蔵屋方で噺の会を開いた事が契機となり、以後も文人達の協力で再三噺の会をひらき、噺本も刊行して、鹿野武左衛門以後絶えていた江戸落語中興の祖という役割を果たした。

 主著は演劇史『歌舞伎年代記』、洒落本『客者評判記』、噺本『喜美談話』『詞葉の花』『無事志有意』など。文政五年(1822)六月二日に没した。享年八十歳。

 

 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬

  『江戸文人おもしろ史話』杉田幸三氏著

 年80歳。江戸出身。寛保三(1743)~文政五(1822)

 本所の相生町にいた大工の棟梁和泉屋和助が通称である。五世団十郎と仲がよく、団十郎の名をもじって「談洲楼」という号がある。

 父の職を継ぎ大工の棟梁となった。が、どういうものか自宅では木綿製の足袋を売ってい た。大工の棟梁からきた狂号を「鑿言墨金」と称した。

 相生町の家は、上り口から六尺四方の三升(三升とは紋所の名。大・中・小三個の升を入れ子にし、上から見た形を図案化したもの。団十郎の家紋として有名)形。上部には、五世団十郎が男之助に扮した時の上下でつくった揚幕を垂らしていた。

 さらに二階に二室あったが、畳に三升の模様を織り出し、一室の天井は同様、三升形の網代天井とし、障子の骨まで三升だった。

 また襖や畳の縁を見ると、団十郎の十八番の暫に着た柿色の素袍を使っていた。それでいて、洒落本、草双本、笑話作家なのである。云々

   

 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬  

 『歌舞伎の世界』「象引考證」服部幸雄氏著

 烏亭焉馬が熱烈な五代目団十郎の贔屓で知られ、義兄弟の契りを交して、談洲楼(だんじゅうろう)と名乗ったほどであったことを、改めて言うに及ぶまい。馬(焉馬)の守護神である猿(五代目は俳名の文字を白猿と改めた)の民族についての知識も、両者の関係 の親密さを物語るもののように思う。

 焉馬は「花江都歌舞伎年代記」を編纂する一方、天明九年(1789)刊の「江戸客気 団十郎贔屓」を端緒として、寛政四年(1792)刊の「御江都錺蝦」から文政元年(1818)刊の「以代美満寿」に至る、いわゆる「白猿七部集」を次々と編集し、出版した。これらの書を検すると、焉馬が早い時期から、市川団十郎代々の当り芸を抜き出して紹介しようという意識を抱いていたことがはっきり見てとれる。云々

 

 『明和伎鑑』……「筑波大学図書館所蔵」

   『市川団十郎』内掲載。西山松之助氏著  市川家

 元祖市川團十郎三ケ津立役の開山

 才牛。下総佐倉の住人。幡谷村(一本、成田)

 堀越某の男。幼名海老蔵。居宅、深川木場。

 

 さて市川家と甲斐の関係が見える資料に次の著がる。

 

 甲府の芝居と亀屋座(四)…… 小沢柳涯著 『甲斐』第四號所収

 

 ○ 寛政五年(1793)六月、市川蝦蔵(五代目團十郎)来る、狂言は「御前戀相撲曽我」に「鏡山」。 局岩藤。工藤祐經(蝦蔵)、お初(富三郎)これは江戸河原崎 座の於ける狂言にて、市山富三郎は瀬川菊之丞なりと。

 ○ 此年秋八月、お馴染みの坂東彦三郎、瀬川菊之丞と共に来り、「假名手本忠臣蔵」を演じ、彦三の由良之助と菊之丞の顔見尤も好評あり。

 ○ 同七年六月、又々蝦蔵一座、亀屋座に来る。狂言は「碁盤太平記白石噺」、大切浄瑠璃の作事「積變雪 關扉」にて、初代男女蔵初めて登場。男女蔵は白猿門下の秀才にて此時歳漸く十五。

 ○ 同九年六月、重ねて市川蝦蔵来る。白猿一世一代の触込にて、乗込み前より夥しき人気なり。外題「菅原傳授手習鑑」。

 ○ 役割は、源蔵女房千代(佐野川市松)。菅丞相、武部源蔵(坂東三津五郎)、松王丸 (蝦蔵)

 ○ 蝦蔵は前年(寛政八年)十一月、江戸の都座にて「大當源氏」に碓井貞光「暫」に修業者實は相馬太郎、二番目に山姥の分身を勤め、之を一世一代として舞臺を退き、成田屋七左衛門と改名して江東向島に閑居せりとある故、甲府へはお名残りの為時に出演せりと思はる。

 

 さて市川団十郎と言えば成田山新勝寺との関係が深い。その成田山と団十郎の関係については次の著がある。

 

    成田山新勝寺…『郷土資料辞典』「千葉県・刊行と旅」

 

 (前文略)

 寺は中世に入ると衰退したが永禄九年(1566)成田古薬師に移転され、近世初期、 佐倉藩の祈願所として復興された。元禄十三年(1700)香取郡医王院から入山した昭範上人は寺の再興を図り、宝永二年(1715)寺基を現在地に移して諸堂塔を造営、寺 観を整えるとともに、不動尊の霊験を世に広く宣伝し、多くの信者を集めて、今日の隆盛 の基礎をつくった。昭範上人が中興第一世とされている。

 江戸の市民たちの、信仰とレクリエ-ションを兼ねた「成田詣で」が盛んになったのもこのころからで、その要因の一つとして、江戸出開帳と、歌舞伎役者の初代市川団十郎があげられる。

 江戸出開帳とは不動明王本尊と二童子像を厨子に納め、佐倉街道を経て江戸に出向くことをいい、第一回は元禄十六年におこなわれ、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院も参拝したという。以後明治31年最後の深川出開帳まで十五回を数え、江戸市民と成田山の接触を深めた。

 初代市川団十郎は今の成田市幡谷の出身で、団十郎の屋号を成田屋と呼ぶのも、これによる。子宝に恵まれなかったが、ひたすら不動尊に念じて一子九蔵、後の二代目団十郎を授けられてから不動尊を取り入れた芝居、いわゆる荒事芸を演ずるようになった。これが当たって、市川団十郎とともに成田不動の名を、江戸市民に深く印象づけることとなった。 七代目団十郎も成田山の授り子といわれ、天保十三年(1842)、老中水野忠邦による天保改革の奢侈禁止令に触れて江戸を追われたとき、成田屋七左衛門と名を改め、暫く成田山内の延命院に身を寄せている。

 

    初世市川団十郎 荒事開山(『日本の歴史』「任侠の群像」今尾哲也氏著)

 

 江戸の随市(一)川とたたえられて久しく江戸歌舞伎に君臨した市川家の祖初団十郎は町奴の子であった。

 父は堀越重(十)蔵。下総国羽生郡幡谷村の富農の家に生まれたが、生来農業を嫌い、 任侠の道を好んで、正保年中(1644~47)、家を弟に譲り、江戸に出て和泉町に住み、名を幡谷重蔵と称した。豪気な性格に加えて筆も立ち、計理の才もあったところから、地主の代理人となって信望を集めた、その間、唐犬組の首領唐犬与兵衛(のちに十右衛門)や幡随院長兵衛などの遊侠の徒と交わり、異名菰の重蔵とも面疵の重蔵とも呼ばれた。母はやはり町奴遅蒔重兵衛の娘。

 その父が三十二歳、母が二十一歳の年に団十郎が生まれた。万治三年(1660)五月 のことであった。唐犬十右衛門は親友に男の子ができたのを喜び、お七夜の日、名付け親となって海老蔵と命名し、自宅に掛けてあった海老の絵を贈ったという。海老蔵は幼時から芝居を好み近くの劇場に毎日のように遊びに出かけ、やがては自分も役者になりたいも のだと願っていた。

 ちょうど父の友人に座主三世山村長太夫がいた。その世話で、間も無く彼の願いはかなえられ、延宝元年(1673)、十四歳の折、市川団十郎と名乗って中村座で初舞台を踏んだと伝えられている。

 貞享二年(1685)という年は、彼個人にとっても、一時期を画する輝かしい年となった。市村座の『金平六条通い』に、坂田金時に扮した団十郎が、荒事の芸に、新しい道を開いたからである。荒事とは和事に対する呼び名で、怪力勇猛の武人や超人的な威力の持ち主の、荒々しい所業を表わす演技の一様式をいう。

 昔から日本人には、ある事物、ある現象の在り方を和と荒の対立によってとらえる習慣 があった。神霊の平和で静かな状態をさして、人々はそれを荒御霊といった。御霊の勢いが烈しさ、猛々しさを示す言葉であったのだ。荒事と呼ばれる演技は、奴つまり任侠、無 頼の徒の粗暴な風俗を写すことからはじまったらしい。ついでそれは、祭らぬ者に恐ろしい祟りをもたらす荒ぶる神(御霊神)のイメ-ジを介して、怒り、荒れ狂い、世の秩序を破壊しょうとする悪人の表現に用いられた。

 団十郎はすでに、そのいずれにも通じていた。その土台の上に、彼は、金平という人物 の創造をとおして、悪を威圧して正義を貫く、超人的な力をもつ武人を表わす荒事芸を生み出したのである。云々

 

    元祖團十郎傳並肖像(『近世奇跡考』山東京傳著)

 

 江戸の俳優初代市川團十郎は、堀越重蔵といふ者の子なり。慶安四年辛卯(1651)江戸に生る。重蔵は下総国成田の産、(〔割註〕或云、佐倉幡谷村の産、『役者大全』に云ふ市川村)なり。江戸に移り住む。曾て任侠を好み、幡随院長兵衛、唐犬十右衛門等と 友たり。團十郎生れて七夜にあたる日、唐犬十右衛門、彼が幼名を海老蔵となづけたるよ し。(〔割註〕今の白猿ものがたりぬ)初名を段十郎とよび、後に團十郎に更む。

 曾て俳諧を好み、奮徳翁才麿の門人となり、俳号を才牛といふ。延宝のはじめ、和泉太夫金平人形のはたらきを見て、荒事といふことをおもひつきたるよし、

(〔割註〕『侠客傳』に見ゆ)延宝三年(1675)五月、木挽町山村座、凱歌合曽我と云ふ狂言に、曽我五郎の役を始てつとむ。(〔割註〕時に年二十五才)延宝八年(1680)不破伴左衛門の役を始てつとむ。

(〔割註〕時に年三十才)衣装の模様、雲に稲妻のものずきは、稲妻のはしまで見たり不破の関といふ句にもとづきたるよし(『江戸著聞集』)に見ゆ、鳴神上人の役を始てつとむ。

(〔割註〕時に年三十四才)鳴神を堕落さする女の名を絶間となづけしは、團十郎のおもひつきたるよし、これ等を以て其才の秀でたるをはかり知るべし。元禄七年イニ六年、京 に上り、同十年江戸に下れり。

(〔割註〕貞享五年(元禄元年)『役者評判記』「野郎立役二町弓」といふ書に、左のごとくあり。此頃の評判記は、おほく半紙本なり。位付なし。元禄の末横切本となり、位付あり。

 

 市川團十郎  住所ふきや町がし

 此市川と申すは、三千世界にならぶなき、好色第一のぬれ男にて、御器量ならぶものなし。丹前の出立ことに見事なり。せりふ天下道具なり。およそ此人ほど出世なさるゝ藝者、又とあるまじ。事実、悪人、その外何事をいたされても、おろかなるはなし。ことに學文の達者にて、仕組の妙を知らぬものなし。当世丹前役者の元祖、お江戸においてかたをならぶるものあらじ。威勢天が下にかゞやき、おそらくは末代の役者の鏡ともなるべき人なり。すえずえはなほもはやり玉はん。歌に

  市川の流れの水もいさぎよく悟りすましたる藝者哉

 

 貞享年中印本(『舞曲扇』)

 江戸狂言役者

○玉井権八 ○南瓜與惣兵衛 ○宮崎傳吉 ○市川團十郎

 かくのごとく、作者のうちにもかぞへぬ。案るに貞享、元禄中の狂言、團十郎の作おほし。(『江戸真砂』)に云、〔寛延中写本なり〕

 元禄年、勘三郎座にて、團十郎荒園の役、切り狂言に、鍾馗大臣に成て、大当りせしが、その姿をえがき、鍾馗大臣團十郎とよびて、ちまたを賣ありく、おのれ七八才の頃、めづらしく、五文ヅツに買ぬ。それよりやゝ外の役者はやりいでぬ云々。

 團十郎、元禄十七年(改元宝永)二月十九日死。享年五十四。芝三縁山中當照院に葬る。法名 門誉入室覺栄。

 柳塘館蔵本に、宝永二年印本(『宝永忠信物語』)と云ふ草紙五冊あり。これ團十郎一周忌追善の書なり。

 市村竹之丞芝居、八島壇の浦の仕組、忠信四番続の狂言に、團十郎、次信の役をつとむ るうち、二月十九日五十四才にて身まかる。幼名を舛之助といふしよし見えぬ。然則星合十二段といふ狂言の時死せしと云ふ説は非歟。

 元祖團十郎実子、二代團十郎柏筵が傳は、あまねく人のしれる事なれは、こゝにもらしつ、今已に名跡七代におよぶは、誠是俳優の名家と云ふべし。

 

 助六狂言の考(『近世奇跡考』山東京傳著)

 ……初代市川団十郎……『江戸時代おもしろ人物百科』

 万治三年(1660)、江戸和泉町に生まれた。父は下総国埴生郡幡谷村の農民だったが、江戸に出て地子総代を勤めた堀越重蔵(十蔵ともいう)。延宝元年(1673)十四歳の初舞台に坂田金時の役で「荒事」を創始したと伝えられる。

 

……五代目市川団十郎…… 山梨人物博物館

 市川団十郎は江戸歌舞伎の盟主とされ、平成四年(1992)まで十二代を数える。屋号を成田屋といい、初代団十郎は延宝元年(1673)九月、十四歳で初舞台を踏んだ。荒事と隈取りの創始者である。

 この初代団十郎の父が堀越重蔵、祖父の重左衛門、曾祖父の十郎家宣は共に甲斐武田家の一門、一条信龍の家臣であった。堀越十郎については、永禄十二年(1569)の相州三益峠の法条氏と戦いで手柄を挙げたことが感状(戦功を賞した文書)として残されている。

 堀越一族は天正十年(1569)三月、主家の滅亡後、相模に逃れ、さらに下総国旙谷村(千葉)に逃れた。

 ここから初代団十郎の父重蔵が江戸に出て町奴などともつき合うようになる。

 

団十郎の祖、堀越氏についての調査

 

 ……山梨県知名辞典……

 三珠町及び市川地方に堀越の地名は見えない。

 武田信玄・勝頼に於ける家臣…『武田家臣団』…

 武田信玄家臣団及び一条信龍の家臣に堀越の姓を持つ者は見えない。

 ……元祖團十郎傳并肖像……

  文化五年『近世奇跡考』(山東京停)

 江戸の俳優初代市川團十郎は、堀越重蔵といふ者の子なり。慶安四年辛卯、江戸に生る。重蔵は下総国成田の産、【割註】或云、佐倉播谷村の産、役者大全に云市川村」なり。

 江戸にうつり住。曾て任侠を好み、幡随院長兵衛、唐犬十左衛門と友たり。團十郎生れて七夜にあたる日、唐犬十左衛門、彼が幼名を海老蔵となづけたるよし、【割註】今の白猿ものがたりぬ」初名を段十郎とよび、後に圃十郎に更む。曾て俳諧を好み、奮徳翁才麿の門人となり俳號を才牛といふ。延寳のはじめ、和泉太夫金平人形のはたらきを見て、荒事といふことをおもひつきたるよし、【割註】『侠客傳』に見ゆ。」延寳三年五月、木挽町山村座、凱歌合曽我といふ狂言に、曽我五郎の役を始めてつとむ。【割註】時に二十五才。」延寳八年不破伴左衛門の役を始めてつとむ。【割註】時に三十才。」衣裳の模様、雲に稲妻のものずきは、

  稲妻のはしまで見たり不破の関

といふ句にもとづきたるよし、『江戸著文集』に見ゆ。貞享元年、鳴神上人の役を始めてつとむ。【割註】鳴神を堕落さする女の名を、雲の絶間なづけしは、團十郎おもひつきたるよし、これらを以て其才の秀でたるをはかり知るべし。

元禄七年、京にのぼり、同十年に江戸に下れり。

【割註】貞享五年『役者評判記』「野郎立役二町弓」といふ書に、左のごとくあり。

 ○此ころのひょうばん記は、おほく半紙本なり。位付あり。元禄末横切本となり、位付あり。

 

……市川團十郎 『歴史人物大事典』角川書店刊 

 江戸時代前期以来の歌舞伎役者。本姓は堀越。屋号は成田屋。万治三年五~宝永元年二月十九日(1660~1704)。重蔵の子。幼名は海老蔵。祖先は甲斐の武士で、父は江戸に出て侠客と交際があった。延宝元年(1673)中村座『四天王稚立』で初舞台を踏み、市川段十郎の名で荒事芸を創始する。三升屋兵庫の筆名で『参会名護屋』(元禄十年)『源平雷伝記』(同十一年)『成田屋分身不動』(同十六年)など十六編絵入り狂言本を残す。市村座で『移徒(ワタマシ)十二段』出演中、一座の生島半六(?)に刺殺された。俳名は才牛。

 ……市川團十郎……『人物大事典』

 江戸の俳優にして三ケ津荒事の開山なり。俳名才牛と曰ふ。堀越十蔵の忰にして万治三庚子年の誕生にて、幼名を海老蔵といふ。其の頃江戸の侠客に唐犬重右衛門といふ人あり。海老蔵といふ名は此重右衛門が付けしといふ。重右衛門より贈りし絹地に海老を畫ける掛物世々市川段十郎の家に所持して秘蔵せり。稚きより伎藝を好み劇場に入る。云々

 

 ……団十郎の系譜…… 『歴史への招待』藤田洋氏著

 初代の事蹟はよくわからない。先祖は甲州の武士堀越十郎、武田家滅亡ののち下総埴生郡幡谷村に移り、その子孫の重蔵が江戸に出て男子を設けたのが、初代団十郎だったという事になっている。異説もある。市川姓は生まれた葛飾郡市川村からとったともいう。

 

 ……初代市川團十郎…… 『江戸時代人物百科』

 万治三年(1660)江戸和泉町に生まれた。父は下総國埴生郡幡谷村の農民だったが、江戸に出て地子総代を勤めた堀越重蔵(十蔵ともいう)延宝元年(1673)十四才の初舞台に坂田金時の役で「荒事」を創始したと伝えられる。

 

……市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬 ……

 『江戸時代おもしろ人物百科』 

 寛保三年(1743)に生まれる。本名は中村利貞。字は英祝。通称和泉屋和助。別号立川焉馬。談洲桜。桃栗山人柿発斎。本所に住む大工の棟梁だったので、狂名は鑿 言墨金という狂歌師であり、洒落本、黄表紙、合巻などの戯作もあり、五代目市川団十郎と義兄弟になって戯作にも手を染めた。落語は彼の余戯であったが、天明六年(1786)四月十二日、大田南畝、鹿都部真顔の協力をえて、向島武蔵屋方で噺の会を開いた事が契機となり、以後も文人達の協力で再三噺の会をひらき、噺本も刊行して、鹿野武左衛門以後絶えていた江戸落語中興の祖という役割を果たした。

 主著は演劇史『歌舞伎年代記』、洒落本『客者評判記』、噺本『喜美談話』『詞葉の花』『無事志有意』など。文政五年(1822)六月二日に没した。享年八十歳。

 

 ……市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬 ……

 年80歳。『江戸文人おもしろ史話』杉田幸三氏著 

 江戸出身。寛保三(1743)~文政五(1822)

 本所の相生町にいた大工の棟梁和泉屋和助が通称である。五世団十郎と仲がよく、団十郎の名をもじって「談洲楼」という号がある。

 父の職を継ぎ大工の棟梁となった。が、どういうもか自宅では木綿製の足袋を売っていた。大工の棟梁からきた狂号を「鑿言墨金」と称した。

 相生町の家は、上り口から六尺四方の三升(三升とは紋所の名。大・中・小三個の升を入れ子にし、上から見た形を図案化したもの。団十郎の家紋として有名)形。上部には、五世団十郎が男之助に扮した時の上下でつくった揚幕を垂らしていた。さらに二階に二室あったが、畳に三升の模様を織り出し、一室の天井は同様、三升形の網代天井とし、障子の骨まで三升だった。また襖や畳の縁を見ると、団十郎の十八番の暫に着た柿色の素袍を使っていた。それでいて、洒落本、草双本、笑話作家なのである。云々

 

 ……市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬 ……

   『歌舞伎の世界』「象引考證」服部幸雄氏著

 烏亭焉馬が熱烈な五代目団十郎の贔屓で知られ、義兄弟の契りを交して、談洲楼(だんじゅうろう)と名乗ったほどであったことを、改めて言うに及ぶまい。馬(焉馬)の守護神である猿(五代目は俳名の文字を白猿と改めた)の民族についての知識も、両者の関係の親密さを物語るもののように思う。

 焉馬は「花江都歌舞伎年代記」を編纂する一方、天明九年(1789)刊の「江戸客気団十郎贔屓」を端緒として、寛政四年(1792)刊の「御江都錺蝦」から文政元年(1818)刊の「以代美満寿」に至る、いわゆる「白猿七部集」を次々と編集し、出版した。これらの書を検すると、焉馬が早い時期から、市川団十郎代々の当り芸を抜き出して紹介しようという意識を抱いていたことがはっきり見てとれる。云々

 

 ……団十郎家の先祖…… 『市川団十郎代々』服部幸雄氏編

 初代市川團十郎の先祖は謎に包まれていて、よくわからない。烏亭焉馬の『市川家家譜』によると、代々甲州の武士で、永世年間(1504~21)に北条氏康の家臣になり、天正にいたって小田原没落後、下総國埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、重蔵の代になって市川に移って郷士となり、江戸初期の慶安、承応(1648~55)のころ江戸に出たという。

別に奥州「坪の碑」の近くにある市川村から出たという説(『松屋筆記』巻四)、葛飾郡市川村から出たとする説(後述)などもある。このころの芸能者の出自が明白であるのはむしろ不自然というべきで、後代になってからもっともらしく創作された可能性が濃い。

 通説に従えば、初代團十郎は万治三年(1660)江戸の和泉町で生まれ、幼名を海老蔵と言った。享保十五年(1730)に作られた初代の追善句集『父の恩』の記事によると、父親は堀越重蔵(十蔵とも)と言い、幡谷村の土地を弟に譲って江戸に出たのだとのことである。人望厚く地子惣代( )を努めるほどの顔役だった。侠客と交際もあり、「菰の重蔵」とも、また顔に疵があることから「面疵の重蔵」ともあだ名されていた。著名な侠客唐犬十右衛門と親交があり、初代團十郎の幼名海老蔵の命名者は十右衛門だという伝説も語られていた。

 右に述べた團十郎の家の出自にまつわる数々の伝承は、正確であるという保証はないが、初期の一歌舞伎役者の素姓に関する何らかの真実を伝えているように思われるし、のちに荒事の宗家となる市川團十郎の故郷としてもふさわしい。だがここにはなお隠された真実があるようにも思われる。 

 

 ……成田山新勝寺……『郷土資料辞典』「千葉県・刊行と旅」

 (前文略)

 寺は中世に入ると衰退したが永禄九年(1566)成田古薬師に移転され、近世初期、佐倉藩の祈願所として復興された。元禄十三年(1700)香取郡医王院から入山した昭範上人は寺の再興を図り、宝永二年(1715)寺基を現在地に移して諸堂塔を造営、寺観を整えるとともに、不動尊の霊験を世に広く宣伝し、多くの信者を集めて、今日の隆盛の基礎をつくった。昭範上人が中興第一世とされている。

 江戸の市民たちの、信仰とレクリエーションを兼ねた「成田詣で」が盛んになったのもこのころからで、その要因の一つとして、江戸出開帳と、歌舞伎役者の初代市川団十郎があげられる。

 江戸出開帳とは不動明王本尊と二童子像を厨子に納め、佐倉街道を経て江戸に出向くことをいい、第一回は元禄十六年におこなわれ、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院も参拝したという。以後明治31年最後の深川出開帳まで十五回を数え、江戸市民と成田山の接触を深めた。

 初代市川団十郎は今の成田市幡谷の出身で、団十郎の屋号を成田屋と呼ぶのも、これによる。子宝に恵まれなかったが、ひたすら不動尊に念じて一子九蔵、後の二代目団十郎を授けられてから不動尊を取り入れた芝居、いわゆる荒事芸を演ずるようになった。これが当たって、市川団十郎とともに成田不動の名を、江戸市民に深く印象づけることとなった。

 七代目団十郎も成田山の授り子といわれ、天保十三年(1842)、老中水野忠邦による天保改革の奢侈禁止令に触れて江戸を追われたとき、成田屋七左衛門と名を改め、暫く成田山内の延命院に身を寄せている。

 

 ……『明和伎鑑』……「筑波大学図書館所蔵」

   『市川団十郎』内掲載。西山松之助氏著 

 市川家

  元祖市川團十郎三ケ津立役の開山

  才牛。下総佐倉の住人。幡谷村(一本、成田)

  堀越某の男。幼名海老蔵。居宅、深川木場。

 

    ホームページ『成田屋早わかり』テキスト-服部幸雄氏著『市川團十郎代々』

 

〈祖先〉團十郎の祖先の出自は諸説ある。

 ●代々甲州(山梨県)の武士であったが、下総国(しもうさのくに)埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、初代の父親の代になって市川の郷士となった。その後、慶・承応(1648~55)に江戸に出たという説…烏亭焉馬『市川家譜』

 奥州坪の碑の近くにある市川村から出たという説…『松屋筆記』巻四

葛飾郡市川村から出たという説…栗原東随子(東随舎)『古今雑談思出草子』  

 宗教的性格がひとり團十郎の芸だけに色濃く付与されているので、あるいは、宗教的芸能民の血筋が流れているかもしれないと想像される。

 十代目は甲州出身説をとり、山梨県西八代郡三珠町を市川團十郎家の発祥の地と断定し た。それを受けて十一代目は三珠町に発祥の地の木標を建立。そして当代團十郎襲名にあたり、昭和59年(1984)十一月には黒御影石の発祥記念碑が建てられた。さらに平 成六年(1994)四月には三珠町歌舞伎文化公園が完成した。

 

    ホームページ『やまなしマップ百科』

 

 初代市川団十郎の大祖父は甲斐武田氏の武将一条信竜に仕えた堀越十郎で、北条氏との 戦いの武功によって、三珠町の地を拝領したと伝えられる。武田氏滅亡後は千葉に移り、孫の重蔵の代に江戸へ。その子蝦蔵は十四歳で山村座の舞台を踏み、市川段十郎を名乗った。

 十二代団十郎は先祖の地の顕彰を実現しようと、三珠町上野に市川家の紋「三桝」をあしらった碑を1984(昭和59)年建立。町は88年、碑を中心にした歌舞伎文化公園を造成、意までは「歌舞伎の町」としてすっかり定着している。

 

 こうして資料を読み取れば、市川団十郎の初祖についての史実は曖昧な内に

 十代目は甲州出身説をとり、山梨県西八代郡三珠町を市川團十郎家の発祥の地と断定し た。それを受けて十一代目は三珠町に発祥の地の木標を建立。そして当代團十郎襲名にあたり、昭和59年(1984)十一月には黒御影石の発祥記念碑が建てられた。さらに平 成六年(1994)四月には三珠町歌舞伎文化公園が完成した。

 となり、これが

 市川団十郎の祖は甲斐の三珠町の出自地の歴史なっていくのであろうか。史実とするには確かな史料を積み重ねることが肝要である。歴史は創作してはならない。

山梨県西八代郡三珠町のいう説は、合併により誤った認識のまま歴史となっていくのであろうか。






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最終更新日  2021年04月11日 14時38分13秒
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