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2020年08月12日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

市川團十郎【二代目】

 

『日本逸話大事典第八巻』

編者 白井喬二氏・高柳光寿氏

 発行者 八谷政行氏

 人物往来社 昭和42

  一部加筆 山口素堂資料室

 

       生歿 元禄元年~宝暦八年(一六八八~一七五八)。

       初代の長男。初代が成田不動尊に祈願しで授かったと伝えられる。

       幼名は九蔵。初代の創始した荒事を家の芸として確立するとともに、実事や和事にも優れた演技を見せ、團十郎の名を江戸歌舞伎の中心として不動のものとした。

       元禄十年五月、十歳で中村座「兵根元曽我(つわものこんげんそが)」で初舞台。このとき成田不動尊となって巌屋から現れると、舞台に賽銭が投げられたといわれる。

       十三年の「大日本鉄界仙人」では、父の演じる曽我五郎が念力をこめて吹き出した吐息の中から分身の五郎としてあらわれ、宙乗りで空中を飛び回った。

       十六年の「成田山分身不動」でも、父、が胎蔵界の不動明王を、九蔵が金剛界の不動明王を演じている。幼くして父の分身として、その聖性をうけつぐべく定められていたのである。

       父が横死したとき十七歳だったが、すぐに同年七月に山村座で二代目を襲名した。この襲名には父と親しかった生島新五郎の庇護があったらしい。披露口上は宮崎伝吉が述べたが、

       「父に別れし孤児の九界九蔵の二代目を、ここに市川三升と、五升(後生)を願うお引立て、(中略)親の無い子とお目を掛けくださらば、さらばさらばと冥土へ旅立ち、歌舞の菩薩の蓮の上、父才牛も有難く、成仏往生口上を、頼まれ甲斐はなけれども、御見物様方へひとえに願い奉るとホホ敬って申す」という文句に、泣かぬ見物はなかったという。しかし親をなくした子

  に劇界の風は冷たく、不遇の目々が続く。母の栄光尼はくや

  しがって「その方百両取るまでは見物致すまじ」といったという。

       宝永六年(一七〇九)「煩城雲雀山」の久米三郎のもぐさ売りのせりふで大当りをとり、

       正徳三年(一七一三)には「花館愛護桜」で初めて助六を演じた。助六はもとは上方の心中物であったが、二代目はその和事味を巧みに消化しながら、完全に江戸風の男伊達に換骨奪胎した。その成功の蔭には、和事の名人だった生島新五郎の指導と影響があったと見られる。

       彼は生涯に助六を三度演じている、が、最後にこの役を勤めたとき、杏葉牡丹の紋をつけて出た。これは絵島生島事件で有名な大奥勤めの絵島が近衛家から拝領した蒔絵の手筥についていた紋であった。團十郎が絵島からこの手筥をもらったことでお咎めを受けそうになったとき、奉行所の配慮  でこの紋は市川家の替紋だということにして罪を免れたという。

       正徳四年に中村座の顔見世で「暫」を勤めた。このときのウケは、父の「暫」でも同じ役を演じた大先輩の老名優、山中平九郎であった。このウケの悪公卿が大福帳に手をかけんとするとき、揚幕の中から「暫く!」と声をかけて團十郎が登場するのだが、平九郎は若い二代目を馬鹿にして、いつまでたっても大福帳に手をかけない。團十郎も負けずに、いつまでも声をかけない。さすがの平九郎も舞台の間が抜けるので、「エエしょうことない、引きおろすべいか」と大福帳に手をかけるや、すかさず揚幕から團十郎が「暫く!」と声をかける。しかしまだ揚幕から出てこない。平九郎が仕方なく、再び大福帳に手をかけんとすると、また「暫く!」と留める。平九郎はついに腹を立て、「暫くと声をかけたは何者だ、ヤイ」團十郎また「暫く!」平九郎いよいよ怒って「暫くとは、ヤイー」ここでようやく團十郎が「暫くしばらく」と言いながら揚幕から出る。この二人の息組みはあたかも龍虎の争いのごとくすさまじいもので、見物のどよめきが町中に響いたという。

       五年正月には中村座で曽我五郎を演じ、二十八歳でスターとしての地位を確立。以後、市川家の家芸となる「矢の根」「毛抜」などを次々と初演した。

       享保六年(一七二一)正月に森田座で再び曽我五郎を勤めて十月まで二百八十日間打ち続けるという記録的な大当りをとり、給金を千両と定められる。これが千両役者の始まりという。

       二十年十一月、養子の升五郎に三代目團十郎を譲り、自分は海老蔵と改める。

 






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最終更新日  2020年08月12日 11時28分15秒
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