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2020年08月12日
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市川團十郎【八代目】

 

『日本逸話大事典第八巻』

編者 白井喬二氏・高柳光寿氏

 発行者 八谷政行氏

 人物往来社 昭和42

  一部加筆 山口素堂資料室

 

       生歿【八代目】文政六年~嘉永七年(一八二三~一八五四)。

       七代目の長男。名家の若目一那らしい洗練された品の良さと花のある二枚目ぶりで熱狂的な人気を得ながら、三十二歳で自刃した。

       江戸深川生まれ、幼名は新之助。

       文政八年に海老蔵と改め、

       十年の顔見世のとき五代目松本幸四郎に抱かれて初舞台。

       十三年の顔見せでわずか六歳で「暫」を演じ、「ちばらくとまわらぬ舌もハ代目」と川柳にうたわれた。

       天保三年(一八三二)三月、十歳で父から譲られて八代目團十郎を襲名。

       十六歳で早くも座頭の地位についた。父の威光も大きかったろうが、その出世の早さには目を見張るものがある。

       以後、家の芸の「鳴神」「勧進帳」「助六」や「国性爺合戦」の和唐内、「忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」などを演じて人気を高める。

       天保十三年に父が江戸から追放されると、遠く離れた父や残された一家一門を支えるのに心を砕き、

親孝行で北町奉行から表彰されている。

★ これは七代目を追放した幕府が、民衆からの反発や批判をそらそうとして行ったものらしい。が、厳

しく差別されていた役者が親孝行で奉行所から褒賞されたのは、前代未聞のことであろう。このとき

の「申し渡し」に書かれた八代目の律儀で生真面目な生活態度は、彼が豪放でわがままな父とは対照

的な性格だったことを物語っている。

       彼の真骨頂はとりわけ「田舎源氏」の光氏や「児雷也豪傑譚」の児雷也、「与話情浮名横櫛」の与三

郎などで発拝された。錦絵に残っている八代目の児雷也は、いかにも幕末期の荒唐無稽な絵もの、か

たりにふさわしい美男ぶりである。

       彼がこのあとの公演中の舞台で昏倒し、一時意識を失ったときの騒ぎは大変なもので、辞世の句と称

するものや追悼の摺りものが大量に売り出され、間もなく快復すると今度は「成田不勤尊のご利益で 

助かった」という「市川團十郎蘇生の次第」と題した印刷物、が売り出され、人々が争って買い求め

たという。

★ 翌年「与話情浮名横櫛」の与三郎を初演して大当りをとった。

江戸の大店の若且那の与三郎が、静養先の木更津で土地の顔役の妾のお富と馴れ初める。しかし密会

の現場を見つけられ、全身を切りさいなまれる。命は何とかとりとめるが、親からも勘当され、つい

にはゆすりたかりにまで身を落す。そこで死んだと思っていたお富と再会し、島流しにまでなりなが

ら彼女を慕いつづける、という波瀾万丈のメロドラマである。お富との出会いから色模様までのエロ

ティシズム、人気絶頂の二枚目役者が総身を疵だらけにされる倒錯美、どんなに身を落としても若且

那らしさを失わない甘い優美さ、一途にお富を恋い慕いつづけるひたむきさなど、が八代目の芸風に

ぴったりとはまり、幕末の退廃的な世相に大歓迎された。佐渡ケ島に流された与三郎が島抜けして、

瀕死の体で浜に打ち上げられ、日の昇る方を指さして「あっちが東、故郷の江戸」というせりふに万

都の女性は紅涙をしぼったという。

       彼の人気のすさまじさを語る逸話も多い。「助六」を演じたとき、助六が飛び込む天水桶の水が、芝

居のあと徳利一杯一分で争って買い求められたという。

       また、熱狂的な贔屓が八代目、が痰を吐いたちり紙を楽屋係からもらい受け、「團十郎様お痰」と書

いた錦の守り袋に入れて秘蔵した、という。

       嘉永七年(一八五四)犬坂にいる父のもとへ上り、一緒に中の芝居に出勤する筈だったが、その初日

に宿で自殺した。原因は不明である。

       父が大坂に八代目を出演させる約束をして八百両受け取ったため、律儀な八代目が江戸の金主との間

で板挟みになったからだとか、父の妾のためが実の子の猿蔵を九代目にしようとして謹言したからだ 

とか、いろいろな億説が流された。

       死してなおその人気は高まる一方で、死絵は三百余種に及んだという。市川宗家の伝統である俳句に

優れ、

「枯れし野にひとすじ青しすみだ川」

などの句がある。

       歌舞伎の殺し場で現在も使われている「露は尾花と寝たという、尾花は露と寝ぬという……」という

唄も八代目の作だという。






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最終更新日  2020年08月12日 15時04分43秒
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