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市川團十郎【九代目】
『日本逸話大事典第八巻』 編者 白井喬二氏・高柳光寿氏 発行者 八谷政行氏 人物往来社 昭和42年 一部加筆 山口素堂資料室
★ 生歿 天保九年~明治三十六年(一八三八~一九〇三)。 ★ 明治期の劇壇を代表する名優として、―五代目尾上菊五郎、初代市川左團次とともに団菊左と称せら れた。 ★ 歌舞伎の演出・演技法を改革し、「胆(はら)芸」と呼ばれる内面的演技術を創始するなど、明治の新時代にふさわしい「演劇」へと再構築した。 ★ 歌舞伎四百年の歴史を彩る役者は数え切れないほどいるが、「劇聖」と讃えられたのは彼のみである。 ★ 本名、堀越秀。七代目の五男。母は七代目の愛妾ためだから八代目の異母弟に当たる。 ★ 生まれてすぐに河原崎座の座元の六代目河原崎権之助の養子となり、河原崎長十郎と名乗る。 ★ 権之助は当時の劇界の利け者で、養子の長十郎に踊りや浄瑠璃、琴、三味線はもちろん、書道から生花や茶の湯、絵画まで厳しく稽古させた。 ★ このため幼時から少年時代まで、長十郎は息つく暇もない明け暮れで、ホットとできるのは便所の中だけだったという。 ★ 実父の七代目が心配して、権之助に「あなたが長十郎をよく仕込んで下さるのは有難いが、あんまり仕込みすぎて今に責め殺すかもしれないという噂ですよ」と冗談めかしていうと、権之前は「なるほどそうかも知れないが、その代わりもし責め殺されずに生きていれば、きっとあなたよりいい役者になります」と答えたという。 ★ 嘉永五年(一八五二)、時の十二代将軍に男子が出生し、長古郎と命名されたので、長の字をはばかって権十郎と改めた。 ★ 青年時代の彼は青瓢箪とか大根などと悪口も言われたが、それでも花形役者として次第に人気を得て「権ちゃん」の愛称で若い女性ファンに騒がれるまでになった。 ★ しかし嘉永七年に兄の八代目が自殺し、翌年には兄の猿蔵も死去、安政六年に実父の海老蔵も亡くなると、市川家には天然痘の二男と幼い二人の弟と姉妹だけがのこされた。さらに明治元年(一八六八)には養父権之助が強盗に斬殺される。このとき彼は戸棚に隠れて危うく難をまぬがれたが、養父の断末魔のうめき声を聞いて、のちに「湯殿の長兵衛」で幡随院長兵衛の最期を演じるとき参考にしたという。 ★ 翌年三月、七代目河原崎権之助を襲名、市村座で初めて座頭となり「勧進帳」の弁慶を勤める。八月 には「新歌舞伎十八番之内、市川海老蔵遺稿の正本」と銘うって「桃山譚」(「地震加藤」)を演じ、好評を得て十一月に再演した。 ★ 翌年五月には「一谷嫩軍記」の熊谷直実を演じて「他に比類無し」といわれるまでになり、世間も九代目團十郎を継ぐのは彼しかない、と期待するようになってくる。 ★ そこで六年に市川三升と改め、市川家に復帰する意志を表明。翌七年七月に芝新堀に念願の河原崎座を再興し、河原崎家の名跡を親戚の山崎福次郎に譲り、自身は市川家に復籍して九代目團十郎を襲名する。このとき三十七歳。この興行は大人で成功だったが、座の維持や一家一門を支えるのに借金がかさむ一方で、債鬼から逃れるために地方興行に逃げ回り、たまに東京に帰ってきても知人宅に隠れていたという。 ★ のちに「活歴」と呼ばれる新演出は、この襲名興行の「新舞台巌楠」の児島高徳に扮して「柝なしの 幕」を試みたあたりから現れる。 ★ 十一年に演じた「二張弓千種重藤」の斎藤実盛では、故実にのっとって立鳥帽子に水干、大口袴で髭をつけるという扮装で、仮名垣魯文が「活歴史」といって非難したのが「活歴」という言葉のはじめである。 ★ この年、演劇改良懇談会が発足し、また守田勘弥の手で新富座が落成。演劇を社会教化の其とする明治政府の高官や新興ブルジョアジー、知識人などが中心となって、従来の歌舞伎の荒唐無稽さを批判し、これを改良せんとする演劇改良運動が起こると、九代目も我が意を得たりとばかり改革に邁進する。 ★ しかし昔な、がらの芝居を慎かしむ民衆は彼に「かっぽれを踊れ」と罵声を浴びせる。結局活歴は辛 苦の割に認められず、やがて川上音二郎らの新派が台頭してくるに及び、九代目は新作を断念する。 ★ 「新作は骨ばかり折れて御見物が嬉しがらず、時代物は眼をむくだげでわっと受けて下さるから、もう新作はだめだ」(「つき草」)。民衆は時代がかわっても、團十郎の「にらみ」を渇仰していたのである。ここに至り、歌舞伎はついに古典への道を歩み始める。しかしこの間に歌舞伎と俳優の地位は格段に向上した。 ★ ことに明治二十年には前代末聞の天覧劇が催され、歌舞伎は国劇の地位を穫得する。 ★ 九代目が、それまで形容本位で類型的だった江戸歌舞伎に「肛(はら)芸」といわれる内面的演技を創造したのも、こうした辛苫の賜であった。 「舞台に上りました以上は、己を忘れ、舞台を忘れ、その役、その者になりきってしまわねば、どう しても本当の事は出来ません。それには表面ばかりでなくて、肛というものが大事です。どうしても 本当の感じというものは、心から心に伝わるものでなければ行かない。それだから私が、形を写すこ とも或る場合は無論大切だが、それよりは心を写すように心がける。心を写すとは即ち肛にありまっす」というのが彼の信念であった。 ★ 七代目に似た容貌で、とりわけ眼が大きく、せりふが卓越した旨さで、踊りも見事であった。小柄で、お世辞にも美男とはいえないのに「本朝廿四孝」の八重垣姫や「京鹿子娘道成寺」では可憐な娘に見えたという。ことに襟足がたいそう綺麗で、後ろを向いたときの襟筋から肩にかけての色気はすぱらしかったらしい。 ★ 明治三十六年九月ご矛ケ崎の別荘で没した。享年六十六歳。 ★ 伊藤博文はその弔辞で「君は一技芸の士に非ずして、社会の一偉人なり」と讃えている。 ★ 跡取りに恵まれなかったが、門弟に七代目市川中車、二代目市川段四郎、七代目松本幸四郎らが輩出し、また五代目尾上菊五郎の遺児の六代目尾上菊五郎を仕込むなど、その後の歌舞伎に絶大な影響を与えた。 ★ 九代目の没後、團十郎の名は長らく空席のままとなった。九代目の娘婿の五代目市川三升が昭和三十一年に歿したとき、その養子の九代目海老蔵が彼に十代目團十郎の名を追贈し、自身は三十七年四月に十一代目を襲名した。戦後の歌舞伎界きっての二枚目として人気が高かったが、襲名後わずか三年七ヵ月で亡くなった。現在はその長男が昭和六十年に十二代目を襲名している。 〔浅原恒男〕 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年08月12日 15時07分49秒
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