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2020年08月14日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

怨念に朽ちた甲府勤番 忌み嫌われた甲府行き

 

 

竹内勇太郎氏著

 

『歴史と旅』「特集 江戸サラリーマン武士道」

昭和3910月刊 一部加筆

 

ひとたび任命されると、

生きて江戸に戻ることは困難であった甲府勤番士の失意と怨念

 忌み嫌われた甲府行き

 

 天明六年(一七八六)老中田沼意次が失脚し、吉宗の孫にあたる松平越中守定信が老中首座に任ぜられたとき、大田直次郎(南畝)は、-まずい。と、直感した。

 若い定信は謹厳だが、少々直情的なところがある。彼は腐敗しきった田沼政治を徹底的に一掃して、新しい幕政の倫理を実践しようとした。

 たしかに定信の粛正は峻厳を極めた。すなわち田沼沢の大老井伊直幸、老中水野忠友、赤井忠晶、松本秀持らは免職・減封の処罰をうけ、意次と通じ専横の振舞のあった大奥の老女大崎をはじめ女中敷十人の罷免、さらに意次と結託して不当の利をむさぼった商人たちも、獄門・死罪・遠島などの重刑に処せられた。

 とくに、勘定吟味没の土山宗次郎孝之が在職中の背任を責められて切腹を命じられたときには、さすがの直次郎も震えあがった。

 孝之の罪は表向きは背任だが、実質的には大文字屋の花魁(だが)(そで)を千二百両で見受けして、妾にしたという点である。直次郎は孝之に目をかけられていた。

たびたび遊里に誘われて昵懇(じっこん)の仲である。その上、僅か七十俵五人扶持の御徒の身でありながら、孝之と同じように吉原角町の松葉の花魁の三保崎を身請けしている。勿論、小身の御家人にはそんな金はない。「洒落本甲府新話」「世説語話茶」「天明新鐫五十人集」などの著作料である。

 直次郎は必死であった。身請けした妾の三保崎と同時に、牛込仲御徒町の組屋敷には妻と二人の子供もいる。

 

 ――首を飛ばされたんじや話にならねえ――

 

直次郎はあらゆる手蔓を使って、懸命な保身運動を続けた。その中で若い頃、世話になった漢学者の松崎観海に泣きついたのが効を奏した。

 ――なんとか、お構なしということになりそうだ。但し、多分、甲府勤番詰を命じられるかも知れない。

 領海は直次郎にそう伝えた。

 ――冗談じゃねえ、甲府へ送られるなら、死罪になった方がましだ。

 領海の言葉に、直次郎はひきつった顔でそう思った。

 甲府へ送られるなら、死罪になった方がましだ、という直次郎の言葉は、当時の旗本・旧家人の共通した感懐でもあった。

この甲府勤番は享保九年(1724)三月、当時の藩主柳沢甲斐守吉里(吉保の子)が大和郡山に転封になってから、幕府が甲州を天領地として、甲府勤番支配をおき、甲府城の守護、城下の管理、府中(甲府)の行政、弓・鉄砲などの武器の整備などに当らせたものである。

 勤番支配は大手と山ノ手の二組から構成され、知行としては三千石、それに役料千石がついた。この二人の支配は上級旗本から任命される。配下の勤番士も旗本だが五百石以下、二百石以上でそれぞれ組頭二名、勤番士百名、それに与力十駱、同心五十名がつく。

 彼ら脚本が甲府行きを命じられると、顔面蒼白、肌に栗が生じるとまで、忌み嫌われたのには理由がある。

 それは、当時の甲州という土地柄である。

 江戸から三十六里。甲府までの間には小仏・笹子という峻嶮な二つの峠がひかえている。

 甲府盆地はともかく、他は一面の山岳地帯である。土地は狭く痩せている上に寒暖の差がはなはだしい。

 当然、領民の生活は貧しく、そのために気性も激しく荒々しい。農民は貧苦には慣れているが、それだけに狡猾で油断が出来ない。粗暴な甲州博徒が幅をきかす一方では、山岳地帯には、今も野盗の集団や、山人たちの集落がある。そして村々には所謂御浪人さまと奉られている武田の遺臣が、不気味な視線で勤番支配の行政ぶりを見つめている。

 それだけに、華やかな江戸風俗に馴染んできた旗本たちの目には、ぞっとする程の荒涼とした薄気味悪い土地に見える。

 

甲府勤番忌避の嘆願運動

 

 旗本たちが甲府行きを恐れている理由はまだある。宰領の勤番支配は、任期四、五年で配置替えになる。長崎奉行とか、江戸小普請支配とか、一応、栄転が約束されている。だが、その下の勤番士には殆ど転任の機会がない。一度甲府に送られると、終生、甲府勤番士として骨を甲州に埋めることになる。彼らが甲府勤番士を命ぜられて絶望的になるのはここにある。

 もっとも、幕閣では甲府を勤番士の終生の任地とは考えていない。適当な時期に他へ任地替えをさせようと思うのだが、後任がない。甲府左遷の内報を掴むと、どの旗本も震えあがって嘆願運動を必死になって行なう。

 旗本浜中三右衛門の嘆願を見てみよう。

 

「私は当月七日に甲府勝手小普請を命ずる旨の申渡しを受け、実に驚き入りました。家族一同は、ただ悲嘆啼泣しております。ことに養子の身分であるため、先祖や養父にこの上ない不孝のことと当惑至極に存じております。云々……」

 

これを老中に差出すと同時に、甲府勤番支配には、

 

「自分には至って厄介な者が多く、その上老父母がおりまして、平常の手当すらも心にかかりながらも、何かと疎隔がちで、なんとかもって相応の御奉公をお願いして、生前の孝養をつくしたいと念ずるほか、なにもございませんでした。その矢先へこの度の言い渡しを蒙り親戚一同、哀情離別愁嘆つきがたく、さりとてどのように申すべきもなく、ただくり返し嘆願いたすよりほかございません。云々……」

 

と、なりふりかまわず必死に訴えている。この浜中三右衛門は、例の天保改革の立役者水野忠邦の失脚後、鳥居甲斐守の手先となって活躍したことが分り、当然、懲罰の意味で甲府勤番士として左遷された訳である。

 時代は少し違うが、大田直次郎の場合と似ている。

 甲府勤番士を命じられて、大田直次郎や浜中三右衛門と同じように、あわてふためいて嘆願書や訴え状を書いた旗本は相当多い。

 柳亭種彦こと、小普請の高屋彦四郎もその一人で、これは『僞紫田舎源氏』の筆禍で睨まれたのである。

 天明五年(一七八五)湯島立爪坂に住む四千石の旗本藤枝外記が、浅草田圃の百姓平右衛門の物置で吉原の花魁綾衣と心中した。この時代、士道が地に堕ちた田沼時代だけに、外記の心中事件の前後にも、同じ直参旗本の阿部式部が、やはり吉原の花魁花扇と向島の堤で心中している。

 この藤枝外記の心中事件のとばっちりで、甲府へ送られたのが林伊織という御家人である。伊織が外記の腰巾着だったという理由である。

 この男、嘆願書も出さずに勤番方の同心として甲府に送られたが、半歳たらずで甲府を出奔。数年後、武州の博徒弥之助という者の用人棒になり、喧嘩騒ぎで死んでいる。 

外記の後について二、三度、綾衣のいる吉原の大菱屋に行っただけで、彼は一生を棒に振った訳である。 

もう一人、もっと悲惨な勤番士の例がある京橋南一丁目の屏風商山崎屋利左衛門の次男亀蔵は、幼い頃から武張ったことが好きで、十二、三歳の頃から町人のくせに町道場へ通い、道場主の岡田十松から免許皆伝をうけた。それがこうじて、亀蔵は武士にあこがれるようになった。子に甘い利左衛門は本所の旗本佐藤弁内の株を買い、亀蔵は二百石の直参旗本佐藤亀蔵となった。株を買うというのは、何百両かの持金を積んで、当主と養子縁組を結ばすむ。あとは、家督相続願を提出するだけである。ところが、亀蔵の場合、相続願と同時に出す親類書がひっかかった。もともと生家は百姓上がりの商家だけに、養子縁組となるとどうしても書面上、飾る必要がある。元はさる大名の家来だとか、某旗本の用人だったとか、かなり悪どい身分詐称をやった。

 問題になりかけたが、結局は利左衛門が金の力で幕閣を抑えた。だが、家督相続後、半歳たらずで亀蔵は甲府勤番士として赴任を命ぜられた。“不正は黙認するから、甲府へ行け”。これが公儀の処置であった。

  

勤番士恨み節

 佐藤亀蔵の悲劇は続く。亀蔵は町道場の弟子仲間、御家人樋口又造の妹千絵と恋仲であった。又造は小 禄の御家人で小十人組である。しかし旗本の養子になったことで、亀蔵と千絵は結婚出来た。あこがれの旗本になれた上、恋しい女と一緒になれたのだ。亀蔵は天にも昇る気持であったろう。

 ところが、想像もしなかった甲府行左遷人事である。亀蔵は愛妻千絵の手を握って、悲憤の泪を流したのは当然である。

 甲府勤番士の下命を受けて三ヵ月目、亀蔵は甲府に赴任していった。ところが、二カ月程遅れて甲府に来るといった千絵が来ない。督促の手紙を出すと、病気になって実家の樋口家に戻ったという。

 勿論、口実である。江戸育ちの千絵は甲府行きを拒否した訳だ。甲府へ行けば生涯江戸には戻れない。そう思うと彼女は彼女なりに重大決心をしたのだ。亀蔵は失意のまま、三年程、勤番士の生活を続ける。三年目を過ぎた頃から、その言動がおかしくなった。発狂したのである。そして半歳後に、彼は庭の松の

木の枝で首を吊った。自殺という説と、仲間の勤番士が見かねて、そうした処置をとったとも言われている。

 以上のような事例を考えると、幕府が如何に旗本御家人を、甲府に送り込むに腐心したかが分る。

はっきり言って、甲府勤番士を命じられる旗本や御家人は、その過去に於いて、なんらかの罪状・悪事・不屈の行跡をのこした者たちばかりである。上司に対し不敬・不遜の振舞に及んだとか、あるいは深川芸者や吉原の遊女に迷い、放蕩の限りをつくしたとか、博徒と交って自分の屋敷で賭場を開帳したとか、とにかく無頼放蕩、あるいは反体制の男たちを、懲罰の意味で送り込んだとみていい。

 『甲陽随筆』『甲州噺』あるいは『甲陽茶話』などという古書とならんで『裏見寒話』という江戸時代の随筆集が残っている。

 この作者、野方成方は甲府動番士である。内容は甲斐の歴史・地誌・民俗などを聞き書きにしたものだが、その片々に僻地で生涯を閉じなければならない寂寥感や、空しさが潜んでいる。

 

石屋根は不二の裏店雪隣

  裏不二やむかし鹿子のはづれ雪

 

こうした俳句のなかに成方の諦観がうかがわれる。表題の裏見は、恨みの意と、富士山を裏から見るという意をかけたもので、寒話はそのまま作者自身の心境であろう。

 

放縦無為に堕した甲府勤番支配

 甲府勤番士の実体を書いた古書や記録は意外と少ない。しかし、それとは逆に顕彰的な記録はわりと多い。

 山梨大学の前身は「徽典館」といったが、これは寛政七年(一七九五)甲府勤番支配の近藤淡路守政明、永見伊予守為貞が勝手小普請役の富田富五郎(武陵)らによって興されたもので、甲斐の文教を盛んにした。また与力の吉川新助は陽明学を、ついで垂加神道を学び、勤番士を教育したことで知られている。徽典館と命名したのは大学頭林衡である。

 一方、勤番支配の松平定能は、甲斐在住の学者内藤右衛門、森島弥十郎、村松弾正左衛門らを動員、甲斐の地誌『甲斐国志』百二十四巻を編纂している。

 

他に著名な勤番士としては、明治の新政府の民部省の駅逓(えきてい)権正(ごんのかみ)、今の郵政大臣になった杉浦譲などがいる。

 だが、こうした顕彰された人物の記録は詳しいが、その人材の数はあまりにも少ない。

 勤番支配になる前の藩主の柳沢吉保・吉里父子は、その田身が甲州だけに民政に力を注ぎ、城下の整備や殖産振興に努力したので、甲府は明るく活気づいた。

()()雑記』に、「棟に棟、門に門を並べ、作り並べし有様は、是ぞ甲府の花盛り」

 と、書かれていたが、吉里が大和郡山に去ると、甲州は再び勤番支配の暗い時代になった。

 失意の怨念で自暴のまま朽ちていく旗本や、虚脱感のなかで諦観をみせ、無為の歳月を送る男たちが、為政者としてその職務に就いたととろで、その民政はひずみ荒れるだけである。

 寛延二年(一七四九)の米倉騒動、続いて寛政四年(一七九二)の(ふと)(ます)騒動、そして天保七年(一八三六)の郡内騒動など、相次いで一揆が起きたのも放縦弛緩した勤番支配の結果であろう。

 とくに郡内騒動の場合は、米価の暴騰や奸商の専横に憤激した農民数千人が蜂起し、甲府や甲斐全般に押寄せ横暴の限りを重ねた。これに対し、甲府勤番士たちは自力で鎮圧することが出来ず、隣の諏訪藩や沼津藩の力を借りて、ようやく追捕することが出来たという非力ぶりであった。

 

更に幕末期に於ける甲府勤番士の行動は、誠に無能・醜態といわねばならない。

 

慶応三年(一八六七)三月、東山遊軍の参謀板垣退助は、信州から甲府に入るとき、幕府直轄地で血気の旗本が固める甲府城だけに、相当の抵抗を覚悟していた。

 しかし、彼らを迎えた甲府勤番の旗本たちは、事態の急変に周章狼狽して右往左往するばかりで、なかには江戸や他国に逃げだす者もいた。やむなく姿を見せない城代(勤番支配)に代り、町奉行の若菜三男三郎や中山誠一郎がその折衝に当っている。

 その頃になると殆どの勤番士がその職場を棄て、四散してしまった。彰義隊や新選組にくらべて、誠に不甲斐ない腰抜け旗本たちである。甲府勤番は、やはり旗本御家人の流刑地であったかも知れない。





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最終更新日  2020年08月14日 08時34分51秒
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