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2020年08月14日
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霊峰に抱かれた五百羅漢の里 岩手県遠野市

 

『歴史読本』「特集 本能寺の変」昭和568月号

 史蹟を訪ねて/第262回・岩手県遠野市

  

 伝説と伝承を江湖に知られた北上山地の盆地に阿曽沼氏や南部氏の事績をみる

 

『遠野物語』の里

 

花巻より十余里の路上には町場三ケ所あり。其他は唯青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚だし。

或は新道なるが故に民家の来り就ける者少なきか。遠野の城下は則ち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りて独り郊外の村々を巡りたり。其馬は黔(黒)き海草を以て作りたる厚総(あつぶさ)を掛けたり。虻(あぶ)多き為なり。猿ケ石川の渓谷は土肥えてよく拓けたり。

(中略)附馬牛の谷へ越ゆれば早池峯の山は淡く霞み山の形は菅笠の如く又片仮名のへの字に似たり」

  (柳田国男『遠野物語』)

 

明治四十一年十一月、東京牛込の柳田国男宅へ、長身で、色の赤黒い、にきびのある青年が、水野葉舟(ようしゅう)と一緒に訪ねて来た。

当時、法制局参事官として、近代的な農政学を研究する傍ら、九州・四国地方での見聞を『後狩詞記』(のちのかりのことばのき)とする構想を固めていた柳田国男は、たちまち岩手弁で語られる青年の郷里の伝説・昔話・民間伝承に魅了されてしまった。

青年は佐々木喜善、郷里は岩手県上閉伊郡の遠野郷であった。柳田国男が青年の口述を得て筆録したのが、『遠野物語』である。

 出版に先立つ明治四十二年八月、はじめて遠野を訪れた柳田国男は、冒頭の文章を記し、『遠野物語』の序文とした。

 花巻から釜石線に揺られて一時間程した頃、『遠野物語』を閉じて「遠野」の街に着くのを静かに待った。汽車を降りて改札口を過ぎると、『遠野物語』の世界から、コンクリートのビルや舗装された街並へ、七十年の歳月を跨がなければならなかった。

 毎年、遠野市へは県内外から三〇万人の観光客が訪れるという。

 春の匂いが街を包む五月頃には、桜の開花とともに、観光に訪れる若い娘たちの華やいだ雰囲気が、遠野の街を厳寒の記憶からやわらげる。

 現在の遠野市は、近代的な風景がしっとりと身に染まった地方都市である。

 

    

「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願わくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ」

と記した柳田国男の願望とは逆に、七十年の歳月のなかで平地人の推進する〈近代〉は山人の記憶を抹殺していった。山人たちの記憶は、遠野を囲繞(いじょう)する遠野三山(早池峰山・六角〔ろっこ〕牛山・石上山)、貞任(さだとう)山、物見山、薬師岳、早池峰山より流れ出る猿ケ石川と、伝説・昔話・民間伝承にのみ残されている。

  

早池峰山信仰

 

早池峰山は、北上山地の中央に聳える主峰で、稜線は痩馬の背のようにゴツゴツしており、山腹には無数の亀裂が走っている。これを遠野側より眺めると、前方に薬師岳がふさがり、柳田国男が記したように早池峰山の山頂と尾根を「へ」の宇に浮きたたせる。

 

ここで、早池峰山への信仰の変遷を見ておこう。

 

早池峰山を開山したのは、遠野郷来内村の猟師始閣(しかく)藤蔵である。

大同元年(806)三月八日、海藻は早池峰山に狩猟に行き、風雪のため山頂の巌窟に身を避けるが、深夜に至り、金色に輝く十一面観音の尊容を拝したという。

下山して早池峰山麓の大出村に移り住み、普賢坊と称し、小庵を営んだ。これが早池峰信仰の起こりである。

斉衡年間(854~56)、奥羽を巡錫中であった慈覚大師円仁は不思議な霊験を持つと噂される早池峰山を訪れた。慈覚大師は、父藤蔵の遺志を継いで神を祀祭していた長円坊を禰宜とし、高弟持福院を住持として、妙泉寺と名づけたという。

 この興味深いエピソードは、自然発生的な民衆による原始山岳宗教が、中央からの「優越的な観念」=天台系修験思想によって組織化されていく過程を象徴的に示している。

 地元の司祭者が中央の派遣僧の下位に置かれる状況は、古代における国家的統一のなかで生まれた。無名の修験者、行者、下級の聖たちは中央を離れ、地方の信仰の組織化に赴いた。鶴岡の出羽三山と同様に、早池峰山も彼らの綱に捕えられたのである。

 

〈中央〉が成立する時、はじめて地方は〈地方〉となり、〈中央〉の優越な観念に吸収・浸透されていく。早池峰山や出羽三山をめぐる信仰の変造には、民衆の自然発生的な宗教が制度化された宗教へと磨り変えられていく過程が窺われる。

〈中央〉の地方への浸透には、観念による支配だけでなく物理的暴力の強制も伴っていた。

 

綾織町鵢崎(みささき)にある羽黒岩は、「矢立松がおがり(成長)競べをした」(柳田国男『遠野物語

拾遺』という伝説を残している。

 が、またその一方で、蝦夷の岩武という者の巣屈であったために、蝦夷平定の際、坂上田村麻呂が和賀郡と上閉伊郡の境にある砥森山から射た矢が、ここまで達し、老松の幹に突きささり、以後、矢立松と呼ぶようになった、ともいう。

 

 ほかにも、各地に坂上田村麻呂に関する伝承が残されていることからして古代遠野に居住した蝦夷への〈中央〉の圧迫が推し測られる。地方を〈地方〉化する暴力(物理的・観念的)の統治下に遠野が置かれたことを、早池峯神社と羽黒岩は物語っている。

 

中世において、早池峯山妙泉寺は三陸海岸と内陰部を結ぶ交通路に面していた。旅人や駄賃付けと称する馬方により、早池峰山と妙泉寺への信仰は周辺の地方に広がって行った。北上山地横断の経済圏と交易圏に住む人人の信仰を集めたのである。

近世においては、早池峰山のもう一つの登攀路にあった稗貫(ひえぬき)郡大迫村(おおはさま)の妙泉寺が南部氏の寄進を受け、信者を増したため、遠野沙羅寺の信者を減少させることとなった。

 遠野、稗真面妙泉寺は、明暦元年(一六五五)から延享元年(七四四)までの八十九年間、早池峰山の神前を争う。本坊、脇坊を確定させるためである。この神前争いの最中に、一般庶民の早池峰信仰は形骸化していく。かくて早池峯登山の宗教的意義は薄れ、物見遊山と娯楽的行事の登山へと変質するのである。

 やがて、明治三年、廃仏殷釈により妙泉寺は廃され、早池峰神社とされる。早池峰山への登山客は、年々増加しながらも、往時の偉観を失った神社を訪れる人は少ない。

 遠野駅より、車で山道を一時間程走ると、早池峰神社の山門に到着する。山門の屋根と石段の間に早池峰山は太古以来の貌を覗かせる。まるで、早池峰神社の荒廃を素知らぬ顔だ。かつて、早池峰神社の山門にあった、慈覚大師の作といわれる仁王像は、神仏分離後、土淵町の常堅寺に移されている。

 面白いことに、常堅寺から二〇〇メートル程北へ行くと、道路沿いに早池峰神社への古参道跡がある。これも山神の悪戯だろうか。   

 常堅寺は、延徳二年(一四九〇)の開創、曹洞宗で市内に末寺を四つ持つ古刹である。

 常堅寺の裏を流れる小鳥瀬川には、「面の色赫き」と『遠野物語』に記されるカッパが棲んでいたといい、俗にカッパ淵と呼ばれている。ある火災の折に、カッパが常堅寺に難を避け、その御礼に狛犬になったといわれる。常堅寺境内の小堂の一対の狛犬がそれである。

 狛犬の頭は窪み、雨水が溜ると、カッパの頭の皿らしくなる。

 

常堅寺から二〇分程、車を西へ走らせ市街に入ると、鍋倉山がある。鍋貪山には、かつて遠野を領した人々の居城、鍋倉城があった。

遠野駅より南へ直進する中小路を歩くと来内川に架かる大吊橋に着く。来内川は、鍋倉城の内堀の役目を果たしていた。

 現在、城跡は遠野市立公園となっており、城の遺構は既になく、石垣にその面影を偲ばせる。

  

横田城と遠野郷

 

ここで、遠野と鍋倉城をめぐる歴史をみておこう。

早池峯神社のところで少し触れた、〈中央〉と〈地方〉の関係は、中世・近世という政治体制の変動期にまたもや再現される。

 文治五年(一一八九)、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした時に、下野国の住人、阿曽沼広綱が軍功によって遠野十二郷の地頭職に任じられた。阿曽沼氏は、平将門討伐で有名な藤原秀郷の後身である。源頼政蜂起の際、宇治川の先陣で勇名を馳せた足利又太郎忠綱を宗家とする一族である。が、源頼朝への帰属を

めぐって宗家(足利)と争い、養和元年(一一八ー)、小山氏とともに宗家を滅ぼした。

 

同時に、後年の宿縁関係に当たる盛岡南部氏の祖、甲斐国南部郷の住人南部光行は糠部五郡(後の青森県)を与えられた。

 

 阿曽沼氏に与えられた遠野十二郷とは、釜石から大槌、達曽部付近であり、上閉伊郡一円と和賀郡の一部、下閉伊郡の一部と推定されている。

 建保年間(一二一三~一八)に、広綱の孫阿曽沼親綱は、松崎村護摩堂山に横田城を築いたといわれる。が。親綱はここに定住せず代官を置いて支配したらしい。

 

阿曽沼氏が遠野に移住して、直接統治を行ない始めるのは南北朝動乱期だといわれるが、定かではない。頼朝による奥羽平定より、慶長五年(一六〇〇)までの四百十余年間、阿曽沼氏の支配が続いたが、その間にしばしば他領からの侵犯を受けた。代表的な例は、永享九年(一四三七)の事件である。

 気仙郡の岳波太郎と大槌郷の大槌孫八郎が共謀して、阿曽沼秀氏の守る横田城を攻囲した。秀氏は糠部五郡の領主で、足利方奥州国司の南部守行に援軍を求めた。すぐさま来援した南部軍とともに、阿曽沼軍は岳波軍を挟撃して破った。

 しかし、乱戦のなかで、主将南部守行は戦死した。守行の遺骸は、遺言により附馬牛の東禅寺に葬られた。守行の墓は東禅寺跡の小商い丘にあり、やや下った場所に殉死者の墓碑らしき一二基の石碑が参道の両側に六基ずつ建っているが、文字を読むことはできない。

 

 東禅寺は、早池峰山に通ずる道路の沿道に位置していた臨済宗の寺であった。建武年間(一三三四~三八)、無尽妙什(むじんみょうじゅう)によって創建された。全盛期には、総門・三門・仏殿・塔頭など七堂伽藍が揃い、全国から無尽和尚の高徳を墓って、二百余人の僧侶が修行したと伝えられる。

 しかし、これはどの高僧でありながら、無尽妙什の俗礼や出生地、生年などは全く不明であり、『本朝高僧伝』など中央の文献には登場しない。伝説では、「人殺しとムジナの間に生まれた子供」(内藤正敏『聞き書き遠野物語』)となっている。

東禅寺は三戸(盛岡)南部氏の祖である光行を葬って以来、南部氏の崇敬を受けた。慶長五年の阿曽沼氏没落時の戦乱のなかで、東禅寺は焼亡し、盛岡に勧請された。現在は、守行の墓・無尽和尚の墓や

遺構として礎石などが残されている。

 

阿曽沼氏の没落

 

阿曽沼氏歴代の中で最もめざましい事績を挙げたのが、十二代、広郷(ひろさと)である。広郷は僻陬(へきすう)の地にありながら、中央の情勢に通じ、天正七年(一五七九)、畿内平定を遂げた織田伍長

に白鷹を献じている。

 また、現在の遠野市立公園に鍋倉城を築き、遠野市街の基礎作りを構想したのも広郷である。領民・家臣の反対を押し切って、猿ケ石川、早瀬川を外堀とし、来内川を内堀とし、要所々々に神社や寺院を配置して、万一の際の防御線を布いた広郷の構想は秀抜であった。

 鍋倉城は、八戸南部氏の時代にも破却されず、仮怨敵伊達氏への盛岡藩の軍事的要衝となっている。

 信長に音信を通ずるほどの畑眼を具えた広郷も、豊臣政権への対応には失敗した。

 天正十七年の小田原攻めに際して、秀吉は奥羽の大小豪族に参加の命令を下した。その際、広郷は付近の豪族や一族の反乱を警戒し参加しなかった。この時の不参加を口実に奥羽の小豪族である稗貫氏、和賀氏、大迫氏、根子氏、江刺氏は、領地を没収された。同様に阿曽沼氏も窮地に陥った。同流に当たる蒲生

氏郷の仲介で領土没収は免れたものの、南部氏の座下に組み込まれることとなった。

南部信直も阿曽沼広郷同様、小田原陣への参加を躊躇していたが、のち遠野に移封される八戸氏当主政栄の保証を得て参加したのであった。運命の皮肉というべきか。広郷はこの処遇の直後に世を去り、後を継いだのが、阿曽沼氏最後の当主広長である。

 だが、遠野領の直接統治を目論む南部氏は、慶長五年、関ケ原の役に家康の命による最上氏救援の派兵に広長の出兵を命じ、その留守中に阿曽沼氏の一族である鱒沢広長、上野右近、平清水駿河を指嗾(しそう)してクーデターを起こさせた。

 

出羽戦線の終結と東軍の勝利の報を得て凱旋うる広長を待っていたのは、江刺郡と遠野の境の五輪峠に配された南部兵と鍋倉城のクーデターの報であった。やむを得ず、広長は五輪峠を眼の前にして仙台領に亡命した。のち、広長は伊達改宗の援助と出兵得て、三度にわたり遠野奪還を試みたが果たせず、二度

と五輪峠を越えることはなかった。五輪峠はいま江刺市と遠野市の境に当たり、付近を道路が通っている。

 

凍み雪の森のなだらを

ほそぼそとみちがめぐれば

向ふは松と岩との高み

高みのうへに

がらんと暗いみぞれのそらがひらいてゐる

   (宮沢賢治『春と修羅』第二集「五輪峠」)

  

 

南部氏の治世

 

南部利直は、徳川家康の承認を得て、広長追放後遠野を直轄地とした。南部対伊達の代理戦争は、南部の全面的勝利に終わった。

 しかし、伊達氏に対する警戒心を一層深めた利直は、領国支配権の確立のため策を練った。「狡兎(こうと)死して走狗烹らる」の諺通り、鱒沢氏、上野氏、平清水氏という功労者を些細な言い掛りで、切腹あるいは領地没収とし、領民の反感をそらすスケープ・ゴートに仕立てた。

次に、中世的な支配から近世的な領国支配体制を達るために、南部氏の分家で独立的領主である八戸南部氏を遠野に移封せしめ、対伊達政策と領内における独裁権を掌握する一石二鳥の効果を狙った。

八戸南部氏は、日蓮の檀越であった波木井実長を祖とし、甲斐国波木井郷を領した豪族である。南北朝時代には、南朝方として活躍し、北畠顕家の奥羽鎮定に参加し、八戸に根城を築いて北奥統治の本拠としていた。のち、南北朝合一まで、師行、政長、信政、信光、政光と五代にわたり北朝方と戦ったが、合一後、本領を離れ八戸に移住した。この勤王五世を祀るのが鍋倉城跡にある南部神社である。

 

二十二世当主直義(直栄)は、主命に逆らえず遠野に移封された。直義は、二十世当主直政夫人であり、二十一世当主であった清心尼を動かして家臣の説得に当たったらしい。一時にもせよ女性が領主を継いだのは、鎌倉幕府の遺制に起因するのかもしれない。移封当時は、阿曽沼氏の旧臣を登用する政策が取られたが、発案者は清心尼であった。直義は国老という名目で盛岡に留め置かれた。一説には叛乱に備えての人質であったという。

 猿ケ石川に架かる登戸橋を望む場所にある

 清心尼の墓はその檀上に自然石を置いた素朴なものであった。畑を隔てて、阿曽沼氏歴代の墓もある。

 

宝暦の飢饉

 直義、義長、義論(よしさと)、利戡(としかつ)、信有、信彦(のぶよし)と領主は替わったが、遠野は南部落領の海岸部分と内陸を結ぶ交通の要地として発達し、城下では市が立ち、馬や牛、諸産物などの交易で殷賑を極めた。

宝暦四年(一七五四)、阿曽沼時代に比べて人口は倍増したといわれ、人口一万九千四百人、戸数三千五百軒であった。

 しかし、翌宝暦五年の大凶作が人口の四分の一を奪い去った。

 宝暦年間に入ると凶作が打ち続き、加えて洪水、旱魅に見舞われる。宝暦五年は気候不順で、悪疫がはびこり、南部落三大凶作の一つとなった。

『宝暦凶作記』によれば、南部落全体で、餓死者四万九千六百人、疫病死を加えると六万人、馬匹二万を失い、牛馬を殺害して食し、親子心中が相次いだ。この宝暦五年の凶作は、全国的なもので、南部藩だけでなかったから、冷害による凶作が必至となるや、米の大消費地江戸では米価が高騰し、平常の二倍になった。南部商人たちは、古米、貯蔵米を買い集め、北上川から江戸に廻送して、巨利を占めた。これが飢饉を深刻化ならしめた一囚でもあった。

しかし藩当局の対応は、

 「領内の窮民を救愉せるもの三月七日までに二万三千八百十人。四月に至り三万人に達したるも、幕府の聞えを憚りて一万五千八百三十五人と書上ぐ」(鈴木悟朗補『南部史要』)

 というものであった。

 

鍋倉城跡より徒歩一〇分、物見山の山裾にある愛宕神社と卵子酉(うねどり)神社の間の山道を四〇〇メートル程登っていくと、羅漢を刻んだ数百の花崗岩群が見えてくる。この五百羅漢は宝暦の飢饉から十年後の明和二年(一七六五)、遠野南部氏の菩提所であった大慈寺の一九世住職、兼山和尚が凶作の餓死者追悼を発願し、自ら刻んだものである。和尚の悲願にもかかわらず、遠野を襲った飢饉は宝暦五年が最後の年ではなかった。五百羅漢に鑿(のみ)が振われた十八年後、天明の大飢饉が襲う。`

 

南部藩の一揆

 

弘化四年(一八四七)もまた、不作の年であった。盛岡藩では当主利済(としただ)

抗争もあり、政治は腐敗していた。利済は政

治の混乱を顧みず領内に六万両の御用金を課

して、弘化の大宍揆を激発させた。

 十一月十七目、野田通安寧村を出発点に、’

宮古を経由して遠野に向かう途次、一揆の参

加者は一万二千人に膨れ上がった。笛吹峠を

越えて遠野に入り、早瀬川原に集結した一行

は、盛岡参役人の説得を拒否した。参内の進

歩派重臣である南部弥六郎済賢との交渉を要

望し受諾された一揆勢は、御用金撤回を姑め

とする二六ヵ条の要求を突きつけ、即時に一

二ヵ条の許可と他の要求の善処の約束を呑ま

せた。済賢は一揆勢に食料と旅費を与えて。

解散せしめた。

 この一揆を指導したのは「小本の祖父」と

呼ばれ、天和五年(一八三回)から、嘉禾二年

(一八四九)の十七年間、村々を回り一揆を組

織し続けた浜岩泉打切牛の弥五兵衛である。

 

 

 

 

 弥M兵衛は、ご揆解散後再び領内遊説にの

ぽり。歎願書誼冷料および軍資金として各部

落フ軒から】文ずっを貰い、再起を図った」

『森嘉兵衛ぷ閉部落百姓一揆の研究』)。

 しかし、この卓抜なオルガナイザーも霧氷

二年藩当局に逮捕され牢死した。が、彼の組

織した一揆の思想は、ぺ吼ド提督来航の年、

すなわち吉永六年に爆発する。弘化四年の一

揆の成果がなし崩しにされ、再び増税を諜せ

鍋倉城三の丸跡の南部廟所

 

佐々木喜善は、文学を志しながらも民間伝承の採集者となり、〈出離〉を求めながらも故郷に帰り、村の輿望を担いながらも果たせず、挫折と失意がつきまとった。

 『遠野物語』の世界について、吉本隆明は、〈出離〉のタブーによる〈恐怖の共同性〉を指摘した。佐々木喜善の生涯には禁制の呪縛から逃れようとする意志と村落共同体に従順ならざるを得ない諦念が交錯しているが、皮肉にも自らの意志でなく遠野を〈出離〉せざるを得なかった。

 村落共同体を象徴するものに「結(ゆい)」がある。遠野では畜産が盛んであり、交通手段あるいは労働力として各農家で飼育された。馬産の隆盛とともに直家に飼育用の曲り家屋部分を補充したのが南部曲り家である。

 代表的なものは、羽黒岩や続石のある綾織町の千葉家である。

 盛時には作男一五人、馬二〇頭を有した遠野一の豪農である千葉家は、南部曲り家の特徴をよく残している。

 さて、曲り家の萱葺屋根の葺き替えは、村落共同体の人々が萱を持ち寄って行なう相互扶助の現われであり、「結」の発現であった。屋根は一度葺き替えると、三十年から四十年間保ち、葺き替えは一世代に一回の事業であった。

 だが、トタン屋根が萱葺屋根を駆逐して、共同体の精神を変質させてゆくとき、〈出離〉のタブーは別の社会の黙契に変質していくのだろうか。(本誌/東野)

 






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最終更新日  2020年08月14日 08時37分33秒
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