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2020年08月14日
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カテゴリ:柳田国男の部屋

長興寺を訪ねる 柳田國男 折口信夫のこと

 

『伊那』19898月号

伊那史学会 山貴太郎氏著

 一部加筆 山梨 山口素堂資料室

 

 塩尻市洗馬の長興寺には一度是非行って見たいと考えていた。昭和六十三年五月八日、丁度車の使があって長い間の懸案を果たすことが出来た。

 寺は谷間の道を入った山懐にあって、俗界の音は全く聞こえない。寺の外は何も出来ない林にかこまれた、此の寺を開くために、ここだけ残っていたようなところである。篠ノ井西線の洗馬駅から歩いて二十分位かかるか、松本駅からはバスがたっていて、洗馬料の小学校も近くにあった。長興寺の門のわきの枝垂桜は散りかかっていたし、寺の周囲の新緑は美しかった。寺の前にある小さな畑では夫婦らしい百姓二人が何か蒔くのか草の多い土を耕していた。少し離れて上の寺の境内の側には鯉のぼりと武者絵の新しい幟が建てられていた。若い住職がいるらしく思われた。寺の境内は掃除がよくゆき届いていて清楚であった。

 仁王門入口左手に柳田国男と折目信夫の歌碑が山の斜面の木立の中に建てられていた柳田国男の歌碑は、

  洗馬山のかまへの庵のあめの日の 

かかし話と我もなりなむ

釈迢空のものは

寺やまのはやしのおくのかそけさよ

わがつくいきの きこえけるかも

とあり、そのわきに柳田、折口の歌と説明が刻みつけてあった。これは柳田、折口がこの寺で東筑摩の教育会のために講義をした、それを記念するためのものである。

即ち柳田は昭和五年四月二十五日から二十七日までの三日間、約十時間民間伝承論の講義をした。これは菅江真澄の遊覧記信濃の部刊行完成を記念してのものであった。

菅汀真澄はもと白井秀雄と言っており、天明三年(一七八三)故郷三河(現在の岡崎市)を出て信濃に入り、三月半ばまで飯田におり、四月二十日すぎ、上伊那郡ななくぼ村にきて、三石三春という旧知の医者をたすね、此処に十日間程厄介になり、六月二十五日に桧本の城下町に入っており、この以前五月末、東筑摩郡洗馬料(現塩尻市)にきて長興寺に既知の洞月上人を訪ねたという。そして此処で知り合った医者可児水通の家に住んだ。此処に一ケ年位世話になっていたという。

この可児水通という医者は美濃(岐吊県可児町宮瀬)の人で、売薬行商人として、毎年、洗馬村に来て得意先の患者を施薬、診療しているうちに見込まれて、能谷七左衛門の娘、吉の婿となった。しかし水通は一代可児性を名のったというし、この熊谷家も代々医家であった。この水通はもと東北大学総長熊谷岱蔵の五代の祖先にあたり、春誠と号したという。水通が真澄と暮らした頃は何歳位(真澄が)だったか不明であるが、その日記の五月二十八日の初対面の時、歌を書いて「老のひがごと、これを見てとさしだしける」とあるから可成りの年輩であったろうと真澄研究者の第一人者内田武士は言っている。

昭和四年(一九二九)水通の末孫にあたる、熊谷家の土蔵から真澄の日記など四冊が発見された。即ち「伊那の中路」「信濃略旅寝の記」「ふでのまま」「いほの春秋」であった。これら「伊那の中路」は四月一日からはじまり六月末まで、「信濃略旅寝」は七月末日、熊谷直堅の家ですすき魚の絵を見たところまで載っており、その終りに朝顔の歌百首が書いてあるという。また「ふでのまま」のなかにもこの日記の十月の部分が十一枚ふくまれており、これらを集めて、適当に取捨し一冊としたのが、真澄の旅中たずさえていた「伊那の中路」であった。

胡桃沢勘内が「旅と伝説」に書いているように、真澄遊覧記の発見は当時としては柳田国男をはしめとして東筑教育会の者達全体のよろこびであり、これを復刻しようということも柳田国男の信憑により忽ち決定され、第一に「伊那の中路」が復刻され、柳田は胡桃沢への書簡でもわかるように慎重ではあったが内心は誰よりも喜んだのではないかと思われる。

柳田は内閣文庫の調査をしていた頃から真澄のことは知っていたし、菅汀真澄を解明したいと、絶えず考えつづけていたし、何かのきっかけで真澄の関係資料が見つかってくれればと各所にそうした考え方をのべていたしそうした柳田のねがいをこめ久万章が各所に見られる。

柳田国男は菅江真澄に対しては特別の執念を特っていたから此の長興寺に対しても誰よりも違った愛着があったものと思われるし、それ故に東筑摩教育会の者達が菅汪真澄遊覧記の復刻を記念して柳田に講演を依頼した時も柳田は即座に会場を此処にするよう指示し、講演も只一篇のありきたりのものではなく、真澄の生涯の意志があらわれるようなもの、また柳田自身、何とかして普及させようとしていた民俗学の神髄でありもっとも身心を籠めたたまものであったと思うのである。

碑に刻まれた柳田国男に関する説明は、「柳田国男(一八七五~一九六一)貴族院書記官長にて役人をやめ、学究として日本民俗学を樹立、文化勲章受章、昭和五年長興寺二階広間に於いて三日間、民間伝承論大意を講ず、「この寺よって日本民俗学発祥の地とも云い得る」と記されている。講義終了後の二十七日の記念写真は長興寺の裏の庭園で松本の宮沢という写真館が撮影していて参加人員は八十九名である。此の時の講義をきいた、写真にうつっている者で生存者は何人あるか、約六十年をすぎた今日極めて稀少と言ってよいであろう。

柳田国男と並んで歌が刻まれている折口信夫(一八八七~一九五一)筆名釈迢空 文学博士、国文学、民俗学に独創的な学風を築き孤高な歌人、詩人、学者。民俗学は柳田の高弟、長興寺に於いて再度講義、講演宿泊する、昭和四年この寺での詠歌の一首である。と説明が刻まれている。折口信夫も柳田より少しおくれて東筑摩郡に入り国文学の講義をしたが、はじめ松本市和田小学校にいた小林謹一、時の校長矢ケ崎栄次郎の世話で講演会が持たれたようである。

小林謹一は折口の心酔者であったし、矢ケ崎は正岡子規などと文通、交際のある俳人でもあり、妻は太田水穂の妻四賀光子の姉であった。こんな関係から、夫ケ埼の交が合ったのだと思われる。

今井武志は「折口信夫と信州」の中で、折口が東筑に講義に来る際はじめは矢ケ崎のところで泊まっていたと書いている。折口は誠に真面目そうな顔をしていたが瓢逸なところがあり、時々茶目気を発揮して一座を湧かせるようなところがあったが、矢ケ崎の家にもそうした折口の性格を偲ばせる戯画が残されていたが現在も保存されているかどうか。折口の国文学の講義の仕方が、アカデミックでなく、而も柳田の民俗学を駆使したものであり、今までの国文学の説き方と大きく違っていたので、東筑の教員達を魅了したばかりでなく、各地の者達によろこばれてその講義をききたいという希望者が続出したのであった。

折口の解説にも刻まれていたように、国文学者、民俗学者、歌人その他広範囲にわたる研究と天性によって、他者の追随出来ぬものを持っていたと云える。

長興寺の民間伝承論大意はその後、段々と精選整理されて、昭和七年七月二日、東京帝国大学文学部安田講堂において、「フォクロアの蒐集と分類」と題して講演され、これが昭和九年民間伝承論となったのである。(発刊されたのは十年九月)

こうした経緯から見ても長興寺の石碑にあるように、日本民俗学発祥の地と考えても過言でないし、菅汀真澄の筆写本四冊を保存しておいた熊谷家が此処にあり、その子孫熊谷岱蔵が東北大学総長になって骨を彼の地に埋めたことも因縁なしとは言えぬものがあると思うのである。

現在は長興寺の柳田、折口の碑も訪れる者もすくないし、ましてや裏の庭園に足を運ぶ者も稀であろうが、交通の使から離れ、山懐に静かに世の俗塵から忘れられようとするこの寺域、歴史を長く保存したいし、門側の枝里桜が年々美しい花をつけ枝振りを伸ばしてほしいものである。






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最終更新日  2020年08月14日 11時14分29秒
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