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2020年08月15日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲斐源氏検証 軍記物語(2) 

 

第六編(巻九、河原合戦)安田三郎義定

                   

宇治・勢田やぶれぬと聞えしかば、木曾左馬頭義仲、最後の暇申さんとて、院の御所六条殿へ馳せ参る、(中略)大将軍九郎義経、軍兵共に戦をばせさせ、院御所のおぼつかなきに、守護し奉らんとて、まづ我身ともにひた甲五六騎、六条殿へはせまいる、(中略)法皇大に御感あて、やがて門をひらかせて入られけり、(中略)法皇は中門のれんじより叡覧あて、

「ゆゝしげなるもの共哉、みな名のらせよ」

と仰ければ、まづ大将軍九郎義経次に安田三郎義定畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、渋谷馬允重責とこそ名のたれ、義経ぐして、武士は六人、鎧はいろいろなりけれども、つらだましゐ事がらいづれもおとらず、

 

 (巻九、木曾義仲の最期)甲斐の一条次郎殿

 

義仲は長坂をへて丹波路へおもむくとも聞えけり、又龍花ごへにかゝて北国へともきこえけり、かかりしかども、今井が行ゑをきかばやとて、勢田の方へおちゆくほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田をかためたりけるが、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、旗をばまかせて、主のおぽつかなきに、宮こへとてかへすほどに、大津の打出の浜にて、木曾殿にゆきあひたてまつる、互になか一町ばかりよりそれとみして、主従駒をはやめてよりあふたり、木曾殿今井が手をとての給ひけるは、

「義仲六条河原でいかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくえの恋しさに、おほくの敵の中をかけわて、是まではのがれたる也」、

今井四郎、

「御ぢやうまことに恭なう候、兼平も勢田で打死つかまつるべう候つれども、御行えのおぼつかなさに、これまでまいて候」

とぞ申ける、木曾殿

「契はいまだくちせざりけり、義仲がせいは敵にをしへだてられ、山林にはせちて、此辺にもあるらんぞ、汝がまかせてもたせたる旗あげさせよ」

との給へば、今井が旗をさしあげたり、京よりおつる勢ともなく、勢田よりおつるものともなく、今井が旗を見つけて三百余騎ぞ馳せ集る、木曾大に悦て、

「此勢あらばなどか最後のいくさせざるべき、こヽにしぐらうで見ゆるはたが手やらん」、「甲斐の一条次郎忠頼殿とこそ承候へ」、

「せいはいくらほどあるやらん」、

「六千余騎とこそ聞え候へ」、

「さてはよい敵ごさんなれ、おなじう死なば、よからう敵にかけあふて、大勢の中でこそ打死をもせめ」とて、真っ先にこそすゝみけれ、木曾左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧きて、くわがたうたる甲の緒しめ、いか物づくりのおほ太刀はき、石うちの矢の、其日のいくさにいて少々のこたるを、かしらだかにおいなし、しげどうの弓もて、きこゆる木曾の鬼葦毛といふ馬の、きはめてふとうたくましゐに、黄覆輪の鞍をいてぞのたりける、あぶみふばりたちあがり、大音声をあげて名のりけるは、

 

「昔はきゝけん物を、木曾の冠者、今はみるらん、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや、甲斐の一条次郎とこそきけ、たがいによい敵ぞ、義仲うて兵衛佐に見せよや」とて、おめいてかく、

一条次郎、

「只今名乗るは大将軍ぞ、あますなもの共、もらすな若党、うてや」

とて、大ぜいの中にとりこめて、我うとらんとぞすゝみける、木曾三百余騎、六千余騎が中をたてさま・よこさま・蜘手・十文宇にかけわて、うしろへつといでたれば、五十騎ばかりになりにけり、

 

 (巻九、樋口被討罰)甲斐の一条次郎殿

 

今井が兄、樋口次郎兼光は、十郎蔵人うたんとて、河内国長野の城へこえたりけるが、そこにてはうちもらしぬ、紀伊国名草にありと聞えしかば、やがてつゞゐてこえたりけるが、都にいくさありときいて馳のぼる、(中略)

五百余騎のせい、あそこにひかへここにひかへ落行ほどに、鳥羽の南の門をいでけるには、其勢わづかに廿余騎にぞなりにける、樋口次郎けふすでに宮こへ人と聞えしかば、党も豪家も七条・朱雀・四塚さまへ馳向、樋口が手に茅野太郎と云ものあり、四塚にいくらも馳むかふたる敵の中へかけ人、大音声をあげて、「此御中に、甲斐の一条次郎殿の御手の人や在ます」ととひければ、

「あながち一条次郎殿の手で戦をばするか、誰にもあへかし」

とて、どとわらふ、わらはれてなのりけるは、

「かう申は信濃国諏訪上官の住人、茅野大夫光家が子に、茅野太郎光広、必ず一条次郎殿の御手をたづぬるにはあらず、おとゝの茅野七郎それにあり、光広が子共二人、信濃国に候が、「あぱれわが父はようてや死にたるらん、あしうてや死にたるらん」となげかん処に、おとゝの七郎がまへで打死して、子共にたしかにきかせんと思ため也、敵をばきらふまじ」

とて、あれに馳あひ是にはせあひ、敵三騎ゐおとし、四人にあたる敵にをしならべ、ひくでどうどおち、さしちがへてぞ死にける。

 

 (巻九、三草勢揃)武田太郎信義他

                    

さる程に、源氏は四日よすべかりしが、故人道(平清盛)相国の忌日ときいて、仏事をとげさせんがためによせず、五日は西ふさがり、六日は道忌日、七日の卯剋に、一谷の東西の木戸口にて源平矢合とこそさだめけれ、さりながらも、四日は吉日なればとて、大手搦手の大将軍、軍兵二手にわかて都をたつ、

大手の大将軍は蒲御曹司範頼、

相伴人々、武田太郎信義・鏡美次郎遠光・同小次郎長清・山名次郎教義・同三郎義行、侍大将には梶原平三景時・嫡子源太景季・次男平次景高・同三郎景家(中略)を先として、都合其勢五万余騎、四日の辰の一点に都をたて、其日中酉の剋に摂津国蹴陽野に陣をとる、搦手の大将軍は九郎御曹司義経、同く伴ふ人々、安田三郎義貞・大内太郎維義・行上判宮代康国・田代冠者信綱、侍大将には土肥次郎実平・子息弥太郎遠平、(中略)都合其勢一万余騎、同日の同時に都をたて丹波路にかゝり、二日路を一日にうて、播磨と丹波のさかひなる三草の山の東の山口に、小野原にこそつきにけれ、

 

 (巻十、海道下)甲斐の白根

 

さる程に、本三位中将(平重衛)をば、鎌倉の前兵衛佐頼朝、しきりに申されければ、「さらばくださるべし」とて、土肥次郎実平が手より、まづ九郎御曹司の宿所へわたしたてまつる、同三月十日、、梶原平三景時にぐせられて、鎌倉へこそくだられけれ、西国よりいけどりにせられて、宮こへかへるだに口おしきに、いつしか又関の東へおもむかれけん心のうち、をしはかられて哀也、(中略)宮こをいでて日数ふれば、やよひもなか半すぎ、春もすでにくれなんとす、(中略)宇都の山辺の蔦の道、心ぼそくもうちこえて、手ごしをすぎてゆけば、北にとをざかて、雪しろき山あり、とへば甲斐のしら根といふ、其時三位中将おつる涙ををさへて、かうぞおもひつゞけ給ふ。

  

おしからぬ命なれどもけふまでぞ

つれなきかひのしらねをもみつ

 

(巻十、藤戸) 加賀美次郎長清

 

(元暦元年)同九月十二日、参河守範頼、平家追討のために西国へ発向す、相ひ伴ふ人々、足利蔵人義兼・鏡美(加賀美)小次郎長清・北条小四郎義時・斎院次官親義、侍大将には、土肥次郎実平・子息弥太郎遠平(中略)此等を初として都合其勢三万余騎、宮こをたて播磨の室にぞっきにける、

 

(巻十一、遠矢)浅利与一

 

又判官(義経)ののり給へる船に、奥よりしらののおほ矢をひとつゐたてて、和田がやうに

「こなたへ給はらん」

とぞまねいたる、判官是をぬかせて見給へば、しらのに山鳥の尾をもてはいだりける矢の、十四束三ぶせあるに、伊予国住人、仁井紀四郎親清とぞかきつけたる、判官、後藤兵衛実基をめして、「この矢ゐつべきもの、みかたに誰かある」との給へば、

「甲斐源氏に阿佐里(浅利)与一(義成)殿こそ、勢兵にて在まし候へ」、

「さらばよべ」

とてよばれければ、

阿佐里の与一いできたり、判官の給ひけるは、

「奥よりこの矢をゐて候が、ゐかへせとまねき候、御へんあそばし候なむや」、

「給て見候はん」

とて、つまよて、

「是はすこしよはう候、矢づかもちとみじかう候、おなじうは義成が具足にてつかまつり候はん」

とて、ぬりごめ藤の弓の九尺ばかりあるに、ぬりのにくろぽろはいだる矢の、我が大手にをしにぎて、十五束ありけるをうちくわせ、よぴいてひやうどはなつ、四町余をつとゐわたして、大船のへにたたる仁井の紀四郎親清かまたゞなかをひやうふつとゐて、船底へ逆さまにゐたうす、生死をばしらず、

阿佐里の与一はもとより勢兵の手きゝなり、二町にはしる鹿をば、はづさずゐけるとぞきこえし。






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最終更新日  2020年08月15日 18時57分34秒
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