カテゴリ:山口素堂資料室
この書には、山口素堂について重要な内容が記載されている。
一、素堂の孫素安のこと。 二、素堂と百庵の関係。 三、素堂亭が享保二十年まで存在していたこと。 四、素堂号の継承のこと。
これらのよって、これまでの素堂事績・生涯が大きく変わること。
【毫の秋 本文】
解 題
寺町百庵編。 九歳で夭折した編者の息安明の一周忌追善集。 百庵は寺町氏、名は三知、また友三。 号を道阿・梅仁翁・不二山人・新柳亭という。 また、蜃子(しんし)言満と狂名し、越智百庵とも記している。 天明六年二月二十七日没。享年九十二。 浅草清元寺に葬る。 居所を替る癖があり、移居百度に及んだので百庵と号したという。 幕府の茶坊主で百俵二人扶持をうけ、御坊主組頭をつとめたが、 事あって(柳営連歌の連衆となるべく運勤したためと伝える) 鼓楼の時守に落とされ、後には小普請入りとなる。 茶坊主三百余人の中で、成島道筑と並んで名物男となり、 かの紀伊国屋文左衛門が吉原で豪遊し、 小粒金で豆撒きをした時、 その撒き手となったのが百庵であったと伝える。 俳諧は二世青峨門(一説に素堂門)で、 編著に『花葉集』(明和頃刊)がある。 俳諧のほか連歌師、歌学者、故実考証家としても知られ、 『梅花林叢漫談』『林叢余談』『歌嚢井蛙談』『楓考』 『蕨薇考』『花月弁』『芭蕉考』などの著書かおる。
編者自身や息安明の生い立ちを語った冒頭の追悼文は伝記資料として貴重であるが、それによると安明は七歳の頃から手習師匠勝間龍水の許に通い、栢筵の養子升五郎(三代目団十郎・俳号徳弁)・江戸座の宗匠羊素の息長芙とは同窓の仲で、本書にも龍水(新泉勝安定)の追悼詩、長英・徳弁の追悼句が見えている。
また、素堂の孫と称する山口素安の追悼文によると、百庵は素堂の一族であるといい、安明の埋葬の日(享保二十年九月十一日)をもって素堂の号を百庵に与えたとある(来雪の素堂号襲名h披露集『連俳睦百韻』(安水八年刊)の序文に、素堂襲名をすすめられたが辞退したと、百庵自ら述べている)。 執文朝か愛子失にし嘆き 我もおなしかなしみの袂を湿すまことや 往し年九月十日 我祖父素堂亭にコ一宴を催しける頃 よめ菜の中に残る菊 といひしは嵐雪か句なり 猶この亡日に おなしきを思ひよせて 十日の菊よめ菜もとらす哀也
かくて仏前に焼香するの序 秋月素堂か位牌を拝す百庵 もとより素堂か一族にして 誹道に志厚し我又誹にうとけれは 祖父(素堂)か名癈れなむ事を惜しみ 此の名を以て百庵へ贈らむと思ふに そかゝるうきか中にも道をよみするの 風流みのかさの晴間なくたゝちにうけかひぬ よつて素堂世に用る所の押印を添て 享保乙卯(二〇年)の秋九月十一日に 素堂の名を己百庵へあたへぬ 山口素安 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年08月16日 18時30分44秒
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