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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月17日
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専念洋学に傾注せり 海軍兵学校

 明治二年、秀樹二十一才「専念洋学に傾注せり」と記す。地理物理の簡易なものから始めてパーレ一万国史(13)、グードリッチ万国史(14)、英国史(15)、考読了して世界事情が分り、海軍立国によらなければ「欧洲人の奴隷とならんこと必然なり」いと考え、その年海軍兵学校の教師となり、やがて公務の暇をみて訳業時代が明治七年から同二十一年に江田島の兵学校に移る迄十五年間続く、その中十二年までの六年間が西欧文明の迅速果敢、精力的な伝達者として文明開化の先鋒に立った時期である。訳業についての詳細は稿を改めることとして、発行年代順に書名をあげ、その時代的意味を加えることゝする。

     明治七年(一八七四)

★『富国論』ヲォーケル著

★『欧羅巴文明史』(十四巻)仏国ギゾー氏原著、米国ヘンリー氏訳述、永峰秀樹再訳(18

★『開巻驚奇/暴夜物語(あらびやものがたり)』(二巻)

     明治八年(一八七五)

『物理問答』(四冊)(明治七年アメリカで発行された『ウエル』氏及び『クユッケンボス』氏の物理学ヨリ抄訳セル者)

★『智氏家訓』(英国チェストルフィールド原著 駿河永峰秀樹訳述)(二巻)

明治九年(一八七六)

★『小学経済家政要旨』ハスケル夫人著(上下二篇)抄訳、

☆ 明治十年(一八七七)

★『代議政体』モル著(四巻)、

★『筆算教授者』(五冊)

☆ 明治十三年

★『農学初歩』(上中下三巻)

☆ その他

★『華英字典訓訳」

★『ホーセット経済学』

★『人身窮理』と、めまぐるしい。

 

明治初期の日本が最も必要とすると永峰が考えたと思われるのは、政治経済、科学であろうが、その訳業についてみると全訳は僅かで抄訳、訳述によっている。これは例えばアメリカで前年出版のものを翌年訳出出版した『物理問答』のように時勢の要求に鑑み情報の速さを求めたためであろう。柳田先生が「『暴夜物語』訳者、永峰秀樹」として紹介されている「千一夜物語」は今日の眼では娯薬読物で、彼の仕事の中で変り種であるが、千一夜の最初の日本訳として注目されているものである。先生との対談で「世界の様々の事を知らしめて、島国的独善をくじくことにあった」。(『翻訳文学』二九七頁)といっているのを見ると、開化の花開く日本の実現への彼の意図の中で妥当化されてはいるが、永峰の武士的エリートの道義的責任感からの釈明とも考えられる。とにかく近代西欧文明の事象、制度にあてはまる言葉を一々創造してゆかねばならない時代に、政経は勿論近代科学の色々の分野、物理、化学地学、医学、薬学、農学までの尋問的知識の受容と伝達を速やかにやりとげた能力と努力には感嘆と敬意を禁ずることが出来ない。

 

海軍教授の職を去る 第二の人生

 明治三十五年(一九〇二)二月には海軍教授の職を去る。彼の宿願であった日英攻守同盟が締結されたことと、「海軍当局の方針、余の方針と合せざるを以て」である。併し「青年の素望を半ば遂げたりと自讃す」と満足感を表わす。ここで余生ならざる第二の人生が始

まる。自由人としての、又哲学的思索家としての彼の人間完成の最後の仕事が待っているのである。彼のいう「性」の研究への決心である。公務に遮られ鬱屈していた哲学的探求心が暴発するのである。彼によると「性」は心で、心は外貌に現われる。法華経の如是相、如定性のごとく十如是は彼の専念するフレノロジー(「脳の生理学を本として立てたる人心の哲学の一科学なり)の所論と同じである。人の行為は千差万別であるが、性について

も「其性の同一なるはなきものと断定して可なり。」といい、従って議会、国際会議などを良法と主張する。民は由塙しむべし、知らしむべからず、という孔子を排し、民の意を汲みとり、民を治める管仲を讃える。彼はギゾー、ミルらを通じて学んだ「平民宗」すなわら民主主義及び合理性を人間の本性の立場から哲学的宗教的に裏付けようと第二の人生を捧げたといってよい。一九一八年(大正七年)、七十才でスコットランド人コーム知者『性相学原論』(31)糾を出す。「拮据勉励二年喝毎日平均十二、三時間」(序文)の仕事で大型洋装九六五ページぎっしりの印刷である。如何にこの仕事に執念したかが分る。フレノロジ-は現代の心理学では「科学」とは認められていない。併し彼は彼なりに、胎動期日本を生き抜いた体験と東西の宗教面学を総覧した上で、人生の救いをここに求めたのであろう。

 彼は退官後二年の一九〇四年(明治三七年)年三月『人と日本人』(洋裁、中型、二〇七頁)を著したが、実に日露戦争の前夜のことである。

「道徳上流に頽れ、産業未だ振はず、宗教は無能なり、世界に対して譲らざるものは、唯一武事あるのみ、寒心に堪へず。(中略)、一日緩やかなるを許さず、緩なれば及ばざるの悔あらん]

と国際的視野に立ら愛国の至誠を披瀝したもので、自愛は人の性なり、天命なりと率直に認め、ガルソンを例として人間の情の霊妙さを説き、社会団結の中心として女性尊重を説き、世界一家の美、国際法の発達、東西文明は世界文明なる必然性を予測し、外国よりの制度

移入に注意を向け、ドイツ帝国軍人精神教育のごときは情の結合でなく武力中心の国のもので日本には不適当であるとし、

「日本の職人は紳士なり……日本魂は下層に充満するなり、大多数の中に凛乎としで存す、真に頼母敷なり…」

と「平民宗」、民主々義をうたうなど、西欧近代文化専横取批判した彼の史的見通しは第

二次大戦後の日本の姿を映していた。明治リベラリズムの寛大さや兵学校教授として長年にわたり築いた海軍における牢固たる己の位置への自信は当然認められるとしても、この本が日露開戦と殆んど時を同じくして発刊されたことは、彼が武士志願の動機となった田原藤太秀郷の後裔であるという自負、家の系図への思慕が常に彼の深奥心理に潜んでいたことが直接の動因ではなかったろうか。彼の文明論、社会国家論も、「人の性」論(『人と日本人』第二章参照)から出発する。その根底には洋々たる慈愛、仏家的仁慈、医家的仁術の心、が流れている。自愛と精神の自由を彼は高唱する。青年英学者の心理の暗闇の中で屈折していた特質が四十代頃から頭を擡(もた)げて来たのである。

「余は性の闡名には、少時より恩を擬したこともあれども、他に眼前の学事が忙しきまま、専心ここに向うことなかりき。」

甲州の山岳地域の修験であった祖先への先祖返り、宗教的アタヴイズムが五十代以後の

彼に訪れたのではないか。とまれ、自伝の欠落部分として指摘したものの存在を見過しにすることは出来ないであろう。

(付) 

なお薬王寺が焼失したのか、取り毀されたのかについて、関係方面を調べたがはっきり分らない。明治四年生れで昨年亡くなられた。広瀬とらさん(「薬王寺あと」前に居住)を訪ねたが

「陽の目に当ることがえらくて弱いぢゃないけれど寝ている」というのでお目にかかれなかったが、息子の律氏(七十六才)の伝えられた処によると、薬王寺はとらさんの子供の時既に火災でなくなり、土台石があって、切り段のようになっていた。「おのうたけは賑やかだった。おめえり(お参り)にたくさん来た。」といわれた。

おのうたけは 「おのたけ祭り」ともいう。

筆者(保坂氏)注。

御嶽祭(おんたけ祭)の訛か)、浅尾新田調査に精しい同所の窪田幸民翁の『浅尾新田讃詞』(昭和三十七年秋)の一節に、

「この外堀に関係の/大峯山や薬王寺/山伏姿の修験僧/影も形も今は無し。」

江戸末期寺小屋調査(明野村誌 六三七貞)では

「朝神村浅尾新田修験小野秀豊/教師一人男五十人、女十人 嘉永五年調べ/教科書名 寺小屋本 四書 五経 文選/学習年限 凡七年」

 とあるから、焼けたとすれば、嘉永五年から明治十年頃までの間であろうか。

【私註】

 私が地域の関係者に取材したところ、小野家は浅尾新田の某家を借りて塾講義を行っていたとのことです。またこの地域には測量土木技術に卓越した窪田幸左衛門も輩出し、山梨県のこれはという工事に晩年まで活躍していました。

 

 出所ページを省略したものは「思い出のまゝ」からの引用である。

1)柳田泉『明治初期翻訳文学の研究』(『明治文学研究』5 二九一~二九八頁、春秋社、昭和三六年九月。(以下『翻訳文学』と略す)。これは『新旧時代/明治文化研究』第四巻第一号、三省堂、昭和三年一月 四三~四七頁に始めて発表されたもの。

2)秀樹の長男、後嗣、農学土。著書には『蓄牛新論』明治四四年。『綿羊の飼方』大正七年。

3)編集兼発行者 永峰春樹、洋装五十五頁、昭和三年三月、私家版、外に「腐れ行く幕府」「宮腰」「著述書名」「晩年略歴」十葬儀次第」を付している。幕末、維新、明治と近代日本の夜明けを生き抜き、わが国国有の文化風土に二十才迄を過し、やがて、(略)西欧文明  を「英書」を通して吸収した日本知識人の自己形成の白書である。(略)「人と日本人」「フレノロージの原理」を合せ読むことにより精神形成の経過をたどることが出来る。

4)「明治文化研究の権威」は昭和四四年六月八日、東京朝日新聞の柳田泉、死亡記事に用いられた。

5)『思出のまゝ』(以下『思出』と略す)一頁。

6)『明野村誌』昭和三八年三月。一九七頁「一、当村より方々道法覚」より。

7)薬王寺より慶応四辰(一八六八)年八月「甲府寺社御役所」へ提出の「明細書」

(「甲斐国社記、寺記」第四巻 寺院編 昭和四四年十月 山梨県立図書館)では

「一、医師 右小仙先祖小野玄貞秀長儀ハ拙寺四世玉宝院秀伝三男ニ御座候所去ル享保年中寺門江分家仕侯」

盛呂院は、「明細書」によると五代目であり、又三代目は和合院であるので「村中世代」とは若干違うが、「寺門へ分家」の事は明らかである。

8)初名鍬三、杏国と号す。一八六九~一九二五(明治二~大正一四)市川大門の人、明治二九年東京帝国医科、大学卒、山梨県病院長、甲府病院創立(『甲州医師伝』(「若尾資料」)大正八年一二月、一三三枚冊子(未刊、直筆、原稿のまゝ)は「甲州の蘭方医学」「甲州痘科及種痘」を含み貴重な山県下蘭学史の資料。

9)『甲斐志料集成』一一、二七三百、昭和九年三月。

10)『甲斐国 社記寺記』第四巻、寺院篇、九四七-九四八頁。

11)『峡中家歴鑑巻三の上』明治二十四年十一月。不動山金剛寺(明野村朝神〔浅尾新田〕 の由来。

12)出典(10)と同じ、九四七頁上段

 

主な沼津兵学校資業生より

永峰 秀樹(2)

甲斐国北巨摩郡浅尾新田の蘭方医小野通仙の子として嘉永元年に生まれる。旧名矯四郎。甲府の徽典館で学んだほか、京都や江戸に遊学。永峰家の養子に入り、幕臣となり、維新時には撒兵隊士として官軍と抗戦した。

沼津兵学校では英語を熱心に勉強し、明治4年に上京、荒川重平・中川将行らとともに海軍兵学寮の教官となった。海軍兵学校が江田島に移された後も、明治35年に退官するまで勤続した。アラビアンナイト、ギゾーの文明史、ミルの代議政体論など、さまざまな分野の翻訳書を多数残した。昭和2年没。






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最終更新日  2020年08月17日 13時16分14秒
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