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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月17日
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永峯秀樹 開化期英学者の精神形成の背景
 -「薬王寺あと」を中心としてー
『中央線』第10号 特別号 1973
保坂忠信氏著 一部加筆(白州ふるさと文庫)
<永峰秀樹の輪廊>
一八四八年(嘉永一年)・六月一日~一九二七年(昭和二年)十二月三日。
山梨県明野村浅尾新田の蘭方医小野通仙の末子(三人の兄も蘭法医)として生まれた。
徽典館に学び漢詩文と剣道に優れ、十九才の一八六六年(慶応二)年京都に遊学、高知、長崎に航し、江戸に出て士族永峰氏の名義上の後嗣となり、武士の身分を得て幕末の騒乱に幕臣として活躍、その節を全うし、明治維新と共に静岡に下り、徳川家設立の沼津兵学校に入力、英語を学んだが、その陸軍主義教育を不満とし、一八七二年(明治五)年築地の官立の海軍兵学校寮に入学し、却って数学教師として迎えられ、ここで英米人教師につき英学に専念、本格的英語教授として江田島時代を通じて、明治三五年(一九〇二)退官まで三十年間、わが国草創期の海軍士官養成に努めた。
長兄小野泉からと徽典館で学んだ漢文速読法の下地があったため、彼の英語読書力は抜群で、島国日本人の眼を西欧の文化に聞かせようと、豊富な漢語を使駆して、彼独自の文体をつくりつつ、明治十年代迄の開化期の西欧文化移入の第一線に立った。
 永峰秀樹の最初の紹介者柳田泉先生は「私が秀樹氏を訪うたのは、昭和二(一九二七)年九月二十四日で、吉野作造先生のお伴として出かけたのであった、以上に述べた秀樹氏の伝記をお聞きすることが出来たのは、全く吉野先生の御配慮によることで深謝にたえない。」と「「暴夜物語』 (あらびやものがたり)訳者、「永峰秀樹伝」に書いておられるが、その稿を秀樹死去の十二月三日に書いたといい、「かくてこの稿は、永峰氏に閲する殆んど唯一の文献となるかも知れないことになった。」と付け加えておられる。
 伴し永峰秀樹が柳田先生に語った「秀樹伝」のもとになったものは其の時既に遺稿として出来上っていたと思われることは嗣子春樹氏はが永峰の自伝である「思い出のまゝ」はの「序に代へて」で
「病後の歳五月、某所謂『読書にも倦めり、眼も曇れり』とある閑余の業にして、半紙三帖ばかりを自ら草紙風に綴り、随感随録いまだその半ばにも遷せざる未完稿なるが、亡父歿後これを其机辺に発見し、読みゆくまゝに、亡父が経歴これを掌に指すが如く、云々」 
といっていることからも分る。
永峰は柳田らが会った時には「大分老衰されて、賢臓を病んでから身体が自由ならぬ旨
をこぼしていられたが……」というような状況で、柳田先生の聞き書きしてあるのは、永峰の生誕から江田島の海軍兵学寮教授時代迄でその話しの順序、内容ともに「思い出のまゝ」の該当部分と殆んど同じである。これらの事から、訪問客に話した九月二十四日の時点では、この自伝は既に書き上げてあったと推察きれる。
 さて本稿の主要部分は秀樹が自伝でいう医業数代の以前は、真言修験の寺院であった事実の実証調査であり、それは自伝の欠落部分の補填の仕事であるといってもよい。何故なら後説する積りであるが、秀樹は訳業を通しての外国文化移入と海軍丘学校教授としての永年の社会的、公的生活に終止符亨つって、かねがね心に疼いていた思われる彼のフレノロジー(「骨相学」後に、(「性相学」と訳す)を以て自己完成への最終段階に到達するのであるが、系譜のこの欠落部分はこの時期にその潜勢力を最も発揮していると私には思われるからである。
 さて明治文化研究の権威(4)柳田泉先生が折紙つける「明治初期文化功労者の一人」である永峰はこの自伝を次のように始めている。
永峯自伝
「先ず初めに余が幼時より記さん。余は嘉永元(一八四八)年六月朔日に、甲斐の国巨摩郡浅尾新田という辺土に生まれたり。」
「父は小野通仙と号す。予は其四男なり。長兄は小仙(小野泉)、二男が春助、三男は琢輔(助)という。家は土地の旧家にして、数代前より医を業とし、村内にては、否、近村に尊重せられ居たり。父は医業ながら旧法を捨て、蘭法を修し、長兄は江戸の戸塚玄海翁の塾に入り、帝方医として立てり。」
生家跡を訪ねる
(5)私が彼の生家跡「巨摩郡浅尾新田」(現、北巨摩郡(北杜市)明野村浅尾新田)の「薬王寺あと」に始めて立ったのは、一昨年の三月五日の夕方で、降雪後の寒気の酷しい桑畑であった。韮崎駅から明野線バスで三十分、便の大樹が立つバス停「朝神小学校」(現在は廃校)に到る、標高六百米、夏なら爽冷の気流れる地である。こゝから右手に少し入ると、桑畑が部落を見下す小丘に続き、萱(茅)ケ嶽が背景に近々と聳え立ち、続いて左は八ヶ岳の八峯、金峯山、瑞牆(みずがき)と続き体を半廻転して、向い合う正面は遥か駒ケ嶽、鳳凰三山、北岳と南ア連山の屏風に塞がれる。その左に当って、つまり、この郡の南方にだけ平地が展開する。塩川釜無川の流れる地域で韮崎を含み、甲府盆地に続く。さてその丘の籔の繁みに苔蒸した薬王寺代々の院王の墓「天保二年阿闍梨法印秀英」などという長円形の墓の群落が右手に、左手の下った処に小野家の墓が何基も見えた。この村の慣習として屋敷内に祀ったものであるという。古井戸が枯れ草に蔽われ屋敷の唯一の名残を止めていた(現在は無い)。生家跡とこの桑畑を私がきめたのは後に述べる理由に基づく。彼の生家の隣保でさえ秀樹の名前は勿論、医業数代と秀樹の記す医家小野氏に就いては皆目見当もつかないのである。この桑畑は土地では「薬王寺あと」といゝ、今は某氏の所有地である。こゝで、薬王寺と永峰の生家である小野家との関係が問題になるわけであるが、先ず順序として「甲斐の国巨摩郡浅尾新田という辺土」を一瞥しておくことが便利であると思う。
浅尾新田について
 浅居新田は徳川寛永年闇、すなわち十七世紀の前半、茅ケ岳の麓西の浅尾原の無毛の原野に幕府の出資を求めず、近村の百姓の熱意だけで誕生した新開拓地である。一六三九(寛永六)年、朝神村上神取(かみかんどり)村百姓十右衛門、清右衛門の自普請で浅尾堰、二・五粁を開さく、一六四八(慶安元)年に完成となるが、徳川幕府が労役と屋敷年貢免除の保護政策をとらねばならぬ程の困難な開拓であった。浅尾新田村はこの堰に沿って出来、府中(甲府)から信州川上に通じる脇道往還としても重要であった。
宝永二年(一七〇四)浅尾新田の「明細書」の「江戸へ四十二里、当村より鰍沢湊迄八里、甲府御城下迄五里半」(6)の距離はさることながら、重畳たる山岳、特に笹子、小仏の峰瞼と富士川の激流が首座を占めた甲斐の閉塞された風景から、秀樹のいう「辺土」の感じが否応なしに生れたのであろう。
 さて開拓民の五十七屋敷が整然と区別され「薬王寺あと」は、
「三拾八番/屋敷三反二畝歩の内/壱反六畝分薬王寺/壱反六畝分 玄貞」
と「村中世代』に明記されているのが、今日桑畑として現存しているものである。
 この『村中世代』という開拓民の各戸の土地面積と世代の名前を記した冊子は「薬王寺あと」の近くに住む富原靖民氏の秘蔵するもので、宮原家は名主、長百姓を代々勤め靖民氏が十二代に当る。宮原氏のご尽力により秀樹が七才までを過した生家跡を確め得たことを深く感謝する。
 『村中世代』には底本となった『村中世代覚』がある。それは一枚の和紙、障子紙風の和紙が継ぎ合わさったもので、大きさは36×133センチメートル、縦の三分の二の紙に細字でぎっしりと記され、裏面までも書きこんである。この「覚」はその蓋が二百年余の年月に赤黒ずんで一見した処では「御通」としか読めなくなっている。「御通観/浅尾新田 長右衛門」に保存され、蓋の裏には、「宝暦四(一七五四)年成蝋月五日」とある。この「覚」
を八代目宮原清右衛門が百年後の嘉永七(一八五四)寅年に書き攻めたものが『村中世代』である。この方は頗る厚い和紙と折り畳み式にした三十枚の冊子で表紙は濃紺の厚紙をはり永久保存に耐える。清右衛門の丹念な人柄が知られる。この「村中世代』は秀樹の記す医業数代と医業前の家業を明瞭に示している。





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最終更新日  2020年08月17日 13時21分35秒
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