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2020年08月21日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲斐源氏の祖 新羅三郎義光の悪行と評価

武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)文中の各標題は加筆

 義光は刑部丞という中央官職にありながら常陸国に土着をはかり、そのためには朝廷の命令や骨肉の情をもかえりみたかったのであります。
重幹の子である致幹は、後三年の役に参加しています。『奥州後三年記』によると、後三年の役の発端は常陸国の猛者多気権守宗基の娘と源頼義との間に生まれた女子が美女であり、これを清原真衝の養子である海道小太郎成衡に嫁がせとき、その婚礼の儀から起こった争いだ、と伝えています。事の真否はともかく常陸平氏が維幹から致幹に至る時代に、源氏と親密な関係を成立させたことが知られるのです。
致幹らの兄弟は水戸、結城、真壁方面に進出しました。とくに清幹は吉田次郎と称し、その三子は吉田太郎盛幹、行方次郎忠幹、鹿島三郎成幹で、それぞれ吉田、行方、鹿島氏の祖となったのです。義光や義清・清光が関係を持ったのが、この清幹の子どもたちであります。
嘉承元年(二〇六)七月、源義家が世を去ると源氏の棟梁の地位をめぐり内紛がおきるのです。その地位をねらったのは義家の弟の義綱と義光です。『尊卑分脈』には、つぎのような話を記しています。
義光は甥の義忠(義家の第四子)が嫡家を継承して、天下の栄名を得るのをねたみ、郎等の鹿島冠者三郎を語らって義忠を討たせた。三郎が目的を果たしたその夜、三井寺で首尾を待つ義光に報告すると、義光は書状をそえて三郎を弟の僧快誉の宿坊へやった。快誉は前もって深い穴を掘っておき、三郎を捕えて穴に藩とし埋め殺したというのです。
「常陸大橡系図」によると、重幹の孫の成幹が鹿島三郎と称しています。成幹は義光の嫡男義業の妻の兄に当たる人物なのです。
源義忠の殺害は、都の人びとに大きな衝撃を与えました。藤原忠実の日記『殿暦」天仁二年(一一〇九)二月八日条には、「伝え聞く、検非違使源義忠、去る三日夜、殺害され了ぬ」とあり、『百錬抄』にも二月三日夜、源義忠が郎従のために刃傷され、同五日に死去した、とあります。朝廷では義忠殺害の犯人を義綱の三男義明とにらんで、これを追捕し邸内の庭で殺してしまったのです。父の義綱は、これを知って憤激し近江に走ったが、捕えられて佐渡に流されてしまいました。こうして義綱一家は源氏の勢力を抑えようとする朝廷や、それに利用された義光によって悲惨な結末を迎えてしまったのです。
義光は自分の勢力を拡大するためには、兄や甥ばかりでなく、わが子の妻の兄まで殺したり、窮地におとしたりしたのであります。『今昔物語集」と『十訓抄」には、義光が院の近臣として(?)潅勢のあった六条顕季と東国の荘をめぐって争いをしたことが記されています。その荘は常陸国多珂郡の国境に近い菊多荘ともいわれるが、久慈郡佐竹郷とみる説もあります。ここはもともと顕季の領地であったから顕季に理があり、義光に非があることは最初からわかっていたのです。しかし白河法皇の裁定がないので、顕季は内心ひそかに法皇をうらめしく思っていたのです。
ある日、顕季が御前に伺候していると、法皇は顕季に対し、この問題の理非はよくわかっているが、義光はあの荘一か所に命をかけている。もし道理のままに裁定したら、「義光はえびすのようなる心もなきものなり。安からず思わんままに、夜中にもあれ、大路通りつるにてもあれ、いかたるわざわいをせんと思立たばおのれのためにゆゆしき大事にはあらずや」、つまり義光は「えびす」のような無法者だからなにをするかわからたい。だから自分の身を守るためにも、あの荘は義光に譲ってはどうかと仰せられた。顕季は涙を飲んで仰造にしたがい、義光を招いて事の次第を告げ、譲状を書いて与えた。義光は大いによろこびただちに顕季に名簿を捧げて臣従を誓った。
それからしばらくたったある夜のこと、顕季が伏見の鳥羽殿から二、三人の雑色をつれて京に向かったところ、鳥羽の作道あたりから甲冑を帯びた武者五、六騎が車の前後についてきたので、顕季は恐ろしくなって供の雑色に尋ねさせた。すると夜になって供の人もなく退出されるので、刑部丞殿(義光)の命令によって警衛している、と答えた。顕季は今さらながら法皇の深いはからいに感謝したというのである。
この説話の信愚性については間題がありますが、義光がいかに常陸国に自分の所領を欲していたかを知ることができるのです。また公家から義光が「えびすのようたる心もなき者」とその無法ぶりを恐れられていたことがわかるのです。
◇甲斐源氏の祖 新羅三郎義光の子 義業、実光、義清、盛義、親義
義光には義業、実光、義清、盛義、親義らの子がありました。
嫡男の義業は吉田清幹の女をめとって久慈郡佐竹郷に住んだ。その子昌義は佐竹冠者と号し、常陸国に定住するのです。
義清は那賀郡(吉田郡)武田郷に住んで刑部三郎武田冠者と呼ばれています。「武田」は武田郷の地名であり、この地に定住したことを示しているのです。

刑部三郎は父義光が刑部丞なので、その三男の意味です。義光は常陸国への進出にあたり、常陸大橡平重幹・致幹父子と提携しました。那珂川以南の地が常陸平氏の支配下にあるのを知った義光は、那珂川以北に拠点を作ろうとしたのです。そこで致幹の弟の吉田清幹に近づき、その女を嫡男義業の妻に迎えたのです。こうして義業を久慈川流域の佐竹郷に、義清を那珂川北岸の武田郷に配置することに成功したのです。

佐竹郷と武田郷の地は、ともに水運の拠点でした。佐竹郷は久慈川・山田川の合流点にも近く、古代には河川港があった可能性があります。というのは『旧事本紀』の『国造本紀』によると、久自国造は成務天皇の御代に、物部連祖伊香色雄命の三世の孫船瀬足尼を国造に定めた、とみえます。久自国造の名である「船瀬」は、大輸田船瀬(神戸港)、水児船瀬(加古川市の加古川河口)が示すように河川港と関係のある名であります。また船瀬には船の停泊地、造船所、物資集積地の意味があります。おそらく、久自国造は久慈川・山田川合流地付近にあつた河川港を支配したものと思われます。
那珂川流域の武田郷も水運と関係があります。『和名抄』には那賀郡川辺郷の名がみえます。川辺は川部とも書き、重要河川に置かれ、渡し舟や物資輸送に従事した部民が設けられていたのです。那珂川も古代には重要河川とされていたのです。武田郷の対岸の水戸は三戸とも記され、かって「御津」と呼ばれた可能性があります。『万葉集』巻一の六三にみえる「大伴の御津の浜松」が、巻七の(?)一一五一の歌に「大伴の三津の浜辺」とみえ、伊勢国度会郡の「御津」も『山家集」に「三津」とあり、近江の坂本の津も「御津」(三津)と呼ばれていたのです。御津には難波御津が示すように特別に重要な港の意味があります。御津は中世には御(三)戸とも呼ばれるようになります。『常陸国風土記』那賀郡の条にみえる「平津」は中世には「平戸」となります。岩手県の大船戸もかつては大船津と呼ばれていたのでしょう。水戸もかつては那珂川と千波湖が通ずる大きた入江のようになっており、重要な河川港の役割りを果たしていたのです。
武田の地も那珂川北岸の物資の積出しが行われたことも考えられます。付近の勝倉には船渡がありました。
こうした水運の拠点に義光は、義業・義清を配置したのです。
義光は『尊卑分脈」には「平日、三井寺に住す」とあるので、近江大津の水運の重要性を熟知していたのであります。義光と吉田清幹は、一時はかたり親密な関係にあったようです。浅羽本「武田系図」によれば、義光は清幹の女をめとって義清をもうけています。義清の名も義光の「義」と清幹の「清」をとって付けたことも考えられます。また『尊卑分脈』には、清幹の二男成幹(鹿島三郎)が「義光の郎等」とみえますので、義光は吉田郡の郡司でもあった清幹父子の力を背景に吉田郡や鹿島郡の地にも勢力を伸ばそうとしたことが考えられます。
『尊卑分脈』によると、義清は清光をもうけています。浅羽本『武田系図」では、清光の母は上野介源兼実の女で、天永元年(一一一〇)六月九日の生まれとなっています。その清光は源師時の日記『長秋記」の大治五年(?二三〇)十二月三十日条に、「常陸国司、住人清光濫行の事等を申すたり。子細目録に見ゆ」と記されています。『尊卑分脈』には、義清は「配流甲斐国市河荘出家四十九才」とあり、清光は「号免見冠者、黒源太」とあります。ということは、清光の濫行の罪により父親の義清もそれに連坐して、甲斐国市河荘に配流されたことが知られるのです。親まで連坐にまきこみ流罪という重罪を犯した清光の濫行とは、いったいどんな行為だったのでしょうか。濫行とは今日の乱行の意に類し、「みだりの所行、でたらめな行い」の意味があります。

源為朝のこと・悪源太清光のこと
源為朝は『保元物語』上の「新院御所各門カ固めの事」によると、幼年のころから「不敵にして兄にも所をおかず、傍若無人」であったので、十三歳のとき父為義は鎮西に追い下した、とあります。仁平元年(一一五一)のことであります。為朝は尾張権守家遠を守り役として、豊後国に居住し肥後国阿蘇忠景の子、忠国の婿となり、九州の総追捕使と号して三年のうおに九州一円を攻め落してしまったといいます。
左大臣藤原頼長の日記『台記』の久寿元年(一一五四)十一月二十六日条には、「今日、右衛門尉為義五位解官、其子為朝鎮西濫行事依也」とあり、『百錬抄』久寿二年四月三日条にも、
源為朝は豊後国に居し、宰府を騒擾、管内を威脅す。依って与力の輩に彗ん由つ禁遇すべきの由、宣旨を大宰府に賜う、
とあります。
為朝の濫行に連坐して父の為義が解官しているのは、清光の濫行と似ているのであります。為朝は幼年のころから不敵にして、傍若無人であったといいますが、清光にもそうした性格があったように思われます。清光は『尊卑分脈」や「武田系図」によれば十八名の男子をもうけています。これだけからみても清光は精力絶倫で、並はずれた気量の人物であったことが知られます。おそらく、祖父義光の性格をうけついだのでしょう。そうすると、『尊卑分脈』にみえる「黒源太」という称号が間題になるのです。「源太」は源家の太郎の意でありますが、「黒」はなんでしょうか。清光の顔色が赤黒かったという考えもありますが、元来この称号は、この人物の性格をあらわすものと思われるので、その姿、彩の形容ではありません。おそらく、「悪源太清光」と呼ばれて人びとから恐れられていたのではないでしょうか。

悪源太ならば、他にも類例があります。源義朝の嫡子義平は、『尊卑分脈』に「鎌倉悪源太と号す」とあり、『平治物語』『源平盛衰記』によれば、義平は十五歳のとき叔父の春宮帯刀義賢と武蔵大倉に戦い、これを斬ったので、世に鎌倉の悪源太と呼ばれた、とあります。義平の母は三浦大介義明の女で、鎌倉にいたので、そう呼ばれたのです。悪源太義平は、平治元年(一一五九)、十九歳で六条河原で討たれております。「悪」をつけられた人物は、他にも、悪左府、悪七郎兵衛景清、悪禅師がいます。悪左府とは左大臣藤原頼長のことで、『保元物語』には賞罰をわかち、善悪を正すがあまりの頼長のきびしく行きす
ぎた言行に対し、時の人が「悪左府」と称して恐れた、とあります。
悪七兵衛景清は、『源平盛衰記」『平家物語』によれば、上総七郎兵衛と称し、躯幹長大、勇を以て一時に聞こえ、世呼んで悪七兵衛という。平家減亡後逃走、のち頼朝に降り、八田知家の家に預けられたか、食せずして死すとあります。悪禅師は「清和源氏系図」によれぽ、将軍実朝を誅した公暁を世の人が、悪禅師と呼んだことが知られます。「悪」は中田祝夫『新選古語辞典」によれぼ「正義、道徳、良心などに反すること。またはその行い。性急はげしい、荒々しい、強剛である、などの意を表す語』とあります。そうすると、清光は「黒源太」よりも「悪源太」と呼ばれる方がふさわしい人物であります。「悪」と「黒」は草書では間違いやすいので、「悪源太」とあったのを、「黒源太」と誤記したのか、あるいは悪源太の称号を嫌って後世の人が「黒源太」としたことも考えられるのです。






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最終更新日  2020年08月21日 18時56分54秒
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