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2020年08月22日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

解題 甲州の道中記 十辺舎一九の甲州道中記』

 

解題 『甲州の道中記』 〈校注者〉鶴岡節雄氏著

   略歴   1915年千葉県生まれ

   主な著書「房総文人散歩」(千秋社)

       「十返舎一九の房総道中記」(千秋社)

       「歴史小品上総のくに」(総南文化研究会)

       「山東京伝の白蘭源太談」(千秋社)

       「仮名垣(書き)魯文の成田道中記」(千秋社)

 

  一部加筆 山梨 山口素堂資料室

 

 本書、一九の甲州道中記は、『診国道中金草鞋』二十四編中の第十二編「身延道中之記」と第十三編「善光寺所々参詣」の一部を合わせて、かりに名づけたものである。

「甲州道中」は、江戸から甲府を経由、信州下諏訪に及んでいるからである。「身延道中之記」序追加に、

「此篇、甲州身延山に終りて、その次、甲府より信州諏訪に出、木曽賂を経て、追分駅より善光寺参詣、モれより越後高田にいたり、加賀、越中、越前のうちを遊歴するを金の草鞋十三編となし、来陽卯の春の新板となし、さしいだすものなり」

とあるところをみると、十二編の板行は、「卯」の前年、すなわち文政元年(一八一八)であることがわかる。しかし、十三編序には、次のようにあり、その板行が一年ずれ、文致三年(一八二〇)であったことがわかる。       ’

 

       年々出板の金草鞋、さる御方より、きやっきやっと御進めによりて、風雅でもなく洒落でもなく、去年まじめに著せしは、身延詣の道中筋、今年十二編(十三編の誤り)に、甲府より信州諏訪へ出、それより木曽塩尻を経て、松本街道、善光寺道(略)作者、去夏、越後を遊歴し、戻りがけ、善光寺より仁礼街道大笹越といへるを草津に至り、其地の光景すべて、中仙道へ出るまでのこと、悉く記行に書留、帰たれば、手もぬらさず、其儘の生捕がき、これで今年の金草履はき心よき春の道くさ、お気ばらしに御覧て下さりませとしかいふ。

 

文政辰孟月 十返舎一九誌                         。

 

 甲州道中膝栗毛 

 

ところで一九には、これよりさき、当りに当って年々編を重ねた『東海道中膝栗毛』のあることは、ここに説くまでもないが、文化六年(一八○九)京内めぐりを終え、大阪見物に及んだ同じ年、一九の向こうを張って板行された珍書に、『甲州道中膝栗毛』ともいうべき『甲府道中華鹿毛』(後述、一九序文による。内題「身延道中滑稽華の鹿毛」)がある。

 

※ 林美一氏は、この初編上巻と二編中巻を所蔵され、その初編上巻本文のはじめに、甲陽河間亭主人著とある。

 山梨県立図書館は初編の上巻と中巻を所蔵しているが、著者の名は出ていない。

 著者、河間亭主人は、甲陽とあるので、甲府付近の人と推定されるが、本名などはわからない。ただ山梨県立図書館所蔵の各巻に

「このほん何方江参り候而も歌吉方江御かいし披下僕」

と落書がある。歌吉というのが何か手がかりかありそうだが、これとて著者とみるのは早計であろう。それはとにかく、この本『甲府道中華鹿毛』に、一九が序を寄せていることは見のがせない。参考までにかかげると次のようなものである。

 

       河間亭のあるじ、予が膝栗毛に道をかへて、甲府道中に筆を走せ、此一集を編るその月白ハ都会にふ

りて、是を賞するに酒喰の美を好で備ふることをもはらとなせバ却って其感情うすく、辺土塞地にハ、

其事疎なるが故に、おのづから実景を得るの楽み深し、今や此書も東海木曽の両道に異にして、往来

もたまたま身延詣で富士参之外旅客も見ざれバ、すべて事の足らざると、ものゝおくれたるとを、

何だら発智の柿の種本とし、葡萄棚の下行水に墨摺なでて、打栗のうちも捨ず、蚕のいとぐち操出し、

郡内縞のおりごく仕上し三冊もの予にわたりをつけて、兄貴たのむと投かけられ、そこで呑込、龍王

煙草の吸口をたゝく事しかり

   文化己孟陽 十返合一九誌

 

 なお、この本の凡例は、一九の東海道中膝栗毛初編凡例によく似ていて、次のようなものである。

 

       此編発端八四ツ谷新駅に始り。甲州身延参詣まで。左次兵衛福七両人が旅中の滑稽。及び旅人飯盛女

其処々の人物の下情。茶屋の動静渡船歩行渉並び風土の佳勝其あらましを穿てしるす。

○ 此初編三巻ハ武州小仏駅に到りて終わる。此次郡内通り二瀬越の転倒(すこたん)より。上野原川留

のいざこざ。夫より道中筋の洒落。笹子峠の危難。甲州石和鵜飼川にて、経石を尋ねるおしみよりし

て甲府一見のあらまし、ならびに鰍沢より川船にて下る趣向。身延山参詣まで。大概草稿出来あれど

も帖数の多きを厭ひて。後編にゆずって雅客の催促をまつ。

       巻中の夷曲(えびす)歌ハ。筆をとって口うち出次第なるこじつけなれハ。只一笑を求るのみ。可否 

(よしあし)を論ずべからす。(このほか三項略)

 

文化五年(一八○八)の『東海道中膝栗毛』七編「述意」に一九は、

「近比此書に類せし版本さまざま出たりしを、予悉くもとめ得て閲するに、各々ヘ滑稽の花実を備へて、其おもむき尤ふかし、恐るべし云々」

とのべている。河間亭主人の『甲州膝栗毛』は、その恐るべき作品の一つであろうが、いまのところ前後編全巻をみることはできない。

前掲の凡例によれば、初編三巻は小仏駅まで、後編は身延参詣までの構想のようだが、前述のように初編は中巻、玉川の渡しまでと、二編(後編)中巻(上巻不明)は藤野までである。次にその一部を紹介しておこう。

 

※ (初編上巻 旅立ち)

 

「二人、江戸を立出て。内藤新宿に到りけるに。其日ハ空も打曇り日の影さへ見へざれバ、

左一「なんと福七もう何時だらう

ふく七「さっハリ曇ってしれねへが。おゝかた五ツ半でもござへせうトいふ内、四ツのかねなれバふ

く七指を折ってアレ今打のハモウ四つだそうな。とんだ道に手間がとれた。こおおねりが過ちやァ府

中迄もいかれめへ。ちっと急ぎやせう

左一「それがよからうときに旅だちの序びらきに一首やらかそう 神田から五ツに立て丁度いま時の

かねさへ四ツ谷しん宿

 

(同中巻 荻窪あたり)

 

【左二】

「たんと福七さっきの荻窪まぢゃァことばも江戸にあんまりちがハねへが、わづか二三里来るととんだへんちきだ子

【ふく七】

「そうさこれで此道中も思ひやらるゝト此ときむかふの蕎麦屋のうちにてむさくろしき女のそばをうってゐたるを見て

【左二】

「ふく七あれをみな。あの女かそばをうつざまハとんたおつりきなふうだな

【ふく七】

「どれどれほんにとんと居合ごしといふものだ。あれぢゃァあのとんとんといふ拍子にまたぐらのくさいかざがアノ蕎麦へ移って。此内のそはハヘんな匂ひがするだらう

【左二】

「御めんな事をいふ男た

【ふく七】「

爰らの茶屋ハみんな百姓をあひもちにしてゐる茶屋だから。どうできれいな事ハねへ 百姓をかねこの蕎麦のむさけれバいかなるすき(鋤)もくわ(鍬)れざるらん 左次兵衛もとりあへず 居合ごしになって打だすそは見れハ棒ほどとこそおもひやらるれ

 

 (前同 府中泊り)

【八兵へ】八兵衛

「おまい見て行しゃるならわしも見ますべい。わしハ相撲ハ飯よりやァ好だァよ

【ごん七】権七

「わしもそうだァよ。

【ハ兵へ】

「それだァからけふの中入れ過ぎの秋津島と。瀧の音がとり組なんぞじゃァ。見てゐてさへとんだくたび

れたァ

【ごん七】

「ほんに相撲ハ幕の内よりやァあのくらへの所がゑらおもしろい。(略)昼見たる相撲にうつゝぬかしつゝ府中どまりで夢中にそなる かくうち興し笑ひ催しける折しも下女ハ。奥の間を出ながら女「あなたがた。おやかましうござりませう

【左二】

「何さ何さ相宿じゃご茲への事さ。時にこゝらに角力があるのかね

【女】

「ハイ此間江戸から角力がまいりまして、此上の天神さまの森でとりますが、とんだ繁昌でござります

【ふく七】

「そりゃァ面白からう。おいらも逗留していきてへものだ

【女】

「そう遊しませ

【左二】

「もしこゝハでへぶゑ々所だ子。さっき見たが女郎屋もあるそうだな

【女】

「さやうでござります。東屋。粕屋。小倉屋と、申しまして三軒ござります。あなたがたいらっしゃらバ、わたくしが御案内いたしませう

(かくして二人は、東屋にあがったが、女郎をなじみ客にとられたふく七が腹をたて、女郎屋の若い者に、たばこ盆をぶっつけたところ、あいにくそれが、あい床の屏風向こうの客の関取のところにとび、ひとさわぎをおこすという話がつづく)

 

 なお凡例には

「巻中府中泊飯盛買の滑稽予その妓台に遊戯したる事なけれハ。如推量のまゝをしるす」とある。

 

『甲州膝栗毛』の紹介が長くなったが、一九の甲州への関心の深かったことは、この前年(文化四年)板行の『東海道中膝栗毛』六編に、自作の『甲州鰍沢復讐(あだうち)』の予告をしていることにもうかがえる。

一九は文化十一年(一八ー四)に、信州松本の旧知のところに旅をしているが、この年、『甲州鰍沢復讐』が上掲の名で上梓(通油町、村田屋治郎兵衛開平蔵)されている。

文致元年(一八ー八)の十二編「身延道中之記」の序には「作者も先年当山に参詣したれども、年久敷事故忘失して、精しからず」と記しているが、本文中の「富士川下り」は、実体験風の記述をしている。

 文致三年(一八二〇)一九は、上州草津に湯治し越後への旅をしている。十三編の「塩尻峠」(下諏訪の次で、本書には収録してないが)の項には、一九、自らの失敗談----茶屋のけずりたての柱に発句を落書きして、亭主にとがめられ、けずりなおしてやると見得を切ったものの、山中のこととて手もなく、あやまった----がのせてある。

 生の紀行でない「戯作の記行」に、このような体験風な紀行形式の記述を、なんのこだわりもなく奔放に書きちらすのが、また一九の味かもしれない。

 

甲州道中の紀行・日記

解題 『甲州の道中記』 〈校注者〉鶴岡節雄氏著

   略歴   1915年千葉県生まれ

   主な著書「房総文人散歩」(千秋社)

       「十返舎一九の房総道中記」(千秋社)

       「歴史小品上総のくに」(総南文化研究会)

       「山東京伝の白蘭源太談」(千秋社)

       「仮名垣(書き)魯文の成田道中記」(千秋社)

 

   一部加筆 山梨 山口素堂資料室

 

 

 道記 

戯作記行、金草鞋(一九の甲州道中記)は、生の紀行や日記などと比較することによって、いっそうその特色が明らかとなるであろう。

 たまたま、手もとに、一九の甲州道中記と全く時を同じくする(文政元年の紀行で文政三年に筆書された)身延参詣の道中紀行『道記』(本文中に引用)があった。この筆者は芳沢氏(武城宝華斉南雄の跋には、如水翁とある)とあるだけで、身分も名もわからないが、克明な記録といい、おもしろおかしき見聞といい、それが事実の描写であるだけ、一九の道中記とは異なった興趣がある。

 

ここに全文を紹介する余白はないので、日程、コースの略記と一部の原文だけをのせ、参考に供したい。

 

※ 文政元年(一八一八)六月二日午前八時住家(所在不明)出発、同行五人。青山道玄坂、駒場野御用屋敷、太田村、駒場野四ツ街一膳飯屋に人なし(市日のみ出店)空腹。糞土屋の飯売軒で食事、食物汚れ蠅多し、酒店で咽の不浄を払う。午後四時、石原、角屋与右衛門に泊る(引文参照)。

● 三日、有田、府中(引文参照)日野川(多摩川の渡し)日野駅の旅舎、酒肴、美女出る。広野を行く、暑気甚し。目前に高山迫る。午後二時過ぎ雷電大雨、民家に避難。八王子、千人同心に、やんごとなき先生よりの書簡をとどける。横山宿、甲州量刑八方に泊る。

● 四日、宿屋の息子、道案内、大戸観音前の茶屋に休み、通りがかりの柚(きこり)を新しく道案内にたてる。杣は鎌を持ち、各人は狼よけの竹火縄を持つ。峠をこえて案内村、酒店で食物は竹の子の煮びたしだけ。十四五歳の少年を新しく津久井県への案内にたてる。千木良峠で雷鳴がおこり、少年は、不時の災難にあっては家業がつづけられないから帰してくれと訴える。筆者(芳沢)、この山中の少年の言動に感じ、酒手まで与えて帰す。津久井県にいたれば所用の家、江戸に出たとて不在。小原、花屋に泊る。

● 五日、与瀬駅、吉野駅、小猿橋、諏訪の関所、鶴川、長峰、座頭ころばし、大目駅、雨、淀屋市郎左工門方に泊る。

● 六日、鳥沢、猿橋、五人つかれ黒野田の本陣に泊る。

● 七日、花子峠、大杉、茶屋甘酒を売る。駒飼駅、鶴瀬関所、西北二里天目山。坂を越えると十万石の耕地展望、ぶどう棚つづく。勝沼駅、休足山立正寺に参る。経手道、土手をゆき石和の駅。鵜飼山道妙寺参詣、大黒星平右ヱ門方に泊る。

● 八日、小川に沿って二里余、笛吹川々端の上曽根に出る。茶店で昼寝、下り舟に便乗、鰍沢に至る。(引文参照)旅舎寺小屋貞七方で昼食、小室山妙法寺参詣寺小屋貞七方に泊る。身延参詣客多し。

● 九日、舟で身延へ下山宿に上陸、一里行きて身延山境内、東谷、大乗坊に着、休浴、酒食(器物きれい食物美)休島後参詣、宿坊に泊る。

● 十日、本堂、奥院参詣の後、七面山に向かう。難所あり。赤沢、吉田屋半右ヱ門に泊る。食物悪く、きたない旅舎、蚊にせめられ、ねむれず。

● 十一日、夜が明けて、きれいな旅舎かあることを知り、くやしがる。六丁逆落し、早川の上流青木川に出る。川原、半道上り七面山麓庵室、これより登山、五十丁、頂上絶景。本堂大きからず。庫裡書院広く、参詣千人を泊めることができる。ここで食事、影白石を拝み、奥院まで八丁、霧深く先見えず。赤沢に下る。吉田屋半右ヱ門、提灯をもって出迎えるも泊らず、大仮屋伝右工門方に泊る。

● 十二日、未明出立。十万部、追分、三十二丁下り袈裟掛松、又十二丁下り太郎大明神。大乗坊より迎え来り、同坊に泊る。祭礼を見るため十五日まで同坊に逗留。

● 十六日、大野山より舟で駿河へ下る。以下略。

 

『追記』は、とくに社寺の結構、縁起由来などにおおくの筆をさいている。旅中の描写、駒場野の荒涼や千木良峠の奇特な少年、赤沢のきたない宿の亭主のことなど、虚飾のない記述が、当時の道中を生々しく再現してくれる。石和から鰍沢への舟下りの一節を原文で紹介しよう。

 

日輪を伺へば四ツ時(十時)前と覚ゆ。是にて(上曽根)深く寝たることを察し、可笑くも又油断なり。斯る処へ川上の方より入船一彼漕ぎ未り、茶店の下へ舟を繋ぎノ舟頭上りて餅など喰ひ休む体なり。

予は、舟を見るより頻りに好ましく、彼の舟長に向ひ、予は鰍沢へ下る者なり。便舟し苦しからずんば乗せて彼処に行けと申ければ、舟順良み侯なり。幸ひ舟中の客、皆、鰍沢辺行玉ふ人なり。いざ乗玉へと申けるゆへ、連れを進めて乗らしめ、ひらりと舟へ飛込ければ、身の丈勝れ、肥へ、天魔鬼神も挫くべき大の男子五人居す。咄しを聞けば、角力を業とするカ士な、言ふさまゝ又形は荒々しく見ゆれど、心ざまは形に似ず柔和なりき、予等は同じ筵に固まりて、左右の山々を覧ながら、煙草にむせぶ。(略)舟は流れに随ひ走る中、力士河へ下りて、さまざまの形して戯れさも面白そうに遊ぶ。友も又面白そうに笑ひ語ると云とも、予はおもしろからず。余人の面白しとする心を計り、心の中にてをかしみ笑ふ。力士、形は大きなれども、行ふ処は小児の徒に同じ。

 

そぼくな描写ときまじめな批判が、ある種のパロディーにさえなっている。さきに、筆者芳沢氏は、身分その他不明の人と言ったが、自序に「それ神儒仏三徳は天下を治むる器にして、薬鑵を載せる鼎の如し。一つを欠きても全からず。故に予、童子教を読みて学者を思ひ、伊勢大神に詣でて幣慮を奪ひ、仏門を尋ねて身延山に入らんと欲す云々(もと漢文)」とあるので、その教養の一端を推測できないこともない。

 

日記 

さてここに、もう一つ『道記』よりやや時代の上る安永九年(一七八〇)の身延参詣道中日記がある。上総国夷隅郡大野村(現千葉県夷隅郡夷隅町)名主、喜左衛門の日記帳がそれである。『道記』を補う意味で、付録として全文をのせておいたので参照されたい。






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最終更新日  2020年08月22日 07時37分05秒
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