カテゴリ:山梨の歴史資料室
甲斐の詩歌と道中記-漢詩文から狂歌まで
解題 『甲州の道中記』 〈校注者〉鶴岡節雄氏著 略歴 1915年千葉県生まれ 主な著書「房総文人散歩」(千秋社) 「十返舎一九の房総道中記」(千秋社) 「歴史小品上総のくに」(総南文化研究会) 「山東京伝の白蘭源太談」(千秋社) 「仮名垣(書き)魯文の成田道中記」(千秋社)
一部加筆 山梨 山口素堂資料室
荻生徂徠の『風流使者記』及び『峡中紀行』は、本格的な甲州道中紀行の出現であると前述したが、その理由の主な点をあげれば、 ➀それ以前には、これほど詳細な旅程の記述はなかったこと。 ②漢文体という枠でありながら、その描写は生々しくリアルであること。 ③したがって、筆者の若々しい体温と高揚躍動する精神の輝きまでが伝わってくること。 など、紀行文学の白眉であることは、わたしがここに、喋喋するまでもない。
しかし、ここでちょっと、内容のよく似た『風流使者記』と『峡中紀行』の両者について、すこしおことわりをしなければならない。というのは、この両書は、著作年代が明らかでないため、その前後関係や本質について、従来、諸説が行なわれていたことである。 この両着を注された(昭和田十六年雄山閣刊、その後、河出書房新社、『荻生徂徠全集』第五巻に収録された)河村義昌氏(都留文科大学教授)の論考はご記述が詳しく、旅行の肝要な目的である主君柳沢吉保の碑文やその解説をのせている『風流使者記』は、これを欠く『峡中紀行』に先立つものであり、『峡中紀行』は、『風流使者記』を世に問うため、(公式の出張報告を)校訂、推敲したもの(いわばダイジェスト版)とする見方である。河村氏はさらに、旅を終え、主君から「千里山川十日行 峡中事々任娯情 明暗為客総無悪 惹湯風流使者名」の一絶をおくられ、風流使者の名を得たにかかわらず、『峡中紀行』にはこのなかの二句しかのせていないことからも、このことがいえると詳説している。
官用とはいいながら、同僚の田中省吾と詩作の旅をつづけ、茂郷(徂徠)百五十三首、省吾百四十七首、合わせて三百首にのぼる漢詩をのせてある『風流使者記』は、これを欠く『峡中紀行』より血の通った紀行であることはいうまでもない。
解題 修築成った壮麗な甲府城、徂徠とともに城にのぼった田中省吾の詩に 「最も看る千秋富峯の色 簷前の白雪晴望に供す」 とあるが、清秀の山川と照り映えるその輝きは、まさに甲府城の黄金時代を象徴するものであろう。それはとりもなおさず、文化人将車綱吉の下に権勢をきわめた吉保、これに仕えた少壮(時に四十一歳)有為の学者徂徠の詩文によって、いっそう華ひらいたともいえる。 しかし、その光芒は長くはつづかず、『風流使者記』は、漢詩文紀行の記念碑的存在となった。 後世、徂徠といえば、江戸儒学、古文辞学派の巨匠とか、その政治経済に関するぼう大な著述を語るものはおおいが、彼の詩人としての片鱗をさえ語る人の少ないのは、まことに遺憾といわなければならない。すなわち、徂徠は、江戸文人の祖であり、服部南郭にうけつがれた詩精神は、諸国行脚放浪をつづけた江戸末期のおおくの詩人文人にまで流れていることを忘れることはできないだろう。 〈補注〉 徂徠の甲州行は、五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保が、宝永元年(一七〇四)甲府十五万千二百石に封ぜられ、甲府城を修築し、あるいは城下の市区を整備し、自らの菩提所として、城北、古府中に、七堂伽藍華麗な穏々山霊台寺(のち永慶寺と改名)を建立、そこに造立する予定の寿蔵碑(生前に建て置く墓)文を自ら撰文----甲府から江戸 に来る役人に聞き書きして----この撰文の万全を期するため、徂徠に現地踏査を命じたということになっている(そのほか吉保は故山、柳沢の地の踏査も命じている)。
『風流使者記』には、この撰文がのせてあることは前述のとおりであるが、甲府の山川景勝をうたいあげたこの碑文は、圧巻の名文である。 ところで、この寿蔵碑造立の現地に立った徂徠は、『風流使者記』に「匣(小ばこ)中よりもたらす所の碑文の稿を取り、披らきてこれを誦すれば、山川の形勢、景勝の所在、少しも違わず(略)吾らのこの行、裨益(おぎなう)する所なし、風流使者このたびの一行、徒行(むだ)ど謂うべし」(もと漢文)としるし、またそのあと、「旧府城や霊台寺新設の現場から帰り、旅館で食事をとると、藩臣たちがきて、所感をもとめた。そこで重ねて碑文にのべてある山川の景勝は、現地に見るところとすこしも変わらないと言うと、みんなはびっくりして、それでは、ぜひその碑文を読んでくれと言った。狙徐は、省吾にすすめてそれを読ませた。省吾は、はじめ辞退したが、再三のすすめで高座に上り、はっきりと声高く読み上げ、そのあと、主君の文章の妙をたたえ、細かい解説を加え高座を下りた。 藩臣たちは、省吾の弁舌の巧みなのに感心したが、徂徠に向かって 「主君が自ら撰文をつくられたことには感心したが、あなたは当代の韓柳(韓愈・柳宗元、唐代の文学者)とさえいわれるお方にもかかわらず、あなたからなんの意見もないのはどういうわけか」と言った。 徂徠は、これに抗顔(たかぶる顔)して「主君の文章は天授のものである」と前置きし、とうとうと解説を行ない、最後に「文章の妙絶の趣、ここにきわまり、これをこえて上なるものはない」と言っている(もと漢文、意訳)。 これら一連の記述は、何かできすぎの感がしないでもない。とくに「抗顔」云々が、いかにも不自然の感をうける。そこで、わたしは、ついあまのじゃくをおこし、ことによると、この碑文の稿は、じつは、吉保の草によるものではなく、徂徠自身の撰ではなかったか、吉保撰文としたのは、あるいは文章構成上のアヤではなかったか、そんなかんぐりさえしたのである。とはいえ、どこにもそんな証拠があるわけではない。 そこで、この寿蔵碑が現存していれば、あるいはこの間の疑念もすこしは解明できるのではないかと思い、この寿蔵碑のその後の消息を現地の方々にお尋ねしてみることにした。 次の文は、両書の注者、河村義昌氏からご教示いただいた書簡の一節である。
「御質問の柳沢吉保の寿蔵碑文の件ですが、徂徠の代稿ではないか?という先生の御高見にはまことに敬服の外ありません。その点一考を要する次第ですが、吉保の学も川越城主時代から宝永二年頃にかけて、素書国字解六巻の著とか、中国古典の覆割本刊行事業など多くの儒者を擁しての事ながら学識は相当のものがあったと考えられ、諸書にもそのはしはしが見えるような気もいたします。ただ御言によりますと先生の御解明になりたいと仰せられる寿蔵碑の件ですが、これは事実は造立されなかったというのが私どもの見解です。 県の郷土研究の第一人者佐藤八郎氏(韮崎市)などもこの意見です。先生のご説の如く綱吉の死後吉保 は、権勢の座を去って造立の実現までにはいたらなかったと思います。したがって、その碑の痕跡など全くないわけでありまして、永慶寺の跡の護国寺境内の高い横脇の所にころがる墓石等をみますと、その一つ一つ皆文字が削られていて往時のことがなる程とよく頷かれます。斉藤典男氏のお話のことは永慶寺取りこわしの折、寺の一部のもの(筆註 門・大型水盤)を大泉寺にも分けたといわれております」。 文中の斎藤典男氏(甲府市高畑、高源寺)のお話とあるのは、同氏から大泉寺に永廃寺の遺物と思われる水盤があるとご教示をいただき、訪ねてみたところ、 この寺には不つりあいと思われる大水盤があり、「宝永七庚寅歳八月吉辰 現住龍山叟代」と彫られた銘 があったことをお知らせしたことをいう。 吉保は、綱吉の死去した宝永六年(一七〇九)に致仕し、隠居、正徳四年(一七二四)江戸に歿し、永廃寺に葬られた----のち、享保九年(一七二四)柳沢氏は大和郡山へ国替えとなり、永慶寺はとりこわされ、吉保は塩山の恵林寺に改葬されたので、この水盤が、吉保造立の永慶寺ゆかりのものであることはほぼ間違いないと思われる。 嘉永三年(一八五〇)の『甲斐の手振』に 「享保九辰(一七二四)柳沢家転封より、両支配勤圭二百人にて御番城となる。与力廿騎、同心百人御門々を守る」 とある。いわゆる甲府勤番であるが、この筆者、宮本定正もその一人と思われ、序に 「甲斐府追手御門前官舎にて」 とある。甲州や甲府に関する見聞を書きとめたものであるが、とくに甲府の江戸ぶりが、次のように詳細にしるされている。 「髪結床江戸に変わらず、武家市中共婦人の風俗少しも江府(江戸)に違わず」 「義太夫、長唄、常盤津も流行、市中ヨセと名づくる所多くあり、折々江戸より芸人来る」 「乱舞、碁将棋、俳諧、発句、其外遊芸東都にかわらず」 「市中酒屋は勿論、料理屋、鰹節、餅菓子………貴賤ともに汲々として江戸風味に及ばざるを只うれふ」「江戸より俳優来る、座元亀屋与兵衛、茶屋も多し、暖簾等多く江戸にまがふ」 その他角力などなど。 柳沢氏の転封後、天領となった甲府が、それまでの甲府とは違った繁栄の道、すなわち、小江戸化をたどっているさまを遺憾なく伝えてくれる。なお、この書に 「道祖神泉、当国一大盛事也」 とある。道祖神祭りは甲府の最も華やかな行事で、一町ごとに自慢の幔幕(まんまく)を張り、だてを競いあったという(緑町江戸名所、同二丁目曽我物語、柳町東海道五十三次、八日町三丁目甲州道中宿々、青沼町諸国の名所、安芸の宮嶋姶須磨・明石等也とある)。 郷土史研究家、野ロ二郎氏の著『道祖神幕と浮世絵師』には、柳町高野家で安藤広重の東海道五十三次の墨絵が発見され、これは道祖神祭りのまん幕の下絵に間違いないとし、本書に引用した広重の『天保十二年卯月日々の記』とも照応すると述べている。 また同じく『団十郎と甲府繁昌記』には、八日町牡丹亭で、豊岡の七代目団十郎一家を描いた大幅が発見されたことをしるしている。 七代目は文致五年(一八二二)同七年と天保十二年(広重人甲の年、一八四一)高水四年(一八五一)の四度人脈し、亀屋で上演。高水五年にも、身延参詣の途次立ち寄ったという。豊国の大幅は、嘉永四年ころのものと思われるということであるが、この大幅には、寿海老人子福者白猿と署のある次のような狂歌がしるされているという。 「組入の三升ならべてかざり海老 久し柿そめの上下だいく」 寿海老人子福者(子福長者ともいう。妻妾四人の間に七男五女)は、七代目団十郎であり、山猿は俳号、山猿の俳号は五代目以来である。
明和、安永ころから、とくに天明以後は、いよいよ江戸文化は成熟し、詩歌の主流は、和歌、俳諧から狂歌にうつり、武士、学者、町人、役者、絵師、戯作者を問わず、一世を風靡するにいたった。五代目団十郎が「花道のつらね」の狂歌名で知られることは、シリーズⅢ「成田道中記」にもしるしたとおりである。 安永九年の大野村名主の道中日記(前出、付録)の中には、いくつかの俳句がおりこまれているが、一九の道中記と同年(安政元年)の『道記』(前出)には、じつは、おおくの狂歌がちりばめられているのである。
その二、三。 大田村 「葛餅を茶にして価取れけり空腹なめに太田故なり」 千木良峠 「睦じゃ武蔵相模が峠にてちきらばやとて抱き合にけり」 赤沢 「吉田やと云と家内はうそ暗きのみか掻耻顔も赤沢」 『道記』の筆者、芳沢氏は、その序や本文の記述からは、儒者か信心家のような印象をうけるが、なおかつ、このような狂歌をものしているのである。 さて、わたしは、これまで本書『一九の甲州道中記』(『金草鞋(わらじ)』)を、戯作の記行(道中記)としてきたが、考えてみると、これはむしろ狂歌記行(道中記)というべきではなかろうか。金草鞋初編が「われら狂歌しうしん(執心)でござれバ----歌人居ながら諸国の名所をぞんぜぬほどに----」で始まることからも当然であろう。 前述の『甲府道中華鹿毛』には、各所に右掲のような絵と狂歌が入っている。初編上・中巻だけでも、この正梅亭此母亭のほか、奇松亭、蜀江亭、酒亭、掬水舎、奇蝶亭、桜亭、奇遊亭などのものがある。これらの人たちは、まさに甲府付近の狂歌連であろう。『甲府道中華鹿毛』は、河間亭一人の著というより、むしろ、この狂歌連の狂歌集であり、「狂歌甲州道中記」と言ったほうがふさわしいかもしれない。
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最終更新日
2020年08月22日 07時42分42秒
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