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2020年08月22日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

人間木喰私考 丸山太一氏著

 

『中央線』昭和48年発行

 一部加筆 白州ふるさと文庫

 

享保六年(一七三一)十四才で故郷下部町丸畑を出奔したのちの木喰上人行道が、江戸を中心に漂白の生活を重ね、二十二才で

相模大山で出離の人となってから、五十六才というおよそ人生の晩期といえる安永二年(一七七三)二月、日本廻国の途にのぼる。以来三十余年の永く遠い遊行の旅を続け、ついに文化七年(一八一〇)の夏、何処かの旅空の下で九十三才の生涯を閉じた。

 

彼の終焉の地は今もって定かでないが、一ときも肌から離さなかったであろう遺品が郷里丸畑向川の伊藤平厳氏によって手厚く保管されている。

 しかし、三十余年の間、本尊をおさめた笈箱を脊に、胸に頭陀袋と鉦をかけ、撞と金剛杖を掴って、さいはての地北海道から、南は九州まで、彼が歩んだ道程は数万キロに及び、日本各地に残した仏像の数は一千体を超えていると謂うのに、その悲願の動機に関しては、遺品も微笑仏も黙して語らない。

 その伊藤家にある遺品の中から、安永二年(一七七三)から天明五年(一七八六)までと寛政三年(一七九一)九月分とを記した「納経帖」・享和二年(一八〇二)の「四国堂心願鏡」・安永二年に集めた「万人講帖」・享和二年の「懺悔経諸々鏡」・寛政八年の「歌集」・そして寛政九年(一七九七)から仝十二年に渉る「南無阿弥陀仏国々御宿帖」などをひろってみても、出生から五十六才までと、丸畑に最大の群像を刻んだ四国堂完成の八十四才から、旅空の露と消えた九十三才の終焉までは、ほとんど不明といっていいくらい資料は乏しい。

それでも八十四才以後入寂までは、各地に遺されている微笑仏の脊銘によって足跡は迫れるが、一番かんじんな二十二才から、日本廻国に足を踏み出す五十六才までの三十余年間は全く判っていない。つまり、彼の廻国発願の動機を知ることは想像によるしかない。

 その意味では、大正十二年(一九二三)正月、民芸家柳宗悦によって偶然見出されてから、多くの研究者によって補足、考証されたといってもまだ謎に包まれた部分が多すぎるのである。これこそ遊打聖の面目というべきだけれど、近年再び円空とともにクローズアップされ、兎角、聖僧視し偶像化されがちな木喰行道は、やはりわれわれの身近で、あるときは悟り、あるときは煩悩の焔に焦かされる人間臭い木喰行道であって欲しいと思う。

 たまたま「木喰のふるさと-丸畑」の撮影を重ねているうちに、一体五十六才という晩年期から、三十七年もの長い間、無仏無庵といえば聞こえもいいが、みじめで孤独な放浪の生活を支えていたものは何であったのか、九十才にして漸く達し得た宗教的境地は何を意味するのかにひかれ、推理にたよるしかないその謎に包まれた時代を、ひっきよう精神の産物である仏像と資料を辿りながら、幼稚な仮説を加え、彼の孤独な旅を支えた人間的意志を、私なりに探ってみたい。

          ◇   ◇   ◇

 寛放十三年(一八〇一)、最大の群像を刻んだ四国堂の勧進も、村人の作善に曲折はあったにせよ、漸く完成させた木喰行道は、再びあてもない旅に出る。それを境に、あれほど几帖面で克明に続けて来た記録をプッツリ止め、最早日々御宿帖をつけ、納経帖に受取り判を加える人でなくなり、殊に翌享和二年(一八〇二)の一年間を、何処をどう放浪したのか足どりがつかめない程放心といえる一時を送らせたのは、この頃彼の上に一つの転期が訪ずれたと考えたい。

 

それでも、翌享和三年八月にはもう越後古志郡に現れ、小栗山観音堂に西国三十三番の大悲像をのこし、その脊銘にあえて「寿百万歳」と誌したというが、それを法然の師皇円阿闇梨のように人間として生き永らえることが出来なければ蛇にでもなって、五十六億七千万年の後に来る弥勤下生の庶に生き延びたいと希った末法信者の願求に等しいと謂うかも知れないが、人びとの中に生き、人びとを愛しつづけた木嗅には、もっと彼にふさわしい理由があっていいのではないか。

つまり、誰もが免がれることの出来ない死というものに、彼よりも年若く、しかも身近い人の死に直

面して、出来ることならその人の分まで生き延びて、この世に想い残したものを果してやりたいと、凡夫には耐えがたい無常感の中で、その死をみつめ、時間を超越した無限なる生命への憧憬に心を傾けている悲しいほど孤独な、人間木喰行道をそこに感じられないものだろうか。

 

木喰をそれほど悲しませた死とは一体誰なのであろう。ふりかえって、明和七年(一七七〇)に死んだ父親六兵衛や、安永四年(一七七五)旅空で知ったのであろう母の病死は、肉親とはいえ年長者であるから除外して、安永二年長すぎる準備期聞のすえ、彼がいよいよ日本廻国に旅立つに際して、関東近在一三九名の万人講から喜捨を受けた総額十五両四二六文にのぼる基金の中で、一番多額の報謝を受けた甲州甲府金手町名和善内という人物が浮び上ってくる。

殆んど八文とか十二文という零細な喜捨の中で、名和善内の三両は確かに多額であり過ぎるが、それだけの金を木喰に託す理由があったのではないだろうか。

それから十年後佐渡に渡った木喰行道が、天明二年(一七八三)に槍持山奥御堂再建と、更に天明五年加茂郡梅津九品堂を再建した折、奉納額の裏面に「天明五已三月十日父母為菩提也」誌し左右両側の内壁には五輪塔形の板に「施主湊町藤右衛門、平沢村六兵衛」と並べて「甲斐国甲府金手町名和善内」が出てくる。勿論菩提を弔ったのは木喰の父母であろうが、また施主それぞれの父母のためとも解釈できる。

 

 更に二十二年を経った文化四年(一八〇七)には、摂津猪名川にある東光寺で刻んだ白絹像の両脇の十王像二体の脊に再び「名和善内菩提のだめ」と記す。ここでは善内は既にこの世の人でないことになるが

彼はただ高額の寄進者という関係だけでなく、余程深い因縁の人であったことをにおわせ、あるいはこの人物こそ木喰行道をして日本廻国にかりたたせた重要な鍵を握っているかに見える。しかも、善内の死が偶々四国堂完成の時期と前後し、「四国堂心願鏡」に日本廻国の悲願あらあら成就にいたると誌すときに当るからである。

 

木喰行道の仏像制作活動は、安永七年北海道太田山の洞窟で、円空仏との劇的な出合いをおえた六十一才ごろから初期の作品を作りはじめたといわれ、その地を離れるに先立つ安永八年五月、江差金剛寺に先ず子安地蔵を遺している。そして佐渡時代を経て、円熟期といわれる寛政十年(一七九六)ごろからは、山口法界寺、愛知徳蔵寺、静岡引佐の方広寺、金手越の泉秀寺、長岡宝生寺、小栗山観音堂、また上前島の青柳清三氏、摂津猪名川の東光寺、愛媛中庄薬師堂など、しきりに散多くの子安観音を刻むようになる。殊に遺作となった甲府金手町教安寺の七観音(戦災で焼失)には、儀軌による約束に反して、不空羂索観音である筈の一体を子安観音にかえてあるのは、木喰行道の心像には、子安地蔵に父と子の、子安観音には母と子のイメージが強く重っていたのではないだろうか。

 

 一体遊行聖にはつよい苦行性があって、日本六十六ケ国の一の宮に札をうちながら、各地の霊地霊場をめぐるその六部の脊影には、原始宗教者のもっていた代受苦と滅罪行があって、その故に共同体から養はれ、布施を受けることが出来た。だからといって近世の聖である木喰行道が、勧進のために部落に這入りこむ修験者や乞食浪人などに、きつい法度が布かれていたその時代に、生涯をそうした代受苦と滅罪意識で貫いたと考えなくてもいいし、それをそのまま彼に強いることもない。ただ時にふれ折にふれ、この原始的な宗教意識にひき戻されるような何かを抱いて、その放浪の心としていたと考えなければ、三分の一世紀に及ぶ孤独の旅は続けられそうもない。

 

十四才で故郷を離れた彼には、その時点ではそんな動機があろうとは考えられず、当然村を出奔した彼は無宿もので、強固な封建社会の寺請制度の中で、手形を持たない者が落ちて行くところは、市井の無頼の群か、物乞いでしか無かったろうが、事実「心願鏡」で述懐しているように、相模大山不動へ参龍の折り泊り合はせた古義真言宗の僧と師弟子の契りを結んだ二十二才までは、江戸を始め所々方々を様々な職に就いて労苦を重ねる。その後の大山での二十数年も、安住の地をみつけたといっても、山下の僧として、阿夫利神社の石尊権現や、大山不動の護摩札配りのような下職として過し、関東一円の檀家をめぐっていたようだから、五来重博士のいうように、この時代に木喰行道の妻帯生活があっても不自然ではない訳である。

しかし、宝歴十二年四十五才の折、何を感ずることがあったのか、常陸国木食観海上人によって木食戒をうけ日本廻国を発願する。しかし何故か永い準備期間をかけ安永二年五十六才になって、漸く相模子安町から旅立ちする。

 北上の旅の途中、甲州に入っているが、故郷に大手を振って帰れないような弱みでもあったのか、明和七年の父六兵衛の死や、安永二年四月の母の病死にも、彼は丸畑に帰った様子はない。

 そして北海道時代を経て、下野栃窪で第二期の制作時代を過し、佐渡へ渡った木喰行道は前記のようにそこに「施主名和善内」と誌しているのは、この時期に善内の母の死を知っていたのであろう木喰行道が、死者をまつる他界信仰の盛んであったこの霊地をえらんで、彼女の霊をねんごろに弔ったのではないだろうか。

 佐渡において誌した歌集「集堂帖」に収めてある二十首をみても、罪の意識にあふれたものが多く、中でも最后に掲げてある、

「平沢や深き願いはながれても、まだ宿業の罪はながれじ」

などは、それを肯定させるものがある。

 

梅津の九品堂は、柳宗悦の謂樫のあと九品仏と共におしくも焼失して仕舞ったので記録によるしかないが、天明四年五月二十日、僅か十一才で亡くなった少女のために「智明比丘尼」という木道自筆の白木の位牌があったというのは、彼の仏像にみる芸術的感受性の強さを物語るものとして印象的であるが、もしもこの位牌の主の年齢が、偶々九品堂に遺した自刻像の脊銘のように、

天明五年三月十五日「出生甲斐固木喰行道五十八才」

とあきらかに自分の年令を十才若く自署していることに照し合せて、十年の違算を故意にしでいるとすれば、そこに二十何才かの一人の女性が浮び上ってくる。これを善内の母とすることは早計だが、僅か十一才の未知の少女のために、比丘尼というような法名をつけるものかどうか、専門家の意見を聞いてみたいと思っている。

 

なお「ただたのめ、たとへわが身はしすめとも、九品浄土は願いなりけり」

というのを、賎女と読んで、善内の母に棒げた鎮魂のうたであると考えるのは、少し思い過しであるだろうか。

 とも角この時期に、善内の母の死が確かであるならば、「万人講帖」の三両の金は、まだ幼かった吾子善円の名で、その母が託したことにしなければ不自然であろう。そして文化四年摂津東光寺における「名和善内菩提のため」は、善内もまた三十才前後でこの世を去ったことになるので、凡らく四国堂完成期の寛政十三年を前厄したころその若い生涯を閉じた筈である。

 もしも、木喰の生涯に山場があるとするならば、日本廻国発願の時代と、幻の女性鎮魂の佐渡時代、そして善内の死を迎える四国堂完成の時期であると考えたいほど、善内の死こそ、木喰行道の心深く無常態を与えたのではなかっただろうか。

 四国堂建立の一年前の寛政十二年正月には、生家の菩提寺である永寿庵に五智如来を刻んでいる。そのノミは冴えず、暗く沈んでいるのに反し、四国堂八十八体仏になると、人が変ったように明るく生々としている。村人にのぞまれて勧進にはずむ木喰行道の心が見えるほど、己の感情の起伏が作品の中に現れるくらいだから、精神の産物であるその作品によって彼のこころを知ることが出来ると思う。

 故郷の人びとの木喰に対する感情は、九州国分寺や各地にのこる木喰伝説が、等しく人間を愛し、どんなに人びとから愛されたかを物語っているのに較べて、むしろ冷た過ぎたようである。彼が聖として村人の信仰を集めるのには、所謂「商工医巫の徒」でない無宿ものであり、また生い立ちを知り尽している者への、共同体社会の閉鎖的根性や、あまりに永生きし過ぎたゆえの知人の少なかったせいもあろうが、人山時代の私生活に対する純朴な村人たらの目が厳し過ぎたのかも知れないのである。その中での四国堂勧進は、はじめて故郷に入れられたうれしさと、今日までの不信を一掃させる好機であったから、謹中の蹉跌にもめげず、それを完成させた彼のこころは無性にはずんでいた筈である。

 そして善内の死を期に、一年余りの放心の月日を送ったのち、この世の宿業から故だれた木喰行道は、享和三年の「寿酉万歳」の心境や、仝四年、越路の大悲像を刻み、多くの秀れた作品を残すが、最後の見納めにもう一度丸畑の山河をその目に刻んで置こうと、文化三年八月四日丸畑に戻るが、僅か五、六日の滞在でそそくさと出里し、これを期に再び故郷の土は踏んでいない。そして仝八月十日には諏訪、仝年冬十月にはもう丹波の諸畑に入っている。

其処で、摂津猪名川の毘沙門屋に善称名吉祥王如来像や、隣村の尼寺蔭涼庵の薬師三尊などの、永遠の女性像といわれる女臭紛々たる微笑仏を刻む。それらの尊容には、ハットするほど丸畑の何処かで見かけた顔があり、想像を逞しくすれば、木喰行道はその庵主である通称「五世さん」に、善内の母の幻影を見たのであろうか。くしくも故郷を遥かに離れた摂津の山奥で、永く険しかった旅の終焉を飾る永遠の女性像の開眼をみたのではあるまいか。

 

たしかに、清原寺の十六羅漢などは底ぬけに明るく、微笑どころでない哄笑させたこの群像には、齢九十にして漸く生死無常の理を悟った天衣無縫さが生まれ、「光明神通開講仙人」と自から名のる彼の宗教的境地への到達をおもい知らされるようである。

 それでも、生死無常の世界を諦観したかにみえる木喰行道の止ることのない放浪の生涯はまだ了っていない。九十一才の老いの身に鞭うって、文化四年善内親子の眠る甲府金手町に戻り、仝教安寺に彼の最後の作品七態度をわずか三日間という驚くべき情魂をそそいで刻み、その後全く行方を絶つのである。

 

善内母子と木喰との関り合いは依然として謎に包まれたまゝであり、そのことを問うことは最早永久に不可能なことであるかも知れない。そして佐渡九品堂でみた「智明比丘尼」も幻の女性の城を出ない。しかし文化三年の冬、八十九才の木喰行道が突然諸畑の清願寺を訪れたとき、

「容貌を視るに顔色憔悴して鬚髮雪の如くしろし、乱毛螺の如く垂る、躬の長(たけ)六尺なり……」

と誌されてある通り、六尺豊かなまれにみる体躬で、酒を好み、山野を抜跳する強建な体力と、二尺余の仏像を一夜のうちに彫り上げる秀れた筋骨の持主であった木喰行道に、一人の女性があっても不思議ではあるまい。

 しかも、安永三年には丸畑の地は踏まなくても甲府に立寄って居るし、天明五年九月西国へ出発するに当り、甲府に入り五十日間の日参りの大願を果していて、一条道場、平松院、府中八幡社、苑光院、神明宮、広厳院、善光寺、法城寺、一条町広副寺の九ケ所を日参の間五ケ月間も甲府に滞在し、また四国堂完成後の享和三年等、大山時代を通算すれば、その回数は故郷丸畑の比でないにも関わらず、故意にその記録をかくしているかに思える。

 強いて謂うならば、無痛にも忘れ得なかった彼の精神的基地とは、丸畑の山河でなく、甲府金手町の家並ではなかったのかとさえ思えるほど、善内の母子がそこに浮び上ってくるのである。

 今回なお、西国三十三ケ所始め各地霊場の本尊をその足で踏み、その目で見て居りながら、観音菩薩だけを強いて子安観音に置き換えてある理由。教安寺住職鏡誉七人との特別の信交、名和家の調査等、多くの課題が残されていることはいうまでもない。

 とも角、半世紀に及んだ放浪の精神を支えたものは、近世の庶民みずからがもっていた、この世におもい半ばにして死んで行った近しい人の霊に対する、木喰行道の愛と菩提のこころではなかったかと私は思っている。

 強固な社会の仕組みの中で生きて行かねばならなかった一人の弱い人間が、死をみつめながら次第に完成されて行く一つの人間像をそこにみるからである。






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最終更新日  2020年08月22日 07時47分09秒
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