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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月22日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

野尻先生と私 山都甲府芝居噺 溝口豊氏著

 

 『中央線』昭和48年発行

 一部加筆 白州ふるさと文庫

 

兼々私は恩師野尻抱影先生から甲府の旅芝居の情景を書いて見ないかとお奨め頂いて居たが、その頃私は中央の大芝居に熱中して居て、旅芝居に興味がなかったのでついその気になれなかったが、それから六十余年も経って今頃になって矢張り田舎の旅興行にはその一座の有名無名に拘わらず面白い逸話があるのに気付いて、八十才近い今になってペンを執る気になった。

処が家の事情で私は東京に生れ十一才で甲府へ移住して来たので余り昔のことは知らない。以前は東京の名題役者も一度は甲府の舞台を踏んで来なければ箔が付かないと聞いて居たが、私が甲府へ移住して来た明治二十八年頃にはそんな陰もなかったので不審に思っていたが、幾年か経つ中に私は私なりにそれが解明したつもりだが、少しわき道だから後日機会が得られたら改めて書くことにする。

 

 野尻先生は人も知る星を中心にした天文学の権威で、早稲田大学の英文科を卒業するとすぐ甲府中学校へ英語の先生として赴任して来られ、私たち一年生から恰度卒業するまでの五年間教鞭を取られ、東京へ転ぜられ私は甲府で家業を継いだ。私たちとは年齢も大した違いはなく八十余才の今日尚壮者を凌ぐ生き込んでラジオテレビに又新聞に星に関する講話や随筆を寄せられて居る。

 

今の第一線に立つ天文学者で先生の教えを受けた人も多いらしい。尚余事ながら先生は現文壇の雄、大仏次郎先生の実兄でもある。

 

 当時甲府中学校の生徒などは専ら質実剛健の風潮で芝居の趣味など一種自堕落的軟派視された時代で私もそんな話相手もなし、先生も生徒を軟化させぬ為と思ったのか、芝居のシの字も口にしなかった。それが甲府を去られて後折々の文通の中何かのキッカケで先生が芝居や席亭(よせ)その他江戸の庶民芸道に関して深い造詣を持たれるのを知り、以来それ等についての文通交流が頻繁になり、当今稀に見る御懇篤な子弟関係を頂いて居る。

 

 ○ 甲府の芝居噺

 

前おきが長くなったが本題の甲府の芝居噺に取かゝろう。人聞きの詩話でなく、私がこの眼で見た芝居噺ばかりである。前述の通り私が甲府へ移住した明治末期から大正初期にかけての芝居小屋は巴座と桜座とだけで前者は三日町から八日町へぬける露路の中程にあって小さい古汚れた惨たんたる小屋だったが座主のHと云ふ人が興行士の手腕は勝ぐれて居て節々採算を度外視して中央の大名題を招いて活気ある芝居を見せた。

自分白身も「源平布引滝」の実盛が得意で滅多には演じなかったが何かの会の余興で私も見たが、実に見事なもので中央の大舞台へ出しても見劣りのないものであった。

 

一方桜座の方は座主がNと云ふ呉服屋出の人で、小屋は桜町四丁目の西側にあって可成りの芝居小屋の体を備えて居た。廻り舞台もあったし、屋上に塗り込めの櫓太鼓もあって、冬の夕空に嗚り渡る呼び太鼓の音は今も懐かしくわびしく耳に残って居る。

 

 ○ 乗り込み

 

有名な巡業芝居が来ると「乗り込み」と云って顔見せの町廻りをする。人力車の行列の先頭にふれ太鼓つづいて主な出演俳優が乗り込んで車の脇に市川何々とか各芸名の札を立てー主たる町を廻り歩く。東京などでは見られぬ長閉な風景である。既に廃残の姿ではあったが出方の設備もあったし桜座の方には一応座付茶屋はあったがいつしか無くなって了った。

 

○ 新派と新劇

 

 さて芝居の話だが八十才近い老境にあって、六十年余前の思ひ出を辿るので順序の前後など到底記憶がないし感違いしていることも多々あると思うので気の付いた方には御指示を乞ふ次第である。

新派新劇歌舞伎芝居一層ゴタゴタしてしまうので順序不同としてせめて新派新劇と歌舞伎芝居と別々に書いて行こう。

 

新派新劇

 

新派新劇に余り興味がなかったが巴座の木戸前で山口定雄、(壮士芝居の先駆者角藤定憲の後を受けて主に旅を廻り舞台で針金渡りから落ちてビッコになった)が座主のH氏と紋付姿で話し込んで居るのを見かけたが、多分興行上の打ち合せであったのだろうが、実現したかどうか私はその芝居は見なかった。松井須磨子のカチューシャを見たのは、この巴座で対手のネフリユ-ドフは誰だったか覚えがない。カチューシャの唄ふ「神に願ひララかけましょか」のララと云う相の手が珍らしかったし、唄ひ終ってジジジ

イ……と云ふのが不思議に思へた。

 

伊庭孝等の一座も口座へ来演したが「剃刀」と云う新劇がその時であったかどうか。

 次に佐棒紅緑の一座で「虎公」と云ふ新派と新劇の相の子の様な芝居で河村花菱が座付作者と舞台監督を兼ねて居た。主演は確か武田正憲で、比ビキ重亮、正邦宏、なども一座して居た、二枚目の元安豊と云ふのが鼻の尖った気味の悪い顔で劇中劇のハムレットなど顔って居たがこれが若松町の芸妓連の人気を集めて桃色の評判が高かった。女優に三笠磨理子と云う妖艶濃厚なのが居て佐藤紅緑の二号だとか聞いたが真偽の程は知らない。その脇役に五月信子と云うが居たが、後浅草の剣劇などに落ち何時か姿が消え

て了った。    

 

武田正憲は後まで残って座頭格で可なり長い間巴座へ出て居たが、その頃は柳町の旅館から錦町のSと云う旅館に一座を引きつれて泊って居たこのS旅館の若主人が私の仲の良い友人だったので、時々訪れる中次第に武田正憲とも懇意になってその座敷へも入って話し込んで居た。

そんな或る時名古屋から甲府へと巡業して、武田正憲と一座する予定だった水谷八重子(十代の娘であったが)が突然舞台で出血して倒れたので、甲府へは廻れぬと云う電話が兄の水谷竹紫から来たので、一座は急にザワメキ立って別室で対策の協議が始まった。私は勿論座を外して帰って来たのでその後

殆禾は知らない。

之よりずっと前のこと新派「明治一代女」のモデルである花井お梅が刑期をおえて箱屋の峯吉殺しを芝居に仕組んで地方巡業して歩いて桜座へ来演したが私は見に行かなかったが、そのお梅が桜町二丁目時代の私の店と露路一つ隔てたD旅館に泊って居て朝、廊下の手摺から露路を見下ろして居たのを偶然見上げたが、なるみ絞りの浴衣がけで白粉焼けの皺だらけの長ら顔に、若き日の美貌も想像出来たがそれ以上に源之助に切られお富を見る様な物凄さでゾッとした。この芝居は市井人の出来事なので別に当局のお叱りはなかったが、そのズ″と前、日清戦争で玄武門で開門の殊勲を現はして金鵄勲章を貰った原田重吉がその玄武門を芝居に仕組んで興行したのが、陸軍当局からにらまれて勲章を取り上げられたと聞いた。之は原田重吉が自分の売名と利欲の為であったからで、今度の大東亜戦争で羽左衛門や菊五郎兄弟のやった爆弾三勇士とはその根本義が違う。

川上音次郎の歿後貞奴が桜座でトスカを演じた。恋人のマリオ何とか云うのが藤沢浅次郎そのライバルで峻厳な法官スカルピオは井上正夫であった。

 前述の通り順序不同だが藤沢浅次郎、木下吉之助の一座が桜座へ来た。その頃盛んに上演された菊地幽芳もの、乳兄弟、想婦憐(この字は怪しい)の何れかを見たが判然としない。木下吉之助は古風な善良の婦人役が最も得意で、姑にいぢめられるとか愛児に別れるとか、この人の役には必ず泣きの涙が伴って居た。

名古屋を根城?として各地を巡業して廻る四万兵衛一座と云う劇団が時々桜座へやって来た。一座は仲々意気の合った俳優がそろって面白い芝居を見せた。中にも中川寛と云う人が立役敵役皆好演で寧ろ座頭役者の観があった。ドサ廻りと云う無名の素人の寄り合い世帯の様な新派劇は婁々来て居るが歌舞伎と違い一定の型や約束がないので役者がてんでに仕勝手の好い受け相な芝居をやるので、丸で支離滅裂で何を意味するのか判らない芝居もあった。

 

 ○ 新国劇

 

新国劇はその名の通りで新劇でも歌舞伎芝居の中間の様なものと見るべきか。沢田正次郎が最も得意な演し物「国定忠次」をひっさげて桜座で開演した。その松原の場の殺陣(タテ)は大工夫を加へた見せ場の由であったが大勢の捕吏を一瞬にバタバタと片付けてスッと花道ヘスタスタと引っ込むのが白慢らしかったが、アッケないと云いけで感心するがものではなかった。

 

この一座が引きあげた後一年も経たぬ中に、ふれ太鼓が人力車で町を駆け廻って歩いたが、その車の後ろに「沢正来る」と大書したビラが貼ってあったが、私は前の国定忠次が余り面白くなかったし、何だか臭い気もしたので行かなかったが、ある友人が行って見たら真っ赤なニセ者であったので、座主に会ってイチャモンを付けたら先方はケロリとした顔付で「あれはサワ、タダシと云う役者で、沢田正次郎と解釈したのはそちらの感違いです」といなされて、憤懣やる方なく帰って来たが、終に大笑いとなって仕舞った。

 

  ○ 歌舞伎芝居

 

 さて歌舞伎芝居の話に移るのだが芝居の新旧に拘らず、山国の冬の夜芝居の情況は同様、今の様に場内暖房設備などないので、見物席も舞台も厳寒の夜の空気は厳しいもので、見物も贅沢な人でも出方が運んで呉れるほんの手焙り程度の四角のアンカに、持参の毛布などかけて行儀よくキチンと座って、云うと人聞きは良いが固く縮み込んで居る。舞台の方は台詞を云う度に白い綿の様な凝った息が裸電灯の下に吐き出される。

 極くひどいのは忠臣蔵五段目山崎街道の定九郎がメリヤスの股引をはいて居たり、与一兵衛が草鞋の中に毛糸の足袋カバーを履いていたのを見た。

いくら山国でも甲府でこんなのはひどいので、もっと田舎のお祭りにかゝる旅芝居にはまゝあることで私も北巨摩の新威のお祭りに招かれて一度見に行ったことがある。勿論野天の小屋かけて見物席は、ただむしろが敷いてあるだけの継ぎ目から竹の根っこがスキッと新芽をつけて覗いて居る。

何のことはない、落語で幕の代りに風呂敷をつなぎ合わせて、村の人の「ひとっぷろしき見て行くべい」などと云った様なもの。それでも大時代の「一の谷」の組討と陣屋を演じ、見物人は持参の煮〆やビール瓶の冷や酒をやりながら見て居る。組討ちの敦盛のボール紙らしい鎧を陣屋で義経かが着用して居るのは勿論である。

 

 流石に甲府ではこんなひどいのは、前記の定九郎のメリヤスの股引位のがひどい最底であった。歌舞伎の世界は門閥が非常にやかましく可成りの演技力を持って居ても中央の本舞台では仲々良い役が付かない。そこでそれ等の不平分子が集って一つの劇団を作って地方巡行に廻り歩くのも少なくない。然しそう云うのは中沢劇団と違って喧しい指導者も居ないので、自然各自の芸が仕勝手の良い様になって荒んで仕舞ふのも当然である。それに道具衣裳等金が嵩ひので散多くの演し物は出来ない。そこで忠臣蔵とか世話物で余り型に縛られない物を選んで旅をつゞけるのもある。中には中央劇界から見放されて問題にされないので歌舞伎の不文律など無視して市川宗家の許可なしで中幕に勧進帳など演ずるのもある。






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最終更新日  2020年08月22日 07時49分19秒
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