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2020年08月23日
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編年体日本古典文学 和銅4年(711)~天平勝宝2年(750

 

『国文学』昭和52年 2月臨時増刊号

編年体日本古典文学~天智9年

  学灯社

   金井清一氏著 

【略歴】

埼玉県生まれ。

1957東京大学文学部国文学科卒。

65年同大学院博士課程満期退学

東京女子大学助教授、京都産業大学教授、

2002年定年、名誉教授

万葉集』をはじめ上代文学が専門。

 

一部加筆 山口素堂資料室

 

和銅4年(711)~天平勝宝2年(750

 

霊亀元715

養老元717

神亀元724

天平元729

天平然宝元749

天平勝宝元749

天平勝宝2年

 

この期の特記事項

* 「古事記」撰上。

* 諸国風土記撰進の命。

* 「日本書紀」頂上。

* 長屋王の変おこる。

* 光明子立后。

* 天然痘大流行と藤原四兄弟の死。

* 藤原博嗣の乱おこる。

* 東大寺大仏建立開始。

* 聖務天皇から孝謙天皇へ。

 

 奈良時代の前半をなすこの四十年間は、大づかみに言えば、藤原氏と皇親及びその支持勢力との対立払拭の時代で、ほぼ十年おきに権力の交替が繰り返され、文学もまたその影響を受けた。

 まずその第一期は平城遷都から養老四年(七二〇)藤原不比等の死までの時期である。この期は律令制欲立への努力が懸命に続けられた時代であると言ってよい。

和銅三年(七一〇)の平城遷都に伴う進都事業は翌年に至ってあまた終らなかった。役民の確保が難しかったのである。和鋼四年九月の勅には

「諸国の役民、都を進るに労はしくして、奔(はし)り亡(に)ぐるもの猶多し。今、言伝未だ成らず」

と記されている。律令権力は、末端まで十分に侵透していなかったのである。同年七月の詔には

「律令を張り設くること、年月已に久し。然れどもわづかに一、二を行ひて、悉くに行ふこと能はず」

とも言っている。律令作成の中心人物、藤原不比等はこのような情勢の中で、次々と機構整備の手を打っていく。

国郡の存廃、建設はほとんどこの時期に行われ、霊亀元年(七一五)郷里制度も確立する。和鋼六年(七一三)の諸国風土記撰進の命も、同年の木曽賂開通もこのような中央権力の地方への参道政策の一環であった。和銅七年には、紀清人・三宅診麻呂に国史撰修が命じられた。

二年前の正月に完成、元明天皇に奏上された「古事記」を不比等らが知らぬはずは無いが、なぜか続記はその完成を記さない。天皇の神聖王権を讃美するがメカニックな行政組織による政治の運営を知らない「古事記」は、律令制の政治社会に部分的有効性しか持ち得ぬか、あるいは無益なしろものであり、これへの不満が新たなる別種の史書、「日本書紀」の完成を急がせたのに違いない。

 霊亀元年(七一五)穂積皇子、長皇子、霊亀二年、志貴皇子(霊亀元年?)と、「万葉集」第二期に活躍した皇族歌人の死が相次ぎ、養老元年(七一七)には公卿筆頭の石上麻呂が没するが、知太政官事、左大臣など、不比等より上位の後任は置かれず、不比等の第二子、房前が参議に任じられるという藤原体制強化のもとで律令制は推進されていくのである。

この時期、万葉有名歌人の公的な歌は笠金村の志貴皇子挽歌(2・二三〇)以外にない。

一方漢詩文の世界では「快風藻」の不比等の五言(その中には七一〇年以前の作もあろう)以下に配列

の約二十首(2949)のうちの大半がこの時期のものと考えられる。おそらく大伴旅人の漢詩一首もこの時期のものであろう。この期にはいわゆる万葉第三期は実質的には開始されていなかった。

 養老四年(七二〇)五月、「日本書紀」の完成を見届けて間もなく、八月三日に不比等が没した。翌日、直ちに舎人親王が知大政官事に、新田郡皇子が知五衛及授刀舎人事に任命され、十二日、征隼人将軍、大作旅人が京に召還され、翌年正月には長屋王が右大臣に任命され政権を担当する。第二期はこの政権の八年余である。保守的豪族の軍事力を基盤とした皇親政治の復活であるかの印象を受けるが、藤原氏の勢力も軽視できない。

養老五年当時橘三千代正三位、武智麻呂は中納言、房前は参議で、ともに従三位、宇合は常陸守兼按察使で正四位上、麻呂は六月に左京大夫となり従四位上であり、同年十月十三日の元明太上天皇の遺認は長屋王と房前の二人に、二十四日は房前のみを召し内臣に任命して後事を托していることからも、それはわかる。

 長屋王政権下では律令制の強化よりは、その矛盾の弥縫(びほう)策が目立つ。養老六年(七二二)の墾田百万町歩開墾計画はまだしも、同七半の三世一身法、神亀五年(七二八)の内匠察・中衛府など令外宮の設置はそれである。

社会不安を背景とする行基の布教活勁も顕著になりつつあった。

政治的にはこのような緊張した矛盾をはらみながらも、文化的には華美であったのがこの時

期の特徴であろう。漢詩文・和歌ともに長屋王邸あるいは宮廷を中心として盛んであった。

養老七年(七二三)、神亀三年(七二六)二度の新羅使来朝を機に長屋王は作宝楼で盛大な詩宴を開いている。

また同じ神亀三年には詔により、玉来の詩賦を百十二人が献じている。

また和歌においては養老七年から神亀三年にかけての𠮷野、紀伊、百石原、難波、印南野行幸に供奉した笠金村・車持千年・田部赤人らの宮廷讃美の長歌が「万葉集」巻六を飾っている。

山上憶良の歌人としての活躍も同じ頃からであり、「類聚歌林」も東宮袴講であったこのころには成っていたのであろう。

神亀五年(七二八)には、憶良はすでに筑紫にあり、後れて赴任してきた大宰帥大伴旅人を盟主に大宰府の宮人群とともに筑紫文学園を形成し思想詩的な歌境をも示した。

一方、中央では光明子の生んだ基王の夭逝が因となって、神亀六年(七二九)二月、長屋王は自経、藤原氏の目の上のこぶが除かれた。

 次いで天平九年(七三七)まで藤腹四兄弟の時代となる。

鎮西使(天平三)、節度使(天平臼)が諸国に発遣され、遣唐使の任命(天平)、朝集使への勅(天平七)など、律令制維持策の効あってか、中央では小野老の歌(万・三二八、天平元年か)海犬飼岡麻呂の歌(万・九九六、天平六)などにようやく整った平城京の殷賑(いんしん)さがうかがわれる。しかし、この時期の万葉の主要作品は神亀末年からの旅人・億良を中心とする大宰府圈のもの、あるいは、その延

長としての帰京後の両者の作であって、中央においては金村・赤人ら宮廷歌人の作は滅少し、高級貴族とそれを取り巻く官僚層の社交の場に歌の大勢は移ったようである。

一方、少年大伴家持は叔母、坂上部女におそらく指導を受けながら歌の習作に励んでいた。天平九年、房前を最初に藤原四兄弟が天然痘のために相次いで没し、一転して橘諸兄が政権を握る。しかし脆弱な諸

兄政権の基盤をゆるがせた大宰少弐藤原広嗣の乱(天平十二)が起き、聖武天皇は五年にわたって転々と都を遷す。このはかない都遷りを万葉最後の宮廷歌人田辺福麻呂が歌う。

 天平十七年(七四五)、都は平城に戻り、東大寺の建設が始まる。翌十八年、家持は少壮国守として越中へ旅立ち、ここに彼の青春が終る。

万葉十六巻までの編纂はこのころに第一次的に成ったらしい。越中で家持が新しい歌境をひらきつつあったとき、都では大仏建立が難渋し、その間に元正上皇(天平二〇)、行基(天平侍宝元)が没。

聖武天皇譲位、孝謙天皇即位となり(天平勝宝元)、藤原作麻呂の権勢の時代が始まろうとしていた。  (金井清一氏著)






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最終更新日  2020年08月23日 07時52分34秒
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