カテゴリ:山梨の歴史資料室
武田の遺風 山梨の県民性 山梨県 なまよみの甲斐 甲斐の国 『各駅停車』「全国歴史散歩」 山梨県 甲斐古文書研究会編
山梨県は、日本列島のほほ真ん中に位置している.面積は4463㎡、人口は80万人、県勢は、かつてあらゆる面で国100分の1であるといわれたことがあった。 さて、この周囲を峻険な山岳で囲まれ、内陸性の比較的厳しい気候条件と地埋的な悪条伴が重なる山国の小県で育まれた県民性については、一言でいうとあまり好ましい評価はされてこなかったように思われる. 甲州商人という言葉に他県の人達が抱くイメージはその典型であろう。その甲州商人の姿は、県内で作家活動を続けている熊王徳平の小説『甲州商人』を映画化した『狐と狸』によって見事に表現された。 甲州商人の悪名は、その閉鎖性とあくなき合理性から生まれたものであった。それはまた『甲州選挙』にあらわれる保守的で地縁・血禄を重視した強い『村意識』とも無関係ではあるまい。しかし、甲州商人のしたたかさと強さは一方で日本の財閥史に名を残す数多くの人物をも生んできた。若尾逸平・雨宮敬次郎、根津嘉一郎、小林一三等である。かれらは明治期に、いち早く鉄道・電力といった新事業の有望性に着眼、投資をして成功し、財界における甲州財閥という、大王国を形成した。 戦後、甲州財閥の名は消えたが、その進取性は現代の実業界で活躍する県出身の財界人の間に脈々と生き続いている。 山梨県人の県民性を語るとき、もうひとつ忘れてならないのは武田信玄の遺徳に対する尊敬の念である。 甲斐が生んだ戦国の雄、武田信玄は、武将としての力はもとより、当時の為政としては稀にみる能力を民政面にも発揮した。 たとえば「甲州法度の制定」、「水防の備えとしての信玄堤の築堤などはその好例である。 さらに、信玄は農作物の生産奨励の手段として林野を活用し、生産力の低い山村や開拓地の農民には免税の措置を施した。そのような形にあらわれた彼の徳政に対し、人々は信玄の治政にあたっての根本精神は「人は城、入は石垣、人は堀、情は味方、あだは敵なり」 の具現を感じとったのであろう。 江戸時代、甲斐か・訪れた他国の人々はこの国を『武の国』であると感じたという。それは甲州人の気質に戦国武田氏への誇りを見てとったからではないかといわれている。
武田氏の治世以後、ほとんどの時代幕領として国主をもたなかった甲州人にとって、信玄対する感情は400年の年月をも一気に飛びび越えてしまっているようだ。今日でも『信玄公』と尊称つけて呼山梨県民の心の中には、まさに武田の遺風が凛々として生きていると言っていい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年08月23日 12時00分03秒
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