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2020年08月24日
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カテゴリ:著名人紹介
山梨文学講座 飯田龍太氏

飯田竜太 「一句に占める季語の力」(一部加筆)(抜粋)

(『俳句』昭和31年6月号掲載記事)

(一)

二、三號前の本誌で定型論議を始めると、各誌で一齋に破調や十七字が述べられて來た。社会性の間題も、何かの座談會で大野林火氏が口火を切つたのが元だといふ風なことを島崎千秋氏が何処かで述べてゐたやうに記憶する。或はさうかもしれない。口火云々は別としても、爾來「俳句」誌上を飾り、俳壇を賑はした事實は顯かであるから、さういふ見解は充分成り立つ。

ところで本號には、赤城、栗林、中村、中島諸氏による「季語について」の座談會が掲げられる由である。とすると、今度の問題はしばらく「季」といふことになるのだらうか。二、三固続けて新しい「季」論議が績くならば、おそらく全國各俳誌の巻頭論文は「季」談義蔽議で飾られることになりはせぬかと考へると、いさゝかほゝゑましくなつて來る。多くの綜合難誌、或は新聞の文化文嚢欄を舞台にする散文と異つて、俳句の世界は「俳句」と「俳句研究」のたつた二つのステージしか持つて居ないのであるから、これは止むを得ない。しかし、その散文の面にしたところで、よくよく、眺めて見ると、作家の側で問題を提出し、ヂャーナリズムは恵實にこれを扱ふといった時代はとっくに過ぎ去って居る。作家に侍して一□(?)一笑を窺つた紅葉や露伴の昔はままづまづ夢ものがたりにひとしい。縦横の奇才を発揮して、結構ジャーナリズムに優越し得たかに見えた龍之介は無論のこと、近く太宰治の終慕に至つては一段と無惨である。

ことに戦争後の昨今、批評家の比重が非常に増大したことは確かににジャーナリズムの勝利を示してゐる。勝利といつては少々適切を缺くかもしれないが、兎も角、專門の文學は勿論、引揚問題、基地間題からサケマス間題、時にファッシヨンコンクールに至るまで、ありとあらゆる文化百般の事項をたちどころに処理してくれる批評家が、ヂャーナリズムにとつて必要缺くべからざる存在であることは事賓だ。この間の消息を更につめて云ふと、作家が民衆の教師であり、その作品が人生の教科書であつた時代はとうの昔に消え去った。これに代つてヂャーナリズムが登場したといふことになる。しかも、實際の数師は姿を見せない。教壇に立つのは、代用教員たる批評家である。使用する教科書は無論、正教員が提供する。書ぎ手だけは相変わらず作家であることに代わりないが、教科書となるもならぬもすべて教師の腹ひとつ。ひとたびかういふ確固たる闘係が成立してしまふと、作家のひとりや二人がどんなに努力してみたところで大勢を覆せるものではない。文學の反俗性とか或は高貴性がある面強く要求されて來たのも、かうした傾向に對する抵抗と見られよう。しかし今日築ぎ上げられたヂャーナリズムの幅と深さ、更に文學に寄せる民衆の嗜好の変化を考へ合せると、さういふ低抗が今後どれ丈幅と深さをもつて大きな潮流となり得られるものかどうか、甚だ疑しい。

かういふことを考へると、俳句の世界にたつた二つのステーヂしか持って居ないといふことが、必ずしも不幸な現象とは言へなくなつて來る。数少ない俳壇のヂャーナリズムは隠れもあらずステーヂの傍に立たされる。しかも観衆はすべて作者である闘係上、観衆の利害は直ちに作者としての得失に繋がる。通俗性と反俗性との摩擦は、この點に於いてヂャーナリズムの側にも、讃者即作者の側にも期せずして起つて來るわけだ。社會性論議が沸き立ち、破調が取上げられる一方、甚だ原始的な論議の野象と思はれさうな「季」の問題までが再び取上げられたといふことはこに原因しよう。

叉、社會性論議に次いで破調の問題、季の間題が取上げられたといふことも興味深い。なぜならば、社曾性俳句が新しい地歩を築かうとして一番傷ついたのが、、結局のところこの「型」と「季」のふたつであつたと考へられるからだ。理論的にはとつくに処理してゐる筈の十七字、この二つの事實は相愛らず解決しぎれて居なかつたことを意味するが、一面叉、この二つが不死身の価値感を持ちつゞけるところに、俳句の持つ通俗性と反俗性の、徴妙極まる交錯が窺へるわけである。

もつとも社會性俳句が一頓挫を來したと見るのは大変セッカチな判断かもしれぬ。考へ様によつてはほんの緒論に入つたばかりと見られないこともないが、反面亦、本誌の三月號で青池秀二氏が「大衆のうたごゑと俳壇」で述べてゐるやうに、「現在の俳壇が大衆を置ぎざりにして、第一線作家の独創と、大衆に無縁な論議を費すならば、大衆が進むべぎ方向を見失ふばかりでなく、有力な作家達も衰弱してしまふだらう。云々」といふ説は一通り頷ける見解である。その原因として青池は「三十代作家の発言も、大衆の心情とずれを生じて來てゐる」點にあるとしてゐるやうだ。無論社會性論議を頭に置いてのことだらう。しかし、更にこの點をつつみ込んでみると、間題は必ずしも「論議」だけにあるわけではなく、論犠に件ふ作品自体に関わって來ることは言ふ迄もない。これら三十代作家に對してよく言はれる、理論は立派だが作品は不味いといふ批評、この言葉を別の表現に変へれば、「季語」の騒使に修練が足らぬといひたい気持が多分に含まれてゐるのではないかと思ふ。「大衆の心情」もつまるところはこゝにあるのではなかつたか。例へば、

松川事件の被告たちに捧ぐ

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最終更新日  2020年08月24日 08時34分43秒
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