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2020年08月24日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室
キリシタン大名 有馬晴信と初鹿野
『甲州人々 こうしゅうじんじん』昭和52年 山梨タイムズ6月号所収記事
歴史随想 渡辺隆三氏著 一部加筆
 
 柿若葉の香る五月の季節を迎える度毎に自分は今日の大和村丸林(旧初鹿野村)有馬晴信の流謞の土地を追憶する。九州日野城の大倉だった有馬晴信がなぜこの地に流され、悲惨な最期を遂げたかという歴史的事件のことは後にして、これだけの歴史的遺跡がありながら今日までほとんど何も研究されていないという事実は不思議だと思う。それ故、本誌の誌上にこの村の文化的遺跡のことを発表して、県下の人達に知ってもらいたいと思うのだ。
 今日の大和村丸林地区に居住する有賀雅氏の家は晴信死後の当時から、三百五十年間も位牌を守り続けて、晴信最後の土地でその冥福を祈っている家だ。
 昭和十九年五月上旬、甲府のカトリック神父、フランス人・フエルナンデルボス師と、故人になられた「少年行」の作家、中村星湖先生の三人で調査し、先代の有賀今朝市老(雅さんの祖父)から晴信屋敷(日川の河原の上に在ったという)跡から発掘された古刀一口を示され、刀のつばが十字架を象ったものだとデルボス師は鑑定された。
 新井白石の「滞翰譜」の附録有馬系図には慶長十八年八月六日自殺、四十六歳とあるがキリシタンなので自殺ではない。元亀天正時代の末から徳川時代の初めにかけて、支那南洋方面の貿易に従事し、外国船と戦い天正十年、大和村の大名大友氏と共にはるばる九州の地から、少年使節をローマに遣わし、日本の有馬としてローマ法皇にまでその名を知られ、法皇から黄金の十字架を贈られたことはヨーロッパの文献にもはっきりと残っていることだ。
 昭和十八年十二月、作家佐藤春夫氏は小説「有馬晴信」を三田文学出版部から刊行されたが、この作品は戦時中のため、日本の南方政策上の見地から貿易方面を開拓した新進の大名、有馬を強調したものでキリシタン大名としての足跡に関しては余り詳細ではない。
 私が晴信に関心を持つ第一の理由は、一人のカトリック信者としての立場と、そのロマンティックな悲劇的生涯と、有終の美しさと、甲斐の山里、初鹿野でキリシタン大名として終ったという点にある。有賀雅氏が手許に大切に保有してあって、戒名は左記の如きものである。
「慶長十七年五月六日、晴信殿迷誉宗轉禅定門有馬修理丈夫晴信、本国肥薩国院城主有馬佐兵衛門讃寿院殿幽誉宗帖大信士」
と記されてあり、
一巻の巻物「徳川憲紀」なるものも保有されてある。この地に流されたことはキリシタン大名としての活動が、徳川幕府にうまれたので、このような避地に流踊されたというのが通説だ。
 幕府の命令で自刃を迫られた時「一死はあえて辞さないが、生命は天主のものであり、自刃は宗門の禁じたところである」ときっぱりとこばみ、妻ジュスターをたしなめていったという。
「天主が天国へお召しの儀でおじゃる。お泣きになるな」
と語って、晴信は設けの厘にならって祈祷を唱え、魂を天主にあずけ奉った後に、使者バルトロメオ忠純が遺品のロザリオを抱いて、
天主には意志を遂げさせ給えと念じ給うた」
と記録が残されている。
これから想像してもここが晴信最期の地であることは確実である。
日川の川原に二つの小さな墓石があり、「何々信女」と読めるだけのものだが、これは晴信の娘の墓石ではないかと、今朝市老の話だが、今日では川原も改修されて一九七二年、二度目に訪ねた時はあの廃滅に近い墓石の姿は消失して皆無だった。
 東京大学史料編さん所の「有馬世譜」によると、ここには十六屋敷、民家十六軒あり、その他の有賀善右工門という人が、晴信の娘をもらい、その末孫が現在の有賀雅氏であって、慶長十七年以来、同じ家に住み、晴信の遺跡を守り続けているわけで雅氏は建築業の仕事をしていられる誠実な人柄である。
資料が乏しいのにその時代からキリシタン関係上の公的なもの、ことに晴信が一時、おあずけの身でかくまわれた谷村城主へ烏井家のものがほとんど消滅し、わずかに天目山栖雲寺にある、十字架を首からさげた虚無像菩薩の画像が間違いなく、晴信の面影があると、自分も其の時、同行したイタリヤ人神父、マレルバ師も断定した。
 県では重要文化財の一品として、同寺の裏側に建てられた倉庫に保管してぁるのだが、大和村役場の方々も晴信の画像だと信じている。地元大和村の有議者もぜひこれだけの歴史的背景のある文化的遺跡に、記念碑でも建て、真の意味の観光資源の一つとして、永久に残してもらいたいものだと切望している。
自分は雅氏にあなたの家の前に標識をたて、「晴信せんべい」「晴信最中」と銘打って記念のお菓子でも売り出したら、今日的意味も充分あって、よろしいでしょうと冗談まじりに話したことがあった程である。
一九七二年五月六日の命日に、甲府カトリック教会のマネンバ神父と信者十数名とが晴信殉教の大和村で三百五年前の故人を改めてしのび、追悼ミサを川原の上で捧げていただいたことがあった。柿若葉五月雨の、そういった冷たい一日だったことを特に記憶している。(一九七七年 四月十三日)





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最終更新日  2020年08月24日 09時03分19秒
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