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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月26日
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カテゴリ:山口素堂資料室

 山口素堂と今日庵を検証する

 

『甲斐国志』によると素堂は、

 

茶ハ今日庵宗旦ノ門人ナリ。亦號今日庵、蓋シ宗丹カラ授カル所カ。

 

 と見える。素堂が今日庵を名乗ったことが事実だとすると、これは茶道歴史上でも素堂の事跡でも確認する必要がある。そこで資料を調べてみた。

 

資料は『茶人物語』読売新聞社編S43刊 を参照。

 

千宗且 干家再興の人

 

千利休の死後、いったんすたれたわび茶が再び頭をもたげてくるが、その主柱となるのが利休の孫宗且である。宗且は『茶道的伝』・『茶道雑話』には利休の長男道安の子とあるが『茶人系譜』にあるように次男少庵の子とするほうが正しいようである。

宗且は、利休の死んだとき十四歳で、宗旦の弟子()須見(すみ)()(あん)が藤付(よう)(けん)の聞書と合わせて書いた『茶話指月集』によると、宗且は「大徳寺の山門の前で乗りものに乗って利休がはいってくるのに会った。利休はすだれを上げて挨拶したが、それが最期の別れだった」と語ったとある。この後、宗且は後難を恐れて、大徳寺の喝食となるのである。大徳寺では師の巻紙宗園に愛され「且少年」という愛称で呼ばれていた。春屋偈頌・漢詩など集めた『一黙稿(いちもくこう)があるが、この中で且少年の漢詩に春屋が手を入れているところが出ており、祖父代わりを勤めていたようである。

 宗且は十六、七歳で越後の人、南部治郎左衛門の娘と結婚、宗拙と宗守の二人の子供が生まれたあと離婚し、今度は阿波蜂須賀家の藩士の娘で東福門院の女官をしていた宗見を貰い宗左と宗室を儲けている。

しかし宗且の若いころの茶の温はあまり知られておらず、彼が活躍するのは晩年からである。

 宗且の茶の湯は、あまりに侘びに徹したので、豪快な大名茶や華麗な宮廷茶に比べて、乞食宗旦という異名さえついた。こうした批判は、宗旦の茶の温が、貴族や大名など特権階級からいやしめられていた町人の間で支持されていたからである。

慶安時代(一六四八~一六五一)の幕府のお触書に

「百姓は酒や茶を飲んではならない。たくさん茶を飲むような女房は離別せよ」

というのがあるが、思い上がりもはなはだしいものである。宗且のほうでも、権力者に仕えることは茶の湯を職業化し、わびの精神が死ぬとみていた。だから幕府からの誘いにも応じなかったのである。

 

『本阿弥行状記』によると、彼は江戸からのたっての希望で、しぶしぶ大津まで出かけたが、そこから東へ向かう気にはなれず、仮病を構えて京都へ帰ってしまったとある。宗且はそのため一生を貧しく送り、あちこちで借金した証文が今も残っている。

 宗且は茶の湯について、ものものしい伝授や泌伝書めいたものを作るのを嫌い

「心に伝え、目に伝え、耳に伝える」

といっていた。そして古人の茶の温語を聞くのを勧め、華美を禁じ、わざと人里離れたところに茶室を作るのを、いかにもわざとらしいとしていたのである。露地の片隅に掛かっている蜘蛛の巣をそのままにしておけといったりするのも、あるがままの姿に美しさを認めていたからであろう。茶道具も半透明の溜塗を愛していたという。

 彼の好みの茶室としては裏千家の寒雲亭がある。ここには自筆の「寒雲」という額が掛かっており、狩野探幽の手違いの襖絵かおる。この絵は寒雲亭ができたとき、探幽かこっそりしのび込んで十二人の人物をあしらった襖絵を描いているところへ宗且がひょっこり帰ってきた。驚いた探幽があわてて最後の一人の左手を、親指と手指をとり違えて描いたと伝えられるものである。

このほか裏千家には宗且が寒雲亭の庭先で杖をかかえてしゃがみ込み、庭石の配置を考えている姿を探幽がスケッチした「宗且打石の図」も残っている。

 宗且は東福門院和子に茶道具を献上し、女官に口紅のつかない練習用の紅色の茶巾を工夫したことがある。このときの茶谷は京都御所に残り、茶巾は今も活用されている。ある日、近衛応山信尋が宗且を訪ねたことがある。宗且は普通の濃茶を点てたので、信尋が、

「私のような身分の高いものには、台天目にするならわしと聞いているが」

と不審がると、宗且は

「ここは草庵風の茶室だからそうしたまでゝ、不満ならつぎの間で一服差し上げましょう」

と広間に案内し、薄茶を点てた。

『乞食宗且』は貴人との付き合いを抜け目なくやっておきながら、あくまでも自分の茶の湯を貫き通しているのである。

 

「宗旦狐」という伝説がある。

京都の相国寺の境内に一匹の年老いた狐が住んでいた。狐は茶の湯が大好物で、毎夜のように宗且に化けて近くの茶人を訪れ、茶を飲み菓子を食べて帰った。初めは本物の宗且と思い込んでいた茶人たちも、やがて様子がおかしいことに気づき、あとをつけて狐の仕業であることをつきとめた。一時は腹も立ったが、その風流を賞でて、ひそかに「宗且狐」と呼んでもてなすことにした。

ある目、狐がいつものように相国寺慈照院の茶会に出たところ、本物の宗且が列席しているのを見てあわて、下地窓を突き破って薮の中へ逃げ込み、それ以後姿を見せなくなったという話である。                     

 

宗且は正保五年(一六四八)七十一歳で隠居、利休から引き継いだ不審庵(裏干家)を三男宗左に譲り、四男宗室を連れて屋敷の北裏に小庵をいとなんだ。これが今日庵(裏千家)である。

 

先妻の子である長男宗拙は、茶の湯にかけては兄弟中でもっとも才能があったといわれるが、宗且とはどうもウマが合わず家出をしてしまった。茶の湯に対する考え方の対立や栄福の放蕩を原因とする説もあるが、義弟の宗左・宗室が生まれたころから徳島や高山へ出かけて腰が落着いていないところから、どうも義母宗見との仲に問題があったらしい。

家出した宗拙は木阿弥光悦を頼って席が鷹ガ峰に行くが、ここでも落着けず、正仏寺の瑞泉庵に身をひそめ、ここで承応元年(一六五二)五月六日に死んでいる。七十五歳になっていた宗且は、重体と聞くとすぐさま駈けつけ「死ぬな」と叫んだという。宗拙もこれに答えてにっこりと笑ってうなずいたというから、親子は最後にやっと和解したというべきであろうか。

宗拙の死後、宗且はめっきり老い込んだと伝えられている。次男の宗守は、讃岐の松平家の茶頭として仕えていたが、やがてこれも京都に帰り、武者小路予察(有休庵)を開き、こうして今の三千家の基礎は固まるのである。

不審庵は利休の友人である大徳寺百十八世の住職、古渓宗陳の「不審花開今日春」にもとづいて命名され、今日庵は同寺百七十一世の住職、清厳宗渭と宗且の往復文書から命名、また官休庵は宗守が老いて松平家を辞したとき、勤めを休むという意味でつけられたものである。

 宗且は万治元年(一六五八)十二月十九日、八十一歳で死んだ。辞世の偈は

 

[一息截断、吐々謁々、看今転機、審作茶畑]

 

で、辞世は

  虚空めが虚空に空と生まれきて また空くうとなる鐘の音

であった。

 宗且の茶の湯を伝えるものとしては『茶禅録』『宗亘示遺言』『宗且伝授』などがある。

『宗号示遺言』は宗旦五ヵ条ともいうべきもので、茶人の修行上の心得を述べている。『宗旦伝授』は上下二巻に分かれていて、『南方録』につぐ茶道の聖典といわれており、今は写本だけが残っている。

 

宗且の茶の湯が占かるもっとも重要な意義は、いったん年台裏にかくれてしまった町人の茶の湯を、再び表に引き出し、利休伝来のわびの姿を茶人たちに示したことである。彼の弟子の中で代表的な者は山田家偏・杉木普斎・藤村庸軒・三宅亡羊・久須美疎庵・松尾宗二らだが、かれらはみな、初めから宗且の弟子ではなく、それぞれ他流を学んだ末、彼の門下になったというから、宗且の茶の湯の魅力も知れようというものである。

 

茶人 山田宗偏

 

資料は『茶人物語』読売新聞社編S43刊 を参照。

 

*** わび茶の復興 ***

 

宗偏の祖先は、信州高遠の城主、仁科次郎盛遠(武田信玄の子)だといわれているが、彼が生まれたころは京都の長徳寺(上京区西側院中立売下ル)の住職を代々勤めていた。

 彼は六識のとき、小堀遠州について茶の湯を習い、十六歳で印可を受けたが、彼の茶の湯を決定したのは、十八歳の正保元年(一六四四)に出会った千宗旦であった。

 宗且のわび茶に頻倒した宗偏は、寺の佐織を捨て、一生を茶人としてすごす決心をした。彼の決心を見た宗且もおおいに喜び、今の右京区鳴滝の三宝寺東谷涼池院のそばにあった宗偏の草庵を訪れ、千利休から伝来の四方釜を贈ったという。それ以来この草庵は四方庵と呼ばれるようになったのである。

 四方庵に、東本願寺の法主、琢如上人が訪れたことがある。このとき七十五歳の宗且は、茶公用にと利休伝来の水指と火箸を贈り、前夜から泊り込んで指導した。

茶会、が始まると、宗且は水屋で息を凝らして成功を祈り、無事すんだあとは二人で手をとり合って喜んだというから、二人は深い師弟愛に結ばれていたものとみえる。

 このあと彼は、明暦元年(一六五五)、幕府の老中だった三州吉田藩の小笠原忠知の茶頭となった。忠知は初め宗且を招いたが、宗且は、自分に劣らぬ茶人として宗偏を推薦したのである。そして宗偏の仕官が決まると、宗且は予察の家宝ともいうべき、大徳寺の古渓宗陳の書いた不審庵の軸と宗且自筆の今日庵の額を与えて、庵号を自由に使うことを許した。

宗且はわび茶の伝統を守る上で、宗偏の存在は欠くことのできないものとして意識していたのであろう。

 宗偏が忠知に仕えた二年後の万治元年(一六五八)十二月十九日に宗且は死んだ。

宗偏のもとへ知らせが届いたのは翌年三月のことで、宗守・宗左・宗室の遺児三人が連名で手紙を出し、宗且が死ぬまで秘蔵していた楽焼宝珠形香合が形見として添えてあった。宗偏は宗且の愛弟子ではあったが、宗且の茶の湯を守り抜くだけでなく、それを乗り越えようと努力を払っていた。宗旦から貰った自在を、長すぎるといって花押のある部分を切ってしまったことさえあるのである。

 

宗偏は茶杓作りの名人であった。一見平凡に見えて、鋭い気迫が箭もっているのが特徴で、筒に人れて詰めをすると、空気が通うすき間もないほどの正確さであった。あるとき宗且と一本の竹を二つに割って、互いに姿が見えないように襖をへだてで茶杓を削り合ったことがある。でき上がった二本の茶杓を揃えてみると、二つはまるで初めから示し合わせたように、形も呼吸もぴったり合っていたという。宗旦も感心し、宗偏作に「我聞」宗且作に「如是」と銘をつけ、二本揃えて宗偏に与えた。

 茶の湯には「不立文字」という言葉かおる。茶の湯の心は文字では衷わせないという意味だが、このため茶の湯に関する記録がいたって少なく、今も研究者を嘆かせる結果となっている。これが利休などについて、さまざまな伝説を生み出すもとにもなるのだが、江戸時代にはいると多少は変わってきて、茶の湯の手引書めいたものも出版されるようになった。その最初が寛永三年(一六二六)に京都の誓願寺前原太郎から出た『草人木』三巻で、つづいて『古織伝』『細川茶湯書』などおもに大名茶を紹介したものが出された。

 

宗偏がこれに対抗して書いたのが初めての利休流・茶の湯解説書ともいうべき『茶道便蒙抄』『茶遊要録』『利休茶道具図絵』である。これは大名茶に押されつづけてきたわび茶の復活ののろしともなるのである。

 

 『茶道便蒙抄』

は延宝八年(一六八〇)に書かれたもので、客と亭主に分けてそれぞれの作法・心得といったものを具体的に書きつづってある。これは小笠原家の家中にわかりやすく茶の湯を伝えるための、いわばテキストブックのようなもので、数人の家臣を集め、一人に点前をさせ、その横で解説しながら口授筆記させたといわれている。『茶道要録』は元禄四年(一六九一)に書いた茶道全集的なものである。克明に点前や茶道具に触れ、利休好みの値段さえはいっている。

『利休茶道具図絵』は元禄十四年(一七〇一)のもので『茶道要録』で書き落とした利休の一畳半こ一畳・四畳半の基本的な茶室の設計図や露地下駄・茶弁当・袋棚・塵取・露地下駄といったこまかいものまで、いちいち図をつけて解説している。これらの本はわび茶の全貌をだれにでもわかりやすく述べると同時に、後世に伝えようという大目的に立ったもので、他流を末流とさげすんだ宗偏の気迫がうかがえるものである。

 

 宗偏は四十三年間、小笠原案円代の藩主に仕えたが、元禄十年(一六九七)七十一歳のとき、家督を甥の宗引に譲って隠居、江戸の本所に茶室を構えて老後をすごすこととなった。近くには吉良上野介義央が住んでいたので、茶の湯を教えたりして、親しく付き合っていたそうである。

そのうち江戸城松の廊下で刀傷沙汰が起こり、上野介は切腹した浅野内圧頭長矩の遺臣、大石内蔵助良雄らにつけ狙われるようになった。吉良邸をうかがっていた堀部安兵衛が、たまたま宗偏の門人中島五郎作から宗偏と義夫の関係を聞き込み、耳よりな情報として大石に伝えた。そしてさっそく大高原吾が絹屋新兵衛という偽名を使って宗偏を訪れ

「江戸へ呉服を売りにきたが、お得意で茶を出されたとき、田舎者の悲しさで作法がわからず、いつも恥をかいている。商売に差しつかえるので…」

という名目で弟子入りを申し込むことになるのである。

 宗偏は大高源吾を一目見たとき、町人にあるまじき面ずれから、すぐさま赤穂浪士の一人と気づいたが、世を捨てた茶人としての自分の立場を考え、黙って入門を許した。源吾はおかげて吉良邸で催される茶の湯の納会の日取りを知り、目指す仇の在宅の日を確め、みごと本懐をとげたといわれている。

講談などでは、宗偏が多額のワイロをとり、茶会の日記を読みやすいところに置いたとか、極秘情報をこっそり教えたことになっているが、これは話をおもしろくしたにすぎないだろう。

宗偏が浪士たちの忠義心と苦労に同情し、原音に上野介の助勢を暗示したという説もあるが、これもいかにも作り話めいており、すべてを見て見ぬふりをしていたというのがほんとうであろう。

 

 上野介を討ち取った浪士は、泉岳寺ヘ引き上げるとき、首を奪い返されるのを恐れて舟でこっそり先に送り、源吾が花入れを白絹に包んで槍の先にかかけ、いかにも首のように見せかけて歩いたと伝えられている。この花入れは、京都の桂川で漁師が編んでいた竹筒を利休が見て、それをモデルとして作り「桂川」と命名したもので、宗且を経て宗偏に伝わったのを、上野介に贈ったものである。

 「桂川」を上野介に贈ったということは、吉良家が室町時代からの名家で、幕府の儀式や典礼をつかさどり、朝廷とも接触が多く、茶の湯についてもいつかどの権威を持っていたからであろう。いずれにしても、家宝ともいうべき「桂川」を、自分のニセ首とされたことは、人生の皮肉ともいうべきであろうか。

 茶の湯について、いつも

 

「晴れをふだんに、ふだんを情れに」

 

と説いていた宗偏は、宝永五年(一七〇八)四月二日、八十二歳で死んだ。彼の墓は東京都合東区浅草の本願寺にある。






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最終更新日  2020年08月26日 16時55分35秒
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