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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月26日
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カテゴリ:山口素堂資料室

山口素堂消息『睦百韻』

 

素堂師はじめは来雨とか云へるを、□(ママ)宿もあらなくに言うを、袖うち払ふ陰もなしと詠みかへたる、佐野の渡りを思よせて自り、来雪をば改めしとかや。

隣友(芭蕉のこと)を失ひし後は聞知もなしと、琴の緒は断ち侍れども、猶俳諧の奥は世に残さん事を黒露師に口授して、其の身は古来まれなる年も過ぎ、明日しらぬ命は風の前乃花の本にて春死なんと詠まれし言の葉、月のかげに誘ひ引かれ、西の空へ迎へを願はれしまゝ、享保の始めの年中の秋望に消へ給ひぬと語る。云々。

 

安永八のとしきさらき日

法橋能悦恵隆 花押

 

素堂消息『初心もと柏』発句一入集。言水編。素堂との交遊記事。

江戸八百韻と云う集撰み侍る時、素堂と打ち連れ帰るさの夜いたく更けぬ。所は一

鐵が許、家まばらにして、かきね卯の花咲り。

 

素堂消息『鵠尾冠』発句一入集。越智越人編。

項羽が騅佐々木が生喰の木瓜の花

 

享保3年 戊戌 1718

素堂……『沾徳随筆』水間沾徳編。素堂追悼文あり。

 

享保6年 辛丑 1721

 

素堂消息『素堂句集』、子光編。享保6年 辛丑 1721

(前文略)隠逸山口素堂信章は、江上の北東浅草川(隅田川)の傍ら、

下総の国葛飾の郡の内に於て廬を結び、歳月を経て久し。

稟性野志多く、固より貨財を以て世事を経ず。

心偏らず雪月花の風流を弄ぶ。

弱冠より四方に遊び、名山勝水、或いは絶れたる神社、

或いは古跡の仏閣とあますこと無く歴覧す。

亦かぞうるに叶ふ師なり。詩歌を好み猿楽を嗜み、

和文俳句及び茶道に長けたるなり。

その作、蓑虫記は風俗文選に載す。俳句を載せここに俳諧糸屑して行く世なり。

天質疎通強記、往く所の詩歌和文等の作は、みなこれ胸中に於て暗じ、

人が紙硯を具えて之を請えば則書き、而してここにその筆書を与える也。

左の如き草稿(芭蕉庵再建勧化簿)写してここに貴顕これを召し、

好事者は最も鐘愛す。

招きに従り他人の寓にとどまること或いは三五日或いは十日、

然れども阿邑諂諛の意もなく与人に非ず対話し、

則ち黙しては泥塑の如し。人に説く話は、固より言多からず。

その庵中に蔵する所の書は数巻及び茶器に爨炊の鍋釜、

而して己に又一力助あり、薪水の労なり。予は幸い親灸既に十余年を得る。

其の和文・詩歌・俳句等数十帋悉く匣底に蔵す。

然るに其れ蠹害を患う。旦に好欲の者の頗った蒐輯は冤にして、

以て写し別け猪(紙)を積みて一帙を成す也。

恨むらくはその他の文詩は人の手の在りて得ず。

矚者に亦た多くの許しをえん。嗟嘆。

此の人これ謂ゆる善き隠逸者なるべし。

享年七十余にして嬰病享保元年丙申歳八月十五日夜遂に世に謝す也。

武江城の北東の隅谷中感応寺中瑞院内に於て痊ず。

号して廣山院秋厳素堂居士と為す。

享保六年辛巳年氷壮中旬 子光 誌

 

『素堂句集』、子光編。所収概要

一、芭蕉との蓑虫句文

一、記行二編、「甲山記行」・「東海道記行」

一、俳文十編

一、漢詩、二十八首

一、俳聨二巻

一、和歌十首

一、発句十六句

 

享保13年 戊申1728

素堂……『庭竈集』入集。越人編。

 

享保17年

素堂……『綾錦』菊岡沾涼編。俳諧系譜に掲載。

 

享保20年 乙卯 1729

 

素堂……『とくとくの句合』刊行、祇空序。

 

山口素堂消息『ふでの穐』素堂の嫡孫、素安の確認。享保20年 乙卯 1729

素堂亭のこと、素堂号を寺町百庵に譲ること、

百庵は断わり佐々木一徳が継承すること。(『連俳睦百韻』)

 

『毫の龝』ふでのあき

執文朝が愛子失にし嘆き我もおなしかなしみ袂を湿すことや、

往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を催しける頃、

かくれ家やよめ菜の中に残る月

といひしは嵐雪が句なり、猶此亡日におなしき思ひをよせて

十日の菊よめ菜もとらず哀哉

かくて仏前に焼香するの序秋月素堂が位牌を拝す

百庵素より素堂か一族にして俳道に志厚し。

我又俳にうとければ祖父が名廃れなむ事を惜しみ、

此名を以て百庵に贈らむ思ふに、

そかゝるうきか中にも道をよみするの風流

みのかさの晴間なくたゝちにうけかひぬによつて、

素堂世に用る所の押印を添て、

 

享保乙卯(二十年/1735)

九月十一日に素堂の名を己百庵にあたへぬ。山口素庵

 

百庵……本姓越智氏、本名言満、名は三知、又は友三。

号を道阿・梅仁翁・不二山人・新柳亭という。

元禄五年(1692)生~天明六年(1786)歿。年八七才。

幕府の茶坊主で百俵二人扶持を受け、後坊主頭をつとめたが、

事あって(柳営連歌の連衆となるべく運動する)

鼓楼の時守に落とされ、後に小普請入りとなる。

 

《註》

…素堂の号について、歿後葛飾門を名乗り様々な俳号が生まれるが、それらは継承者を自負する人々の手による号が多い。百庵が素堂号を名乗った形跡は見られず、佐々木来雪が継承する。三世素堂襲名記念集、『連俳睦百韻』には『ふでの龝』で百庵は素庵に素堂号の襲名を勧められたが辞退した。

 

明和2年 1765

 

山口素堂消息 黒露『摩訶十五夜』素堂五十回忌追善集。山口黒露編。明和2年 1765

(前文略)

けふ亜父の恩報ぜんに、はし立て及ぶべからず。

山高く海深し、千峰と仰ぎ直下と見おろす。

其館し奉る事は暫く置て、

世に云伝ふ恩を仇にて報にハ、今一個の身の上にせめ来れり。

清名けがす事あまた度なれど、生涯露ほども腹だち給ふ機だに不見、

吾舅ながら実に穏柔和客の翁也し。

学は林春斎の高弟、和歌は持明院殿の御門人なと、

和温の方に富とやいはん。折にふれて花のもと、

月の前に扇とりて一さしかなでつ。

舞曲は宝生良監秘蔵せし弟子入木道の趣、

茶子の気味は葛天氏代の好き者也と拝し給ひし。

あるは算術にあくまで長じ給ひけるも、隠者におかし。云々

 

明和6年 1769

山口素堂消息 鬼貫『鬼貫句選跋』大祇編。明和6年 1769

 

五氏の風韻をしらざるものには、

ともに俳諧をかたるべからず。

こゝに五氏といふものは、

其角・嵐雪・素堂・去来・鬼貫。

素堂はもとより句少なく、云々

 

安永6年  1777

 

山口素堂消息『春泥句集』召波著、維駒編。蕪村序。安永6年 1777

 

問 其ノ友とするものは誰ゾや。

蕪村答

其角を尋ね、嵐雪を訪ひ、素堂を倡ふ、日々四老に会して、

はつかに市城名利の城を離れ、林閑に遊ひ山水にうたげし。云々

 

安永8年 1779

 

山口素堂消息『連俳睦百韻』佐々木来雪編。

(佐々木一徳の来雪庵三世素堂襲名記念集)安永8年 1779

 

<註>

素堂の家系について触れている。それによると、

素堂の鼻祖は織田信長・豊臣秀吉の家臣の蒲生氏郷の家臣、

山口勘助で有る時期に町屋に下る。

とあり『甲斐国志』の甲斐の北巨摩郡教来石村字山口の出身とする記述と大きく異なる。

又、素堂の嫡孫山口素安の確認も出来て、『甲斐国志』の記述とこれも異なる。                                                                                              素堂

 

「寿像感得の記」山口素堂消息『連俳睦百韻』佐々木来雪編。

(佐々木一徳の来雪庵三世素堂襲名記念集)安永8年1779

 

此翁は、寛永十九年正月四日に誕じて、

享保八月十五日寿七十有五にして終りをとれり。

今も按ずるに、

其の一周に当りて摂陽の茶瓢先師の恩恵を仰ぎ慕ひ熙心より生涯菊を友とし、

無絃を愛し、園中に集める草庵の幽趣を捜写して、

百世の筺とは成したるなるらん。両士の考心軟ずるに余り有りと言ふべし。

 

素堂……寿像の裏書

 

摂陽ノ隠士酒堂東都之大隠素堂之恩□(ママ)ヲ慕ヒ

同志茶瓢ト寿像を製し畢ル享保二年酉八月也

 

安政2年 1855

 

口伝……『俳諧素翁口伝』 山口素堂の俳諧作法書。

 

文久2年 1862

 

追善……『野分集』素堂150回忌追善集。今日庵泰登編。

 

《註》…これ以外にも素堂関連記述のある書は多く見られので、一括して末尾に掲載する。

 

編集後記

 

山口素堂、この偉大な人物の研究を歴史や文学に全く縁のない筆者ごときが、手を染めてしまって、現在でも苦悩と反省の日々である。

新たに現れる史料は素堂の地位と名声の高さがあり、他を寄せつけない俳論は、筆者の浅学では到底及ばない奥深いものであった。文書や難解な箇所については、小川健三氏や諸先生に教えを仰いだ。また、著作年と掲載著書の刊行日との差があり、これなども適切な指導を受けた。

最初は簡単な気持ちで『甲斐国志』を中心に素堂の身辺調査を始めたが、収集した資料と『甲斐国志』の記載内容の大きな隔たりに悩む日々が続き、一つ一つ確認する作業に追われ早十年を経ようとしている。      『甲斐国志』以来、山梨県における素堂は、元禄九年の濁川改浚工事において、時の代官桜井孫兵衛の手代としての活躍ばかりが目立ち、またそうした内容の紹介書が多数あり、素堂はすっかり土木技術者の神様になってしまった。しかしこの工事の主役は桜井政能で、政能を顕彰した姪の斎藤正辰の碑文には素堂の関与は認められない。私の調査からは素堂が濁川改浚工事に関わったり、若い頃桜井孫兵衛のもとに仕官した形跡はなく、元禄九年に工事の手代として活躍したとの史実は素堂側の史料からは抽出は不可能であった。

有効な資料は、本人自らの著書である。後世の諸本はその時の時代背景や風潮により、必ずしも正確ではないことが多々見られる。素堂が自ら著した『甲山記行』には、「甲斐は妻のふるさと」とあり、「外舅野田氏」の記述もある。又資料からは素堂が素道や市右衛門さらに官兵衛を名乗った形跡なく、断言できる。 素堂の家が甲斐府中に在った事も『甲斐国志』以外の資料からは実証できない。

素堂は甲斐の出身でなかったらとの身も震えるような仮説、素堂と京都・素堂と長崎などその関係を窺わせる資料も見えてきて、大きな戸惑いを感じた頃もあった。

素堂の俳諧事蹟、特に序文・跋文に見え隠れする俳論やその数の多さは、これまで研究者が触れることはすくなく希であった。素堂の出生場所や家系については『甲斐国志』とは異質の環境が提示されていた。       調査研究からいえることは『甲斐国志』とかけ離れた素堂が一人存在しているということである。

今後も調査研究を続け、より実像に迫りたい。幸いにしてその後も有効な史料が現れている。いずれ集積して刊行するつもりである。





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最終更新日  2020年08月26日 17時14分06秒
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