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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月28日
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カテゴリ:山口素堂資料室

山口素堂 主な俳句年譜(所収俳諧書の刊行年による)

 

* 二十六才 寛文八年(1668)

かへすこそ名残惜しさは山々田

* 三十六才 延宝五年(1677)

  茶の花や利休が目には吉野山

* 三十七才 廷宝六年(1678)

*最も親しまれている句  鎌倉にて

  目には青葉山ほとゝぎす初鰹

* 三十七才 延宝六年(1679)

  峠涼し沖の小島のみゆ泊り

* 三十八才 延宝八年(1681)

  入船やいなさそよぎて秋の風

  二万の里唐津と申せ君が春

* 四十一才 天和二年(1682)

  鰹の時宿は雨夜の豆腐かな

* 四十三才 天和三年(1683)

  浮葉巻葉北進風情過ぎたらん

* 四十四才 貞享二年(1685)

  みのむしやおもひし程のひさしより

* 四十五才 貞享三年(1686)

  雨の蛙声高になるも哀れ哉

* 四十六才 元禄元年(1688)

さか折のにひはりの菊と歌はゞや

* 四十七才 元禄二年(1689)

国より帰る

われをつれて我影帰る月夜かな

  • 五十四才 元禄八年(1695)

       甲斐にて

    晴る夜の江戸よりらかし霧の富士

  • 五十五才 元禄九年(1696)

     芭蕉三回忌

    あはれさやしぐるゝこの山家集

  • 五十六才 元禄十年(1697)

    青海や太鼓ゆるまる春の声

  • 五十七才 元禄十一年(1698)

    御手洗や半ば流るゝ年忘れ

    綿の花たまたま蘭に似たるかな

  • 六十才  元禄十四年(1698)

    大井川しずめて落るつばき哉

    そよ更にむかしを植えて忍ぶ草

  • 六十一才 元禄十五年(1702)

      御手洗の半ば流るゝ年わすれ

  • 六十四才 宝永二年(1705)

      長雨の空吹き出せ青嵐

  • 六十五才 宝永三年(1706)

ずっしりと南瓜落て暮さびし

  • 六十七才 宝永五年(1708)

        武州川越

      我ほかに誰やきませと花芒

  • 八十八才 宝永六年(1709)

        丹波にて

      我むかし一重の壁をきりぎりす

  • 七十五才 享保元年(1716)

        辞世句

    初夢や通天のうきはし地主の花

  • 享保二年(1717)

     

    素堂追悼集『通天橋』

    桃隣紹介の当最も親しまれていた句

      はづかしの蓮に見られている心

     

    資料が集まるに従い、山口素堂は私如き素人が語る様な人物ではなく、遥か雲上の存在で近づく事の出来ない人物であることが分かってきました。本来なら素堂などと呼び捨てには出来ない人で、素堂翁などの敬称をもって呼ばなければならない立派な人物なのです。

     しかし私は続けなければならないのです。それは東京の谷中天王寺の素堂の位牌を前にして自らに課した誓いがあったからです。その誓いとは当初は山口素堂を郷土山梨県白州町の著名人としてもう一度世の中に出したいという単純なものでありましたが、おおよその調査が終わった今はその思いも変わり是が非でも素堂をよみがえらせ、素堂の生涯を世に間いたいと思います。

     素堂が生き技いた時代に於いて、素堂は芭蕉を凌ぐ賎しい姿勢と深い知識それに多くの人々を抱擁し、育てる力量と地位・人望がありました。

    これまでの研究書には素堂に対する事実誤認も多く、今こそ山口素堂事蹟の再認識と再確認が必要と思われます。

     調査が進むにつれて甲斐の歴史から遠ざかる素堂を『甲斐国志」一書をもって甲斐につなぎ止める事は非常に難しいことでその面では結局空しい結果となってしまいました。私は思います、松尾芭蕉が「俳聖・推敲詩人」なら山口業堂は「文聖・即興詩人」で

    あると。現在の評価は兎も角新境地の開拓に奔走した業堂の活動なくしては芭蕉を始め当時の俳壇は語れないと思います。

     

     調査をはじめてから収集した資料を中心に素堂の生涯にわたってまとめ、

    『甦れ!素堂』をブログで書き綴る運びとなりました。

     松尾芭蕉と違い業堂の研究は少なく紹介も断片的であり、その為か資料も散乱していて収集活動は予想以上の苦難の道程でした。入手困難の資料も多く未見資料もあり、現在までの調査報告という側面を理解していただければ幸いです。

     山ロ業堂の研究は荻野清先生・清水茂央先生・森川昭先生・朝倉治彦先生の素堂事蹟の紹介など諸先生の研究を参考にさせていただきました。俳人素堂の事績は諸先生の研究に委ね、人間素堂としての側面と断片的に伝わる事蹟を繋げて見ました。そこには芭蕉をして先生と言わしめた素堂像が鮮明に浮かび上がりました。

    今後更に素堂の事績や交友関係を調査して発表する予定です。素堂関係の資料及び情報をご存じの方はご連絡を下されば幸いです。

     

    現在、素堂の事績については『甲斐国志」の影響が強く、その出生や青年時代はそのまま引用される事が多く、しかも何の関連を持たない『連俳睦百韻』の記述を結びつけ、定説とし多くの辞書などにも記載されています。しかしそれは「史実」ではない部分も含まれています。後述してありますが、山口素堂が俳壇に登場するまでは生地を含め全くの不詳時代と言ってよく、素堂も触れていません。生地についての最有力は「江戸の生まれである」という事で、素堂は生まれながら江戸を拠点として活躍していた事になります。これは勿論推察でありますが、素堂が[甲斐の生まれ」とする説より落ち着きます。

     ブログを読んでいただければ素堂が如何に甲斐の国との関係が薄く、「甲斐国志」の記述や後世の私説に無理があるかが理解いただけると思います。親族寺町百庵の『遮俳睦百韻』は芭蕉伝について詳しく記載されている「次郎兵衛物語」と同じで偽書扱いされているのでしょうか。後世の書には著述者の主観で恰も古人の言った様に断定して記したものあると思われます。

     現在刊行されている著述者の主観に満ち芭蕉中心の様々な「芭蕉人生伝」は真実を伝えているのでしょうか。

     

    素堂と同じ、白州の生まれとされている馬場美濃守信房の研究をされている埼玉県の方が居て、馬場美濃は天正三年の長篠の戦いで敗れた武田軍と共にしんがりを務め死んだ。子孫は長野の伊那に隠れ、その後徳川の菅沼家と共に埼玉の現在地に来て、代官として地域住民の信望を集めた。一時は苗字も替えていたが明治時代になって馬場姓に戻した。と語り、美濃守の末裔との思い込みの強さと信ずる力には圧倒される思いがしました。

     

    山梨県の歴史は県内から見て書されたものが多く、周辺の地域や全国的視野で見た歴史書が少なく従って一部記事に偏重した記述が見られます。ある人は、古代の遺跡を調査する場合も幅広い知識がないととんでも無い誤りを犯す場合もあると指摘されています。

     何時か小淵沢地域で大々的に地質調査が行われ調査終了後に訪れたその地には多くの土器や石器が散乱していました。この地の遺跡調査は行われなかったのです。






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最終更新日  2020年08月28日 05時55分37秒
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