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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月28日
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白州町周辺

 歴史に興味を持ってから白州町や峡北地方の遺跡の多いことに今更ながら驚いている。歴史の発祥は河川の上流からといわれているが、全くその通りであり、白州でも八百メートル以上の山地からも縄文土器が地表に現れている。現在の県内や白州のリゾート開発はこうした地域に於いて盛んで、従って古代遺跡のある位置と重なり、開発に伴い周囲の遺跡が人知れず壊されている事となる。白州の遺跡は高台の殆ど全域におよんでいて、中には古代・中世・現代と累年の遺跡が存在する地域もある。かつては豊かな生活を水害に一気に襲われ十メートルの地下の土砂中に土器が出現した工事現場もあった。縄文、弥生、中世の土器が幅二メートル、長さ三十メートルくらい堆積された工事現場に遭遇した事もあった。恐らく上流にあった生活場所が一気に流されたのに違いないと思われる。発見したときには唖然としてその場に立ちすくんでしまった。暫くして訪れた時はこの現場はすっかり補助整備が完了し、整地された土手に土器や石器が散乱していた。

 その後約二年間は表面土器の収集に明け暮れたのである。農道の凹みに埋められた土器と石器、耕作機械の爪痕もある。工事現場の作業機械の間や周囲に無惨に壊され散乱する土器は、歴史尊重か工事優先かの意識とその地域に住む人達の古代遺跡に対する認識の表れである。

現実問題として生産を生まない遺跡調査より、生きていく為の生産活動が優先される事は致し方のない事かも知れない。山梨県内特に峡北地方には「大石信仰」なるものがあり、形跡も残り諸書にも紹介されているが、調査されない工事現場にも「丸石」はゴロゴロしている。

 古代遺跡の発見や保存は一般人には難しくその術も理解されてはいないし、地下に埋蔵される文化財を守るのは国民の義務であるとの認識も薄く、また開発に常に晒されている山梨県においては解明されずに「破壊されていく遺跡」の方が確実に多く残念な事ではある。豊かな古代それに中世においては全国で活躍した甲斐源氏の発祥の地とし諸書に伝わる白州を含めた峡北地方の歴史史跡は何れ消失して歴史の書物の中にだけ生き続ける事となるのだろうか。甲斐の歴史とは「破壊」「消失」『創作』の歴史ではなかったのかとも思われる。

 

峡北地方で解明を待たれる遺跡に「古代御牧」がある。その存在は中央資料により断片的に確認出きるが、地域には一部の地名を入れて詠まれた和歌を以外は確かな資料は伝わらない。

 各地域の遺跡調査によりある程度の調査結果は明らかにされているが、各市町村資料の縫合も出来ないまゝ、一般には伝わらず専門的な冊子に紹介され保存されているだけである。山梨県の人々一般には歴史と生活は密着してはいないとも思われる。

 天皇直轄自然に放牧された野馬が掛け巡ぐり人と共存した時代、三箇所あったとされる峡北地方の・「牧場」、ここから多くの馬が京都に送られて

いて、中央の資料にも足跡が残っている。決められた時期に(遅れたこともある)京都まで馬を献上に行くのである。数千頭の中から選りすぐった馬を調教して長い道のりを出かけていく。どの道を通り、どんな方法で行ったのであろうか。

 甲斐から京都への宮道は御坂を経て富士吉田から東海道へ抜けたと既に定説化しているが、時代を前後して富士山は噴火期でもあり、とても馬を連ねて行くような状況ではなかった筈である。白州町の隣の長野県諏訪郡富士町から南アルプスを越えて木曽街道・伊那地方に出る古道があり、馬の安全を祈願する神社も存在したと富士見地誌にある。この古道は武田信玄時代も使っていたとする研究書もある。

 

「甲斐の御牧」として名高い山梨の牧場については書籍の解明はこれ以上望めない現在、残されているのは地中埋蔵資料だけである。

又山梨県の歴史資料には甲斐の牧場の歌として和歌が紹介されているが、すべて山梨に於ける歌とするのは間違いであり、「枕言葉」化した地名はその地域に訪れなくとも使われているのである。更なる研究解明が必要である。

「甲斐」は苗字としては九州宮崎県に多く京都近辺にも「甲斐荘」の地名が古地図で確認される。「甲斐の黒駒」として活躍した駒は何処の産地の馬であったのだろうか。

 俳句にも言える事であるが地域に何の関係や由来の無い和歌や俳句などの多くは句碑などによって、現在の人々にその場所で作者が詠んだと大きな誤解を招く事にも為りかねない。それを指摘され訂正されたとの話も聞く。隣の長野県には無数に近い牧場が合ったのである。

本来地域の歴史は地域の人達で解明され説明されるべきなのに、最近の市町村史は確かに内容豊富であるが、それほど親しまれて読まれる事はなく一般的には応接間の装飾品が現実で、制作者の意識との谷間は大きい。昔の「村誌」は内容があり特色もあった。

 私の手元に昭和初期ころに制作されたガリ版刷りの湯田小学校の歴史研究書がある。当該学校の先生と地域の青年達による労作であるが、その内容は実に素晴らしく、地道ではあるがよくまとめてあり、各項の字体も違い薄れている部分もあるがその苦労と努力が読みとれる。

 

 湯田小学校制作の本には山ロ素生の「治水牌」や馬場美濃守の事漬(書状写し)も記載してあり役立たせていただいている。こうした地に足を着けた活動こそが現在必要なのである。その内容も大切であるが、携わり調査し研究する大人の姿勢こそが子供達に伝わり、こうした歴史を大切にする心が本来の歴史教育であり子供達の地域についての歴史理解にもつながる大切なことである。

 

最近山梨県各地で地域の人の手による歴史小冊子が刊行されたり、土器制作体験などの催しが行われている嬉しい限りである。

 歴史を大切にしない風土は現在の事も将来には風化してしまう憂き目にあうのであって、農業・林業地の開発を急ぐ事業の拡大の時勢も歴史の保存や埋蔵文化財の調査にも大きな妨げになっている。私は書物に残る歴史資料も大切であるが人々の伝承と記憶の中にある歴史の積み重ねがより重要と考えている。山間の村々を訪れる時があるが時代錯誤する程歴史が生き続けていて、歴史空間の豊かさを身体いっぱい浴びる事ができる。

 






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最終更新日  2020年08月28日 05時58分54秒
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