カテゴリ:山口素堂資料室
○宝暦二年(1752)甲府城勤番野田市左衛門成方著) ※ 調唯 壺嘗軒 鈴木氏 ※ 十橋 天五會 藤田氏 右両人俳諧を以て名あり。 ※ 猿橋にて 蔕(ほそ)落の柿の音きく深山哉 素堂 ※ 身延通本橋 通本て鳴や南無妙ほとゝきす 黒露 ○昭和八年刊行・甲斐叢諸刊行會 ※ 板垣の里にて 道ばたに繭ほす臭のあつさかな 許六 ※ 小松といふ所にて しほらしき名や小松ふく荻すゝき 芭蕉 ※ せめて世をのがれし甲斐の身延山 元政 ※ つくづくとふじも小春も浮みけり 幾秋 雲霧の暫時百景つくしけり 芭蕉 山がつのおとがひとづるむぐらかな 芭蕉 ※ 舟山にて 先のりをはやかすめけり朝の舟 幾秋 ※ 甲斐のしらすと云所の松原のかけにしはしやすらひて かりそめの行かひじときゝしかど (これは甲斐での句ではない) ※ わらび手の枕はづれて夢の山 馬光 ※ 勝沼驛 勝沼や馬子も葡萄を喰ながら 芭蕉 行駒の麥になくさむやどりかな 芭蕉 参考 甲斐叢記巻七…教来石驛(けうらいじじゅく) 上下二村あり、村の西に教来石とて高さ七尺許堅三間横二間許の巨石あり、村名の起る所なりといへり。〔按にケウライシは清ラ石の轉訛ならん)石上に小祠あり日本武尊を祠る此石の西方に上屋敷・矢の下・裏門等の地名あり教来石民部少輔の宅址なりとぞ。支村山口といふ處に國界の關あり山口關といふ。 ○裏見寒話 宝暦四年(1754) 野田市左衛門成方著 (私註) 素堂、没して三十八年にして記された『裏見寒話』には残念の事に素堂お記載事項はなく、桜井孫 兵衛の記述のみである。もし『甲斐国志』に記述されている素堂翁の事蹟が全て真実であるなら、『裏見寒話』にも、記載されていてしかるべきである。素堂翁の「山口霊神」の石祠が「あった」という「言い伝え」はあっても残念ながら、それを証明する歴史資料は見えない。もしあったとすれば、『甲斐国志』以後のことであると思われる。濁川改修工事は元禄九年(1700)のことで『裏見寒話』の記された時より五十四年前の事である。 酒折宮 参考…素堂翁は元禄三年に酒折宮に依頼されて和漢聯句を奉納している。 ※ 板垣の庄酒折村に酒折 あり。日本武尊といふ、(神体には尊の燧袋を奉祀すと云)此社内に八幡あり、御朱印三石あれども、是は八幡の朱印也。縁日正月・九月二十五日。御宮の額は〈酒折宮〉鳥居の額は〈酒折〉とあり。(私【野田氏】云、酒依氏は酒折也、後唱誤にて酒依といふ) 甲府中酒屋 天明二年・(1782) 萩原元克編輯。 庄塚の碑 甲州噺 巻之中(素堂に関する記載なし) ※ 教来石村教化石之事 一、甲斐國は、往昔も水難多有之けるか、山梨郡東光寺村東光寺住僧大超和尚と申は、其頃善知識にて甲州の水難をなげかしく思召、諏訪明神へ祈祷をかけ川除の方便をなさん為、甲州より信州諏訪へ御出の時、又諏訪大明神は甲斐國東光寺の大超和尚か、善知識なる佛法を聞し召ん為、人と化して甲州へ来り給ふ。信甲の国境教来石村と申所にて出逢ひ、互に御名乗有之大超和尚は水難の防を尋たまい、諏訪大明神は佛法の奥義を御尋、御問答有之所とて、右教来石村往還の道端に教化石と申石御座候由申之。 ※ 天正十年、家康公御旅館は古府中にて古尊躰寺。 ※ 万治二年(1659)正月廿六日伊勢町壹丁目北側、五郎兵衛方より出火有之、町々を焼失大火也。是を丸蔵火事と申ける。 ※ 京都角倉與一郎、慶長年間(1601~1614)に甲斐に来り、糊入紙市川村におゐて教る。又鰍澤より駿河國かん原迄、川船乗初め、是も角の倉與一郎、いかだを拵三本にのり、さほさし川道を見定め、鰍澤村へ教る。 ※ 古府中より新府中へ引越の町人ども、 〔伊勢町 河内喜右衛門・森長兵衛・神保佐右衛門金國・次男佐左衛門…其子三右衛門は秋元御家出る・能登國九郎左衛門・坂田與一左衛門〕〔此聟横近中習町 入戸野善兵衛〕 〔魚町壹丁目 海野源右衛門〕 〔八日町 千野孫之丞・しぶへ五左衛門・奥野四郎右衛門・坂田與市郎〕 〔魚町 中楯與兵衛〕 〔柳町 辻太郎右衛門〕 〔三日町 秋山喜三郎・深谷源四郎・野澤太郎右衛門〕 〔連雀町 奥野勘次郎〕新府始りの御家人の末數多也。 ※ 寛文十三年(1673)飢饉人多く餓死す。 この野田七郎兵衛は素堂の妻の父か親族の可能性が高い。素堂が元禄八年に他界した母の願いの身延詣でに甲斐に来た際に甲斐に府中に泊まる。この宿が妻の外舅野田氏であると、その折り著した『甲山記行』に記している。当時甲府の町奉行であった野田勘兵衛の家であったと思われる。野田七郎兵衛は先の様に寛文十三年に閉門となり、約職も解かれる。多大の借財を抱えて息子の勘兵衛も屋敷を売ってその返財に当てる。 素堂の訪れた時期と重なり、勘兵衛はその後佐渡町に移居する。素堂が勘兵衛の娘が何時何処で結ばれたかは定かではないが、『甲山記行』に素堂が自ら云う、甲斐は妻のふるさとなのである。「さすがになつかしくて」の言はかって素堂は甲斐 に来たことがある事を窺わせる。所謂素堂は甲斐に生まれ育ち二十歳頃江戸に出たのではなく、江戸に生まれた可能性の方が高く、素堂が甲斐を訪れた事を示す資料はこの『甲山記行』だけで 翌元禄九年の「濁川改浚工事」の折りに甲斐に来たとの確かな資料は未見である。 ○文化二年(1805)岸綽著
乃甲信官道。而有關曰山口 。有橋名界橋 。河之中流。爲甲信之界 。此地以接壤信州 。高寒與駒嶽八嶽諸峰 。不甚相遠 。村有上下邑 。而其邑田間。有一盤石 。曰教化石 。其旁一禪刹。名大覺山教慶寺 。其開山爲西蜀蘭渓道隆禪師 。相傳禪師趙宋淳祐六年。来我太宰府 。是歳爲寛元四年 。又入鎌倉 。此時平時頼。會建一伽藍 。因請禪師 以爲導師 。即今之巨福山建長寺。是也。禪師後羅衆徒之讒 。 遷於是邦 。營小室於斯盤石之側 。時々在石上 。喩法静坐焉。一日信之諏方神。慕禪師之法 。来盤石之下請教。師因問下神之嗜豬鹿何爲上。喝棒數次。神頓了悟。自抽 其齒牙 。以示意云。余過其寺 。乞現住大隣 。以観其牙大如大栂指 。盛以玉合龍 。此邑之名教来石 。亦起於茲云。 ※ 濁河発源山梨郡北山筋諸谿 。傍引甲府中街渠 。逕板垣村堰閘 。始有濁河之名 。至西下条村。注笛吹河。河身二里餘。 ※ 濁川 水源藤川・高倉川其外府中落水流末中川筋落合村にて笛吹川え落合御普請所板垣村より落合長七十九丁余。 甲斐歴代譜 ※明暦元年(1655・素堂十四歳)八月十日、大風雨洪水國中家數多吹潰、諸木大分吹倒。 ※萬治三年(1660・素堂十九歳)正月廿六日、甲府伊勢町後山田町(ようだまち)一丁目南側、江戸屋五郎兵衛と申酒屋より出火、翌廿七日朝迄焼失柳町にて焼止る。町數貳十町余家數三百廿四軒焼失せり。公儀より類焼の町々へ御金千両拝借仰付られる。云々 ※ 寛文元年(1661・素堂二十歳) 九月より延宝六年(1678)迄十八年間(間)大将軍家光公御四男、徳川左馬頭綱重卿、御領國と成。町奉行野田市左衛門 ※ 延宝六年(1678・素堂三十七歳) 甲府左馬頭綱重卿死去。七年甲府綱重卿嫡男中納言綱豊卿、御領國として甲府御城付高拾五萬三千石余、當國東は笛吹川を限り、西の方也。此外は江州・佐州・武州の内にて合て拾五萬三千石余也。綱吉公将軍宣下。 去年より國中飢饉。國中満水。 筆者註…これが素堂の関与した「濁川改浚工事」の記事である。
清和源氏の支流に入るといへども、今あらためて赤井家に附す。 ことは赤井兵庫頭忠都が譜にみえたり。今の呈譜に、 勘兵衛直之信濃國山口を領せしより家號とすといふ。 某 九郎三郎 勘兵衛 今の呈譜直之に作る。 赤井越前守時家が四男。信濃國山口を領す。 新五郎 勘兵衛 駿河守 従五位下 直堅…九郎三郎 新五郎 勘兵衛 九郎三郎 勘兵衛 寛永十八年三月甲府城番。 五郎 九郎三郎 弥五左衛門 小普請。 太郎千代 勘兵衛 御小姓組 御徒の頭。 勝之助 玄蕃 御書院番 陸奥國・松前の巡見吏。 勝之助 勘兵衛 御徒の頭 大阪城の定番 小普請支配。 山口勘兵衛直堅が四男。三郎右衛門 御小姓組 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年08月28日 06時57分52秒
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