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樋口一葉略譜 ❖ 明治五年(一八七三) 一歳 五月二日、東京府第二大二小区内幸町一丁目一番屋敷、 東京府構内長屋の官舎で生れた。 父埓之助、母たきの次女、なつと命名。 当時長女ふじは十六歳、 長男泉太郎は九歳、次男虎之助は七歳。
❖ 明治十年(一八七七) 六歳 三月、なつは本郷學校に入學したが、 幼少通學にたえないのを理由に退學。 この秋、私立吉川學校に入學。
❖ 明治十一年(一八七八) 七歳 六月、吉川學校下等小學第八級を修了、七級に進む. この頃から草雙紙など耽蹟。
❖ 明治十四年(一八八一) 十歳 七月、下谷御徒町一丁目十四番地に特居。 更に、十月、下谷御徒町三丁目三十三番地に転居。 十一月、私立青海學校二級後期に入學。
❖ 明治十六年(一八八三) 十二歳 十二月、青海學校小學高等科四年数を卒業。 首席であった。
❖ 明治十七年(一八八四) 十三歳 一月から短期間、父の知人である歌人和田重雄から 和歌の通信教授をうけた. 十月、下谷西黒門町二十二番地に移転。 この年から家事を手傅い、 松永政愛の妻女のところに針仕事を習いに通った。
❖ 明治十九年(一八八六) 十五歳 八月二十日、父の知人遠田澄庵の紹介で、 小石川の萩の舎に入塾。 萩の舎は、桂旧派の歌人中島歌子の経営である。
❖ 明治二十年(一ハ八七) 十六章 一月十五日、始めて、日記をしるす。
❖ 明治二十三年(一八九一) 十九歳 九月末、本郷菊坂町七十番地に借家。 母と妹との三人暮し。 生計は針仕事と洗張であった.
❖ 明治二十四年(一八九一) 二十歳 一月、小説家になろうと決意、「かれ尾花一もと」を執筆。 四月十五日、妹の知人野々宮菊子の學友 牛井幸子の兄、桃水に小説の数えを乞い、入門した.
❖ 明治二十五年(一八九二) ‘二十一歳 三月創刊の『武蔵野』に、小説「聞楼」が載った. 『武蔵野』四月號に「たま捧」。 『改進新聞』に「別れ霜」が連載。 六月、桃水と絶交。 『武蔵野』七月號に『五月雨』。 九月、「鰐つくえ」が『甲陽新報』に連載された。 十一月、「うもれ木」が、 一流文藝雑誌『都の花』に連載された。
❖ 明治二十六年(一八九三) 二十二歳 二月、「暁月夜」が、『都の花』百一號。 翌三月、「文學界』に「雪の日」が載る。 原稿料は薄謝に近いもので、 精神的・物質的に行き詰りを感じていた. 七月二十日、敷金三圓、家賃一圓五十銭 の下谷龍泉寺の棟割長屋に転居。 八月五日、荒物、駄菓子などの小店をひらく。 十二月、「文學界」に「琴の音」発表。
明治二十七年(一八九四) 二十三歳 二月、「花ごもり」前半を「文學界」に掲載。 三月、馬場孤峰が訪問、生涯の知己となる。 四月「花ごもり」後半を「文學界」に登表。 七月、「暗夜」第一回分を『文學界』に、 九月「暗夜」二回分を同誌に 掲載.十一月、「暗夜」完結。 十二月、「大つごもり」を『文學界』に発表。
❖ 明治二十八年(一八九五) 二十四歳 一月、『文學界』に「たけくらべ」第一回分載発表。 二月、第二回分載分発表。 三月、第三回分載分発表。 四月、「軒もる月」を『毎日新聞』に、 五月、「ゆく雲」を「太陽』に発表。 六月、「文藝倶楽部」に、舊作を補筆して「経づくえ」を発表。 八月「たけくらべ」第四回分載分を「文學界」に掲載。 「うつせみ」を『読売新聞」に連載。 九月、「にごりえ」を「文芸倶楽部」に掲載。 随筆「そぞろごと」前半を「読売新聞」に掲載。 十月、随筆「そぞろごと」後半を「読売新聞』に掲載。 十一月、「たけくらべ」第五回分載分を、十二月、 第六回分載分を、『文學界』に発表。 また『文芸倶楽部』に「十三夜」と 舊作「やみ夜」を同時に発表した。
❖ 明治二十九年(一八九六) 二十五歳 一月、「文學界」に連続掲載した「たけくらべ」を完結。 「わかれ道」を『國民の友」に、 「この子」を「日本乃家庭」に発表。 二月、「裏紫」前半を「新文壇』に、 「大つごもり」を『太陽』に再掲載。 四月、「たけくらべ」を『文芸倶楽部』に一括発表。 『めざまし草』の「三人冗語」で、 森鴎外、幸田露伴、斉膝緑雨が激賞した。 肺結核の徴あらわれる。 五月、『通俗書簡文』を博文館から書下し発表。 「われから」を「文芸倶楽部』に、 随筆「あきあはせ」を「うらわか草』に発表。 七月同筆「すずろごと」を「文芸倶楽部」に発表。 八月、重態のため創作不可能。 舊作の和歌八首を『智徳會雑誌』に発表。
十一月二十三日午前、奔馬性結核で死去。 二十五日葬送、會葬者は、 わずか十数人の寂しいものであった。 法名は智相釈妙葉信女。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年08月28日 22時27分51秒
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