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小林一三 下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。 そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」 (阪急電鉄創設者) 1873~1957
『心に響く名経営者の言葉』 ビジネス哲学研究会 2008刊 一部加筆 白州ふるさと文庫
山梨県の商家に生まれた小林一三は、幼くして母を亡くし叔父夫婦に育てられた。明治21(1888)年に上京し慶応義塾大学を卒業後、三井銀行(現在の三井住友銀行)に入行した。エリートコースを歩んでいた小林だったが、三四歳のときにかつての上司、岩下清司(北浜銀行の設立者)から「大阪で証券会社を設立するつもりだが、支店長にならないか」という誘いを受ける。金融業のノウハウを学んだ小林は、株式取引に大きな可能性があると見抜き、その誘いに乗って銀行を退社した。 ところが、その年(明治四〇年)、日本を襲った日露戦争後の大恐慌によって証券会社設立の話が流れ、小林は大阪で路頭に迷うはめになる。気の毒に思った知人が、小林に阪鶴鉄道の監査役の仕事を紹介するが、じつは阪鶴鉄道は大きな問題を抱えていた。 当時、阪鶴鉄道は新たな鉄道路線を開通しようとして「箕面有馬電気軌道株式会社」という新会社を設立しようとしていたが、こちらも大恐慌のあおりを受け、公開した株式の引き受け手のいない状態。巷には「開通前に新会社は倒産」という噂まで流れ、周辺の土地の値段も大暴落していたのだ。エリート銀行マンだった小林にとっては、まさに「下足番を命じられた」気分だっただろう。 しかし、小林はそれを拒まなかった。それどころか同社の専務になり、すべてのリスクを背負ったうえで金策に駆けずりまわった。そして、かつての上司である岩下を説得して株式を引き受けてもらい、新規路線の開通を果たしたのである。 箕面有馬電気軌道は大正7(1918)年に阪神急行電鉄と改称。小林は昭和二(1927)年に社長へ就任した。みずからの言葉どおり「日本一の下足番」となったのだ。 ほとんどの人は「カッコいい仕事に就きたい」という望みを持っているはずだ。だが、全員がその望みを果たせるわけではない。そんなときに腐ってしまったら終わりだ。どんな仕事でも日本一、いや世界一をめざせば、その先には望みの「カッコいい仕事」が待っている。
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最終更新日
2020年08月30日 17時18分44秒
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