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2020年08月31日
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カテゴリ:俳人ノート

俳人ノート 調和 ちょうわ

 

□ 延宝期江戸俳壇の中心。

□ 寛永十五年(1638)~正徳五年(1715

□ 岸本氏。陸奥国岩代に生まれ、

□ 寛文中期以後、江戸に出る。

通説では安静の門人とされるが

貞徳門の石田未得との関わりが強い。

二十九歳で『俳諧洗濯物・洗濯砧』に句をのせ、

この後ほどなくして、

末得の後見で宗匠として立机した。

  • 延宝七年(1679)刊行の撰集『富士石』には、

    三百余人の作者による千八百余句が掲載、

    当時の調和門の繁栄をうかがうことが出来る。

  • しかし蕉門の勢力伸張にともなって、

    次第に俳壇における名声を失い、

  • 貞享四年(1687)頃からは、

    雑俳(前句付け)に活路を見出そうとした。

    ところが元禄末年には寄句が激減し、

    宝永初年以降、目立った活動も見られなくなる。

    正徳五年冬、『これまで草』を編みさしにして、

    かりそめの風邪がもとで没した。

     

    俳人ノート 千代尼 ちよに

     

    □ 伝説化された近世般大の女流俳人。

    □ 元禄十六年(1703)~安永四年(1775

    □ 加賀国松任の表具屋福噌屋の娘。

    □ 千代女、剃髪して素園。

    十二、三歳頃より俳諧を学ぶ。

  • 享保四年(1719)十七歳頃には、

    当地で女流俳人として名高く、

    時に北陸に来た支考の来訪を受け、師と仰ぐ。

  • 享保十一年乙由を訪ね、

    この頃にははや全国的名声を阿る。

  • 代表作「朝顔に」の句はともかく、

    「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さ哉」

    「渋かろうか知らねど柿の初ちぎり」

    「とんぼ釣り今日はどこまでいったやら」

    などは彼女に仮託されて広まった句、

    本来は別人の作。

    □ 美濃派の勢力拡大の風潮に加え、

    その才能と美貌と若さによってアイドル視され、

    広く庶民にいれられて、伝説化されたのである。

    □ 結婚伝説についても、十八歳~二十五歳頃迄の間、

    しかし諸説紛々で不明。 

     

     俳人ノート 成美 せいび

     

    □自称「俳諧独行の旅人」。

    □寛延二年(1749)一月十日~文化十三年(1816)十一月十九日。

    □江戸札差豪商の家督を十六歳で継ぎ、

    五代目井筒屋八郎右衛門を名乗る。

    □その二年後には通風を病んで、

    右足が不自由であったと言われる。

    □成美一族こぞって俳諧をよくし、

    成美も十五歳で『猪武者』に、

    八良治の名で入渠を果たす。

    □特に師事する者もなく、

    「俳諧独行の旅人」と自称していたが

    四時観の流れを継承。

    豪商らしく高尚な趣味として俳諧をたしなんでいた。

    □天明五年(1785)、几董を迎え、影響を強く受ける。

    □また『芭蕉翁絵詞伝』の刊行にも関わり、

    蕉風復古の活動を援助した。

    □天明七年、今日庵立砂を助け、

    後年その縁で一茶と出会う。

    一茶とは唱和する仲となり、

    「一茶句帖」からは、

    成美が一茶の経済的な

    庇護者であったことも伺える。

     

    俳人ノート 青蘿 せいら

     

    中興期、播磨国を中心に活躍。

    □元文五年(1740)~寛政三年(1791

    □生家松岡氏は江戸詰めの姫路藩士で、

    幼くして同じ家中の武沢氏へ養子に出された。

    □十三歳のときに、江戸の俳人玄武坊に入門したという。

    □宝暦九年(1759)、身持不慎の故で藩を追われ、

    松岡氏に復した。

    □諸国を流浪した末、明和四年(1767)には、

    播磨国加古川に庵を構え、

    庭の栗の木に因んで「栗の本」と号する。

    □しばしば近隣諸国を遊歴して、

    各地に門流を広げていった。

     特に連句にすぐれ、

    樗良(ちょら)や几董(きとう)

    ・蘭更(らんこう)など、

    中興期の俳人とも交流し、

    後に中興俳諧六家の一人に数えられた。

    □寛政二年には、高桑蘭更とともに、

    二条家から俳諧宗匠の免許を賜ったが、翌年没した。

    彼の没後、弟子の玉屑(ぎょくせつ)が栗の本二世となり、

    同時に二条家俳諧宗匠の地位をも継承した。 

     

    俳人ノート 蟬吟(せんぎん)

     

    □芭蕉の旧主人。

    □寛永一九年(1642)~寛文八年(1666

    □本名、藤堂良忠。

    □伊勢国藤堂藩伊賀付侍大将藤堂新七郎良精三男。

    兄の死によって嗣子となるが、二十五歳で若死した。

    俳諧を嗜み、

    当時貞門派俳人として知られていた北村季吟に師事。

    芭蕉は十代後半で藤堂新七郎家に出仕し、

    二歳年長の良恵に近侍して俳諧を学んだと伝えられる。

    □寛文四年の松江重頼編『小夜中山集』が初見で、

    芭蕉(当時の俳号は宗房)の二句と共に一句入集している。

    □また、翌寛文五年十一月には

    自身の発句に季吟の脇を得て、

    松永貞徳の十三回忌追善百韻を催している。

    □蝉吟の七十七日忌に際して父良精は、

    芭蕉に命じて高野山に位碑を納めに行かせている。

    湖春編の『続山の井』に二十九句人集するほか、

    『時世粧』『如意宝珠』『猿蓑』等に入集。






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最終更新日  2020年08月31日 16時39分30秒
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