代表作「朝顔に」の句はともかく、
「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さ哉」
「渋かろうか知らねど柿の初ちぎり」
「とんぼ釣り今日はどこまでいったやら」
などは彼女に仮託されて広まった句、
本来は別人の作。
□ 美濃派の勢力拡大の風潮に加え、
その才能と美貌と若さによってアイドル視され、
広く庶民にいれられて、伝説化されたのである。
□ 結婚伝説についても、十八歳~二十五歳頃迄の間、
しかし諸説紛々で不明。
俳人ノート 成美 せいび
□自称「俳諧独行の旅人」。
□寛延二年(1749)一月十日~文化十三年(1816)十一月十九日。
□江戸札差豪商の家督を十六歳で継ぎ、
五代目井筒屋八郎右衛門を名乗る。
□その二年後には通風を病んで、
右足が不自由であったと言われる。
□成美一族こぞって俳諧をよくし、
成美も十五歳で『猪武者』に、
八良治の名で入渠を果たす。
□特に師事する者もなく、
「俳諧独行の旅人」と自称していたが
四時観の流れを継承。
豪商らしく高尚な趣味として俳諧をたしなんでいた。
□天明五年(1785)、几董を迎え、影響を強く受ける。
□また『芭蕉翁絵詞伝』の刊行にも関わり、
蕉風復古の活動を援助した。
□天明七年、今日庵立砂を助け、
後年その縁で一茶と出会う。
一茶とは唱和する仲となり、
「一茶句帖」からは、
成美が一茶の経済的な
庇護者であったことも伺える。
俳人ノート 青蘿 せいら
中興期、播磨国を中心に活躍。
□元文五年(1740)~寛政三年(1791)
□生家松岡氏は江戸詰めの姫路藩士で、
幼くして同じ家中の武沢氏へ養子に出された。
□十三歳のときに、江戸の俳人玄武坊に入門したという。
□宝暦九年(1759)、身持不慎の故で藩を追われ、
松岡氏に復した。
□諸国を流浪した末、明和四年(1767)には、
播磨国加古川に庵を構え、
庭の栗の木に因んで「栗の本」と号する。
□しばしば近隣諸国を遊歴して、
各地に門流を広げていった。
特に連句にすぐれ、
樗良(ちょら)や几董(きとう)
・蘭更(らんこう)など、
中興期の俳人とも交流し、
後に中興俳諧六家の一人に数えられた。
□寛政二年には、高桑蘭更とともに、
二条家から俳諧宗匠の免許を賜ったが、翌年没した。
彼の没後、弟子の玉屑(ぎょくせつ)が栗の本二世となり、
同時に二条家俳諧宗匠の地位をも継承した。
俳人ノート 蟬吟(せんぎん)
□芭蕉の旧主人。
□寛永一九年(1642)~寛文八年(1666)
□本名、藤堂良忠。
□伊勢国藤堂藩伊賀付侍大将藤堂新七郎良精三男。
兄の死によって嗣子となるが、二十五歳で若死した。
俳諧を嗜み、
当時貞門派俳人として知られていた北村季吟に師事。
芭蕉は十代後半で藤堂新七郎家に出仕し、
二歳年長の良恵に近侍して俳諧を学んだと伝えられる。
□寛文四年の松江重頼編『小夜中山集』が初見で、
芭蕉(当時の俳号は宗房)の二句と共に一句入集している。
□また、翌寛文五年十一月には
自身の発句に季吟の脇を得て、
松永貞徳の十三回忌追善百韻を催している。
□蝉吟の七十七日忌に際して父良精は、
芭蕉に命じて高野山に位碑を納めに行かせている。
湖春編の『続山の井』に二十九句人集するほか、
『時世粧』『如意宝珠』『猿蓑』等に入集。