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2020年09月01日
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カテゴリ:俳人ノート

俳人ノート 乙二 おつじ

 

□化政期のみちのく俳人。

□宝暦六年(1756)~文致六年(1823

□岩間清雄。別号松窓(しょうそう)。

陸前白石の千手院の住職で権大僧都。

□俳諧は父麦羅(ばくら)に学び、後は独学。

□寛政四年(1792)冬、

享和三年(1803)秋と江戸に出、成美らと交わる。

□文化文致期、北海道に二度(三度説あり)渡り、

函館では斧の柄社を結び俳諧の指導に当たる。

当時の手記『斧の柄』には発句、連句、紀行

が収められているが、

なかでも連句にアイヌ語彙を多く記録

している点が注目される。

□初期の作品は蕪村系の俳書に現われ、

実際蕪村色が強い。

□没後の天保六年(1835)刊の

『乙二七部集』の中の『蕪村発句解』は、

蕪村句に引用される故事の

典拠探査が行われたものである。

晩年は技巧を排し、

「実事」「誠」を重視した句作を目指す。

東北の風土や実生活に根差した作品が多い。

 

俳人ノート 鬼貫 おにつら

 

□「まこと」の俳人。

□寛文元年(1861)~元文三年(1738

□歌人紀貫之に対し、自ら俳諧の貫之を以て称す。

□醸酒家の連なる伊丹では特に俳諧が盛んで、

鬼貫はその環境の中で育った。

□伊丹を訪れた松江重頼に入門したが、

□十六歳で西山宗因談林に移る。

延宝八年(1680)『誹道恵能録(えのうろく)』

を著して世上の俳諧を看破し、

深刻に道を究めようと大坂に出る。

□文・武・医の諸家を訪れ、

そこで「まこと」の悟りを開く。

□貞亨三年(1686)、

大名に就職のため江戸へ下るが、

その後筑後三池の立花種明に三十人扶持

として赴任。

□元禄二年(1689)、致仕、

□同五年には大和郡の本多下野守藤原忠平

に三十人扶持で仕える。

□元禄十六年、京の永昌坊に住む。

□宝永五年(1708)より越前大野の

土井甲斐守家に京住のまま出仕、

□享保三年(1743)には大坂に住み、句作を続けた。

 

俳人ノート 荷兮 かけい

 

□尾張蕉門の代表。

□享保元年(1716)没。六十九歳。

□山本氏。名は周知。通称武右衛門、また、太一(太市)。

□初号、加慶。別号、一柳軒・橿木堂・撫贅庵。

連歌師として、昌連と称した。

□俳歴は、貞門から出発し、二十五歳の時、

初号をもって一雪編『晴小袖』(寛文十二年刊)に入集。

□貞享元年(1684

『野ざらし紀行』の旅中の芭蕉に入門、

芭蕉七部集の初集『冬の日』(貞享元年刊)を編集し、

広く認められるに至った。

□その後も、『春の日』(貞享三年刊)、

『阿羅野』(元禄二年刊)を編して、

尾張蕉門筆頭の地位を確立する。

しかし、保守的で、古風を尊ぶ荷兮は、

閑寂・清新を追求する芭蕉の進む道に疑問、

反感を持つようになり、

「阿羅野後集』(元禄六年刊)では、

反抗的姿勢を露骨にした。

荷号自身の俳諧は、次第に低調となり、

正徳年中に連歌師に転向し、法橋となった。 

 

俳人ノート 去来 きょらい

 

□蕉門四哲の一人「西の俳諧奉行」

□慶安四年(1651)~宝永元年(1704

□氏は向井。通称、喜兵次・平次郎。

□長崎に生まれる。

□弓馬の故実を極め、

その秀才ぶりに筑前黒田侯からも声がかかったが、固持。

□二十四、五歳頃に武を捨て堂上家に仕えた。

□貞享元年(1684)には上洛した其角を介して、

蕉門に接する。

□元禄四年(1691)には、

京都嵯峨の「落柿舎」に師芭蕉が滞在し、

『嵯峨日記』がなる。

芭蕉の監督の元、凡兆と共に『猿蓑』を編んだのも、

その年の七月である。

その書は「俳諧の古今集」とも言われ、

蕉風俳諧の金字塔ともなった。

去来は、蕉風の真髄を素直に受け継ぎ、

許六は「猿蓑の撰を蒙りて不易流行の巷をわかち、

後猿蓑の新風に望みても終に幽玄の細みをわすれず」

と賛している。

□没後刊行の『去来抄』は蕉門俳論書として珍重されている。

 

俳人ノート 許六 きょろく

 

□蕉門正統を自任する唯我の人。

□明暦二年(1656)~正徳五年(1715

□本名は森川百仲、別号は五老井(ごろうせい)など。

□三百石取りの彦根藩士。

多能で槍剣・漢詩、特に絵画に優れ、

□俳諧は初め季吟流などに学んだが、

元禄二年(1689)頃から蕉門俳諧へ傾倒し、

同五年江戸深川で芭蕉と対面。

 その軽みの境地を評価され『白砂人集』

の相伝を受ける。

□一方、狩野安信門の絵画の力量は芭蕉に師と仰がれた。

□元禄七年、芭蕉の死後、蕉風の本質を蘭明せんと

盟友李由と『宇陀法師』等を共撰。

□元禄十・十一年には去来と(俳諧問答)、

□正徳四・五年には野波と(許野消息)

それぞれ書簡論争を行い、

血脈(けちみゃく)説

・取合せ論を中心とする俳論を展開する。

□また蕉門俳文集の嚆矢

『風俗文選』『歴代滑稽伝』纂編を手掛け、

蕉門正統は我一人とたかぶる性格ではあったが、

よくその遺志を全うした。

 

俳人ノート くの

 

□蕪村の娘。

□宝暦十一年(1761)頃~没年未詳。

□また、きぬ。あるいは、みを。

□明和三年(1766)九月と推定される

召波宛蕪村書簡では「嬰児」と称され、

同様の資料から生年が推測されている。

□明和年間から腕の痛む持病が起きている。

□安永二年(1773)一月十八日付馬南宛蕪村書簡には

「むすめ琴のけいこに困り申中候。

近年は画はかゝせ不申候」

とあり、画、また琴を習っていたことがわかる。

□同五年十二月に結婚。盛大な披露宴が行われた。

嫁ぎ先は三井の料理人で、

西洞院椹木町下ル柿屋伝兵衛との説もあるが未詳。

しかし翌年の五月には離縁となり、出戻っている。

□蕪村没後、漆屋源六の養女になり名を「みを」と変えたか。

□また、寛政七年(1795)秋の『あきの別れ』には、

甲田久能なる女性の句があり、

再婚して甲田氏に嫁した「くの」

を指すのかもしれないが、これも不詳。






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最終更新日  2020年09月01日 06時15分41秒
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