カテゴリ:俳人ノート
俳人ノート 乙二 おつじ
□化政期のみちのく俳人。 □宝暦六年(1756)~文致六年(1823) □岩間清雄。別号松窓(しょうそう)。 陸前白石の千手院の住職で権大僧都。 □俳諧は父麦羅(ばくら)に学び、後は独学。 □寛政四年(1792)冬、 享和三年(1803)秋と江戸に出、成美らと交わる。 □文化文致期、北海道に二度(三度説あり)渡り、 函館では斧の柄社を結び俳諧の指導に当たる。 当時の手記『斧の柄』には発句、連句、紀行 が収められているが、 なかでも連句にアイヌ語彙を多く記録 している点が注目される。 □初期の作品は蕪村系の俳書に現われ、 実際蕪村色が強い。 □没後の天保六年(1835)刊の 『乙二七部集』の中の『蕪村発句解』は、 蕪村句に引用される故事の 典拠探査が行われたものである。 晩年は技巧を排し、 「実事」「誠」を重視した句作を目指す。 東北の風土や実生活に根差した作品が多い。
俳人ノート 鬼貫 おにつら
□「まこと」の俳人。 □寛文元年(1861)~元文三年(1738) □歌人紀貫之に対し、自ら俳諧の貫之を以て称す。 □醸酒家の連なる伊丹では特に俳諧が盛んで、 鬼貫はその環境の中で育った。 □伊丹を訪れた松江重頼に入門したが、 □十六歳で西山宗因談林に移る。 延宝八年(1680)『誹道恵能録(えのうろく)』 を著して世上の俳諧を看破し、 深刻に道を究めようと大坂に出る。 □文・武・医の諸家を訪れ、 そこで「まこと」の悟りを開く。 □貞亨三年(1686)、 大名に就職のため江戸へ下るが、 その後筑後三池の立花種明に三十人扶持 として赴任。 □元禄二年(1689)、致仕、 □同五年には大和郡の本多下野守藤原忠平 に三十人扶持で仕える。 □元禄十六年、京の永昌坊に住む。 □宝永五年(1708)より越前大野の 土井甲斐守家に京住のまま出仕、 □享保三年(1743)には大坂に住み、句作を続けた。
俳人ノート 荷兮 かけい
□尾張蕉門の代表。 □享保元年(1716)没。六十九歳。 □山本氏。名は周知。通称武右衛門、また、太一(太市)。 □初号、加慶。別号、一柳軒・橿木堂・撫贅庵。 連歌師として、昌連と称した。 □俳歴は、貞門から出発し、二十五歳の時、 初号をもって一雪編『晴小袖』(寛文十二年刊)に入集。 □貞享元年(1684) 『野ざらし紀行』の旅中の芭蕉に入門、 芭蕉七部集の初集『冬の日』(貞享元年刊)を編集し、 広く認められるに至った。 □その後も、『春の日』(貞享三年刊)、 『阿羅野』(元禄二年刊)を編して、 尾張蕉門筆頭の地位を確立する。 しかし、保守的で、古風を尊ぶ荷兮は、 閑寂・清新を追求する芭蕉の進む道に疑問、 反感を持つようになり、 「阿羅野後集』(元禄六年刊)では、 反抗的姿勢を露骨にした。 荷号自身の俳諧は、次第に低調となり、 正徳年中に連歌師に転向し、法橋となった。
俳人ノート 去来 きょらい
□蕉門四哲の一人「西の俳諧奉行」 □慶安四年(1651)~宝永元年(1704) □氏は向井。通称、喜兵次・平次郎。 □長崎に生まれる。 □弓馬の故実を極め、 その秀才ぶりに筑前黒田侯からも声がかかったが、固持。 □二十四、五歳頃に武を捨て堂上家に仕えた。 □貞享元年(1684)には上洛した其角を介して、 蕉門に接する。 □元禄四年(1691)には、 京都嵯峨の「落柿舎」に師芭蕉が滞在し、 『嵯峨日記』がなる。 芭蕉の監督の元、凡兆と共に『猿蓑』を編んだのも、 その年の七月である。 その書は「俳諧の古今集」とも言われ、 蕉風俳諧の金字塔ともなった。 去来は、蕉風の真髄を素直に受け継ぎ、 許六は「猿蓑の撰を蒙りて不易流行の巷をわかち、 後猿蓑の新風に望みても終に幽玄の細みをわすれず」 と賛している。 □没後刊行の『去来抄』は蕉門俳論書として珍重されている。
俳人ノート 許六 きょろく
□蕉門正統を自任する唯我の人。 □明暦二年(1656)~正徳五年(1715) □本名は森川百仲、別号は五老井(ごろうせい)など。 □三百石取りの彦根藩士。 多能で槍剣・漢詩、特に絵画に優れ、 □俳諧は初め季吟流などに学んだが、 元禄二年(1689)頃から蕉門俳諧へ傾倒し、 同五年江戸深川で芭蕉と対面。 その軽みの境地を評価され『白砂人集』 の相伝を受ける。 □一方、狩野安信門の絵画の力量は芭蕉に師と仰がれた。 □元禄七年、芭蕉の死後、蕉風の本質を蘭明せんと 盟友李由と『宇陀法師』等を共撰。 □元禄十・十一年には去来と(俳諧問答)、 □正徳四・五年には野波と(許野消息) それぞれ書簡論争を行い、 血脈(けちみゃく)説 ・取合せ論を中心とする俳論を展開する。 □また蕉門俳文集の嚆矢 『風俗文選』『歴代滑稽伝』纂編を手掛け、 蕉門正統は我一人とたかぶる性格ではあったが、 よくその遺志を全うした。
俳人ノート くの
□蕪村の娘。 □宝暦十一年(1761)頃~没年未詳。 □また、きぬ。あるいは、みを。 □明和三年(1766)九月と推定される 召波宛蕪村書簡では「嬰児」と称され、 同様の資料から生年が推測されている。 □明和年間から腕の痛む持病が起きている。 □安永二年(1773)一月十八日付馬南宛蕪村書簡には 「むすめ琴のけいこに困り申中候。 近年は画はかゝせ不申候」 とあり、画、また琴を習っていたことがわかる。 □同五年十二月に結婚。盛大な披露宴が行われた。 嫁ぎ先は三井の料理人で、 西洞院椹木町下ル柿屋伝兵衛との説もあるが未詳。 しかし翌年の五月には離縁となり、出戻っている。 □蕪村没後、漆屋源六の養女になり名を「みを」と変えたか。 □また、寛政七年(1795)秋の『あきの別れ』には、 甲田久能なる女性の句があり、 再婚して甲田氏に嫁した「くの」 を指すのかもしれないが、これも不詳。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月01日 06時15分41秒
コメント(0) | コメントを書く
[俳人ノート] カテゴリの最新記事
|
|