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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年09月06日
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カテゴリ:著名人紹介

 石川啄木*その革新なるもの 

 

  『文芸春秋 デラックス』第一巻

  「万葉から啄木まで 日本の名歌の旅」

  歌人 その生と死

 この項著者 岩城之徳氏

昭和49年五月一日発行

   一部加筆 白州ふるさと文庫

 

石川啄木は夭折したが稀有の天才であった。彼の遺した歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』は、大正以後の苛烈な日本の歴史の中で灰色の青春を送った多くの人に愛唱され、その切実な青春の挫折感と社会の不条理に挑戦した鮮烈な詩精神は、無垢で傷つきやすい青年の魂に直接結びつくことで不朽の名声を獲得した。

啄木の全集が戦後だけでも河出書房、岩波書店、筑摩書房と、三たびも刊行されている事実は、この若き歌人のたぐいまれな業績と、半世紀にわたる啄木享受の盛況を示すものである。

 

 ■ 啄木の悲しき生涯

 

啄木は本名一。明治十九年の早春岩手県南岩手郡日戸村に生れ、幼年期を渋民村に過した。

啄木が生涯「ふるさと」と呼んで懐かしがったのは、いうまでもなくこの渋民村である。

明治三十一年啄木十三歳のとき、彼は合格者百二十八名中十番の好成績で岩手県盛岡尋常中学校に入学した。

しかしその後上級学年に進むにつれて文学と恋愛に熱中して学業を怠り、

明治三十五年の秋、あと半年で卒業という時期に中学校を退学し、文学をもって身を立てるという美名のもとに上京した。

しかしこの上京はけっきょく失敗に終り、翌年二月帰郷して病苦と敗残の身を故郷の禅房に養うので

ある。

 啄木は美しい魂とすぐれた才能の持主であったが、正規の学歴を身につけなかったことは、その生涯を決定する痛ましいできごとであった。学歴のないための下積みの人間としての悲惨な運命から逃れることは、啄木の才能をもってしても不可能だったからである。

 事実、盛岡中学校を退学してからの啄木の歩んだ道は容易なものではなかった。特に明治三十八年の春、父親の(いっ)(てい)が宗費滞納を理由に曹洞宗の本山より宝徳寺の住職を罷免された事件は、啄本の運命の転機となり、盛岡から渋民へ、さらに北海道へと流浪の半生がその幕を開くのである。

 

明治四十一年の春、啄木は北海道の生活に終止符をうって上京、創作生活にはいった。

正規の学歴のない文才の持主が社会的に恵まれた地位を獲得する唯一の方法は、東京に出て小説を書いて流行作家になることであった。

北海道時代の彼が異常なほどの熱心さで東京での創作生活にあこがれ、生活を捨て家族を残してまで上京したのも、その唯一のチャンスをみずからの手でつかもうとしたからにほかならない。

しかしその願いも努力もむなしく東京での創作生活は失敗に終った。

 明治四十二年の春、東京朝日新聞社に校正係として就職した啄木は、函館より家族を呼寄せ、本郷弓町の喜之床という床屋の二階に間借して失意の生活を送るうちに、その生活に根ざした三行書きの短歌は歌壇に新風を吹きこみ、また朝日新聞社社会部長・渋川柳次郎の厚意で、「朝日歌壇」の選者に抜擢されたが、啄木の目ざす作家としての栄光はついに得られず、下積みの人間としての運命は決定的となった。

 

しかし晩年の啄木は、

はたらけど

はたらけど猶わが生活楽にならざり

  ぢつと手を見る

 

という貧困と孤独にあえぎながらも、希望を失わず、重くのしかかってくる時代の現実と真剣に取組み、そこから未来の人間の歩む道について考えようとした。

 

 明治四十三年六月の大逆事件を契機として、幸徳秋水やロシアの思想家ピョートル・クロポトキンの著書に共鳴して社会主義思想に接近、未来のソシアリスティックな日本を思い描いたのも、そうした彼の思想的椎移によるものである。

東京時代に作られた歌集『一握の砂』『悲しき玩具』や、詩集『呼子と口笛』、評論「時代閉塞の現状」など、今日啄木文学を代表する作品は、そうした晩年の思想や生活の中から生れたもので、そこには不幸な運命とたたかいながらも最後まで文学への努力を傾け、みずからを正しくみつめようとした、啄木の青い火花のような人生が語られていた。

 

 明治四十五年四月十三日、啄木は東京市小石川区久堅町の借家で波乱に富む薄幸の生涯を終えた。病名は母と同じ肺結核、享年二十七歳である。

 

 ■痛ましい天才の最期

 

啄木が死んだとき遺品の中に一冊の洋横罫ノートに記入された金銭出納簿が残されていた。

これは明治四十四年九月十四日から翌年四月十四日に至るもので、晩年の啄木の経済生活が克明に記録

されている。

 この金銭出納簿によると当時の収入は東京朝日新聞社の俸給二十八円が唯一のもので、啄木は月が変ると待ちかねたように妻の節子を新聞社にやって、その月の俸給を一円だけ残し限度額の二十七円全部前借している。毎月一日の収入覧の「主人俸給前借 二十七円」とあるのがこれである。

 生活はかなりきりつめているが、それでも医薬費の増大や不時の支出、それに九円の家賃をまともに支払うと毎月十円から二十円の赤字で、啄木はこれを友人からの借金や質入れで補っているが、月を追うて困窮の度を増し金策に苦慮していることがわかる。

 たとえば明治四十五年二月など収入は朝日の前借二十七円だけ。これに対して支出合計は啄木と母親カツの医薬費七円九十一銭と家賃を含めて四十一円四十銭となり、十四円四十銭の赤字である。そのため啄木は妻を質屋へ四回も通わして七円四十銭を作り、古本や新聞を売却して一円六十七銭を工面している。

 

啄木の日記はこの月の二十日をもって終るが、その中で一家の窮状を次のように書いている。

 

そうしている間にも金はドンドンなくなった。

母の薬代や私の薬代が一口約四十銭弱の割合でかゝった。

質屋から出して仕立直さした(あわせ)と下着とは、

たった一晩家においただけでまた質屋へやられた。

その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢った。

医者は薬価の月未払を承諾してくれなかった。

 

この記事にある袷と下着とは金銭出納簿によると、二月十日に四円で入質され、妻の帯も十七日に一円で入質されている。

 それにしても天才をうたわれた啄本の最後の日記が、こうした切羽詰まった生活の記録で終っているのは、彼の文学や思想を愛する者にとってやりきれない気がするが、これが啄木の現実であり、死の直前における真の姿であったことを私どもは記憶する必要があろう。

しかし啄木はそうした悲境にあっても崩れることなく、

 

一体誰がかう僕をいぢめるのかな。

いくらいぢめたって

仲々降参なぞする僕ぢやないのに。

 

(土岐善麿宛書簡、明治四五年・一月二七日)

 

という気概を最後まで堅持し、啄木を追いつめる暗い時代の現実と、そうした現実を生起する奥の理法について鋭い批判の眼を向けていたのである。

 しかしこうした啄木の境遇に同情を寄せる人も少なくなく、この出納簿には佐藤真一、丸谷喜市、西村真次、森田草平、金田一京助らの友人が経済的援助をおこなっていることが記録されている。森田草平は啄木とそれほど親しい間柄ではなかったが、四十五年一月二十一日の夜、啄木から金策依頼の手紙を受取ると、夏目家へかけつけて漱石夫人に事情を話し、金を受取って啄木の家へ持参し、

ほかに工夫がなかったから夏目さんの奥さんへいって十円貰ってきた」

といって見舞いの征露丸とともに差出した。

 

金銭出納簿の一一月二十二日の収入欄に、

「森田氏ヨリ 十円」

 

とあるのがこれで、啄木は日記に

 

は全く恐縮した、

まだ夏目さんの奥さんには

お目にかかった事もないのである。

 

と書いて、草平や漱石の妻・鏡子の厚意に感謝している。

草平はこの日啄木とその母親の容態を憂慮して友人の江間(えま)(たかし)に頼み、下谷区入谷の医師柿本庄六の診察を手配しているが、こうした人びとの善意が非命に倒れた啄本のせめてもの救いであったことを、この金銭出納簿は物語っているのである。

 

 ■人間の痛切な悲しみを歌う

 東京時代の啄木は悲運の星の下に生れた自己の

運命を哀れみながらも、生きることの切なさと悲

しさを歌った多くの名歌を作った。

  

友がみなわれ上りえらく見ゆる口上

  花を買ひ来て

  妻としたしか

 

はその代表的な作品で、創作生活に敗れた啄本の境遇と心境をあますところなく伝えている。

「友がみなわれよりえらく見ゆる」というのは、志を得ない者の誰しもが経験する心境であるが、病的なほど自尊心の強い啄本にはいっそうこの気持が強かったのであろう。

 

啄木は中学五年生の明治三十五年十月二十七日、盛岡中学校を退学して上京するが、彼の同級生九十六名は翌年の春、第十七回卒業生として母校を巣立ち、その大部分が上級学校へ進学した。

 

その後七年、この一首の作られた明治四十三年の秋には学窓を出てそれぞれ社会の第一線で活躍していた。これら友人たちの活躍と栄進の報を聞くたびに、啄木の心中に複雑な感情が去来したことはいうまでもない。

この歌はそうしたやるせない気持を、「花を買ひ来て妻としたしか」家庭の団欒にまぎらす啄木のさびしい感情を巧みに披瀝した秀作で、自尊心の強い啄木には珍しいほど謙虚な作品である。

「花を買ひ栄て妻としたしむ」

のは、なかばあきらめてささやかな幸福によってこの憂いを慰めようとするのであるが、ただそれだけでなく、自分とともに悲運の道を歩んだ妻・節子に対するいたわりもこめられているとみるべきであろう。

  

わがこころ

  けふもひそかに泣かむとす

  友みな己が道をあゆめり

 

も、友が皆それぞれの道を歩んでいるのに、自分は北に南にと流浪し、志を得ないままに生活苦にさいなまれている。ふがいなくも悲しいわが境遇に今日もひそかに涙ぐむのである、という意味の歌で、志を得ない人間の痛切な悲しみを伝えている。

  

おそらくは生涯妻を

   むかへじと

  わらひし友よ

  今もめとらず

 

これは函館時代交遊のあった苜蓿(ばくしゅく)社の同人岩崎白鯨を詠めるもの。白鯨は本名正、啄木と同年齢の歌人で、十六歳で父に死別したため中学校を退学し函館郵便局の事務員となった。

 この一首は貧しさのため

「私のような不幸な人間は、おそらく生涯妻を迎えることはあるまい」

と淋しく自嘲した白鯨を歌ったものであるが、三行目の「今もめとらず」には、すぐれた才能をもちながらむなしく北国に埋もれる傷心の友を思う作者の切ない心情が感じられる。

 白鯨はあいつぐ不幸のため妻を迎えることもなく、大正三年九月五日函館で死んだ。病名は肺結核、啄木の死に遅れることわずか二年である。

 

 戦後のあるとき、現代の文学者のうち誰が後世に残るだろうという話題になったとき、それは斎藤茂吉だ、と経済学者の中山伊知郎氏は答えたという。古くは芥川龍之介から、近くは小泉信三まで、多くの人の称讃をあびた斎藤茂吉の魅力はどこにあるのだろう。それはもちろん誰でも歌人としての茂吉をみとめたのであるが、茂吉の短歌のどこに人をひきつける力があるのか、いろいろ複雑で、簡単にいいつくすことはできない。

 






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最終更新日  2020年09月06日 17時29分25秒
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