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2020年09月07日
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カテゴリ:著名人紹介

杉本茂十郎と三橋会所… 附 甲斐の豪商

 

  隅田三橋

 永代橋の落橋事件については既に述べたが、両国橋のようにすべて幕府の費用で、かけ替から修理まで一切やる御入用橋(御公儀橋)は別として、新大橋、永代橋、大川橋の二橋については、はじめは幕府も費用を出したがとうてい費用を後々まで継続して出しつづけることは不可能になって、町方持ちとしたが、大川橋のようにはしめから町方持ちで出発し、しかし修理費が大変で幕府に出費を歎願するといった例もあり、幕府もこれが悩みの種であった。 

 御入用橋(公金で修理かけ替する橋)は隅田川に架する橋とは限らず、日本橋・京橋・江戸橋といった昔からの重要な橋が市中の中心部に120余橋あった。これ等が総て御入用橋で、その費用は一切幕府が負担したから莫大な金額であった。その外に常盤橋、神田橋、浅草橋など城濠に架けた城門の橋も幕府の作事奉行の担当で修理するから御入用橋である。江戸に於いてはこのように幕府の費用負担をする橋が多数あり、これらの橋のかけ替や修理費が、どんなに幕府の財政を苦しめたかがわかろう。

 享保になって、とても隅田川に架する橋の維持は金がかかって大変だというので、まず少しでも財政負担を軽くするためにというので、享保4年(1719)には永代橋を、延享元年(1744)には新大橋を廃止しようとした。これを聞いた両岸近くの町々の人々の驚きは大変なもので、何とか永続してほしいと歎願が相ついだ。

 幕府当事者も、そこで橋は残し、町方に維持管理を任せ、橋銭を徴収することを許可して、それで橋を維持することにした。しかし、時代がたつにつれて、町方でもその維持管理に苦しみ、幕府に頼って立て替工事をして貰うより手段がなくなって来た。橋銭などで到底維持出来るものでなく、いたんだまま修理も思うに任せず、放置されたままという状態が多くなっていった。前述した文化4年(1807)富岡八幡の祭礼で、群集の殺到した重量に耐えかねて永代橋の一部がおちて、多数の死者を出したのも、結果からみれば、費用の捻出に苦しんで一時のばしに修理をのばしていたためである。 大川橋は明和9年(1772)の大火で、浅草辺の住民が逃げるのに苦労したことから、浅草から本所側へ橋を架けることを願い出た者があったため、安永2年(1744)これを許し、10月架橋が竣工、橋銭をとって維持することになった(一説に架橋の出願は、明和9年の大火より3年も前の明和6年ともいう)。この橋も町方だけではとうてい維持することは困難で、後には何とか幕府に出費して貰って、辛うじて維持してゆく状態であった。これが後の吾妻橋である。  

 大川橋は20年から30年位はもったらしいが、その年限がくると何としてもかけ替をしなければならなかったらしい。いたみもはげしくなるまで放置できない。修理が必要である。隅田川に架する橋の内両国橋を除いた他の三橋の維持費は、幕府としては全く頭痛の種だった。町方持ちとはしてみたものの、橋銭など修理費としても雀の涙で、結局幕府が面倒をみてやらねばならない。永代橋事件が示すようにこわれたままで放っておくことは出来ない。その費用の捻出には悩みつづけねばならなかった。

 こうした時、永代橋落橋事件に注目、この三橋維持を費用の面から何とかして、幕府当局の「覚え目出たく」なろうと暗躍したのが、日本橋万町の定飛脚問屋大坂屋茂兵衛の養子となって、その業をついだ杉本茂十郎であった。杉本茂十郎が十組問屋を舞台にして、どんなプランをたてて、どのような手段で、その実現成功へと活躍したかを見ていこう。

 

  杉本茂十郎の活躍

 定飛脚問屋というのは、江戸の郵便屋である。初めは官的なものに限られ、江戸時代町方では、大坂城定番の人々が江戸の家族に通信するため、元和元年(1615)各宿場の役人と相談の上、人馬を供給して毎月三度江戸に往復したのを三度飛脚と呼んだ。

 それが明暦2年の大火後、寛文2年(1663〉になって、江戸と京大坂三都間の飛脚業を開業、江戸は七軒、京都二軒、大坂四軒の定飛脚問屋が活躍をはじめ、東海道が大体六日かかったため、

「定六」と一般に呼ばれたという。寛文11年(1671)には金銀貨の逓送も行われ、寛保元年(1744)には仲間組織も作り、当時の通信機関としては重要なものになった。

 杉本茂十郎は甲州の人、農家の出で、定飛脚間屋大坂屋茂兵衛の養子になるまでのことはよく判明しない。一説には江戸に出て、町年寄の樽与左衛門に伝をうまく求めて取り入り、よく働き、その才覚を見込まれて、大坂屋茂兵衛の養子になったという。

 定飛脚問屋の家業をついでからは、江戸の商業界で大いに活躍するチャンスに恵まれてのびていった。

 それは江戸で十組問屋と砂糖問屋の紛争がおきた時、杉本茂十郎は町年寄樽の勢力をバックに調停役としてのり出、「三方和解」という解決法をとって、大いに江戸の商業界に名声を博した。

 この事件は、廻船問屋と船の問屋がからんでいた。

 当時大坂江戸間の物資輸送には、菱垣廻船と樽廻船の二つの廻船系統があった。菱垣廻船が開始されたという元和初年からしばらくは、菱垣廻船の方は実に順調にのびていって、圧倒的に強かった。菱垣廻船という名は、舷の垣に菱形に結った竹を思いた所から名付けられたという。後積荷の問題から、酒の輸送をするのを主たる目的とした樽廻船が別に起り、両廻船とも多数の船を備えて、この航路の輸送に従事した。元禄7年(1693)大坂屋伊兵衛が菱垣廻船を支配下におく十組間屋仲間を組織し、大坂にも江戸買次問屋(後の二十四組問屋)仲間が結成され、十組問屋の貨物はすべて菱垣廻船によって輸送が行われた。酒類の輸送に専ら当っていた樽廻船の方も、十組以外の問屋の荷物を酒荷の下積として輸送していた。この両者が次第に競争の形をとるようになると、樽廻船の方は新造船が多く、速力が早く、船賃も安いため、十組問屋のうちにも、内緒でこれを利用する者が出て、享保15年(1730)には分れて新組を組織し、樽廻船を利用、従前からの菱垣廻船利用組と対立するようになった。しかし「新装快速」といわれた樽廻船には到底かなわず、菱垣廻船の持ち船は享保8年(1723)には百六十艘もあったのに、十組間屋組合の方が船の修理や新造のための金を出さないこともあって、文化5年(1807)には僅かに38艘になってしまい、それも老朽船が就航しているに過ぎない有様だった(東京都「江戸の発達」)。

 

杉本茂十郎が丁度こうした時十組問屋と砂糖問屋の調停にのり出したのである。

 

 砂糖問屋は田沼時代以降特に樽廻船を利用する者が増加し、17軒ほどといわれるが、砂糖問屋旧来からの薬種問屋から離れて、菱垣廻船によらず、この樽廻船を利用して江戸に荷を送り、十組問屋の統制を乱すに至った。

 一方十組問屋のうちの薬種問屋としては、細々ながらも、十組の規則を守り菱垣廻船積みで江戸に砂糖を送っていたため、菱垣廻船側に資金を出して、菱垣廻船側の船数を増加し、その廻船の輸送力を旧の如く盛んにしようと計画、そのため砂糖問屋と十組問屋の間に紛争がおきた。

 これをよきチャンスと調停に立ったのが杉本茂十郎だった。

 彼はそこで本町・大伝馬町の両薬種問屋50軒に対し、そのうち砂糖を専ら取扱う16軒の問屋と、別に砂糖のみ専業のもの一軒の合計17軒と、薬種間屋のうちの8軒、合計25軒を砂糖問屋仲間と定め、残りの薬種問屋に属する27軒に対して、砂糖問屋の営業の方は自発的に休業して貰い、五十二軒のうち二十五軒だけの砂糖問屋は文化五年(1808)千両の冥加金を出すことを条件に、問屋株を認めて其うことになり、うまく双方をとりまとめ、万事解決するに至った。

 杉本茂十郎が、この十組と砂糖問屋の調停を機会に、業界の信任を得、十組問屋仲間の事を任され、ついにその頭取になった。

 そこで文化5年(1808)菱垣廻船の振興にのり出し、新しく船をつくり、38艘の老朽船ではどうにもならん、百艘の船を菱垣廻船として持ちたいとして、その手段として、まず町年寄の樽屋を動かし、三井家をくどいて後援して貰う約束をとりつけ、遂に80艘の新造船建設を翌文化6年(1809)に達成したといわれている。これは彼が十組の弱体化に目をつけ、菱垣廻船のおとろえたのは、十組問屋が修理や新造船建造に金を出さないために、十組が金さえ出せば菱垣廻船の回復は可能だと見て、菱垣廻船が数も増え、新しい船になれば、江戸にくる物資は豊富になり、物価もさがること必定と、町年寄の樽をたのみ、十組問屋を説いてついに目的達成するに至ったので、パックに三井があったことも大きかったという。

 更に彼に運が向いたことは、この時菱垣廻船の船頭や水主たちも、航海ごとに彼等が得る金の中から、廻船新造のための出金を申し出た。これを喜んだ杉本は、この金を利用して幕府当局を喜ばせる事業をしようと考えた。当面幕府が困惑しているのは御公儀橋以外の隅田川に架かる、新大橋・永代僑・大川橋の三行の改架、修理維持のための費用の捻出である。幕府が当惑しているのなら、この金を積立てて、それに使用しようと考え、自分の方の十組問屋組合がその費用を負担することを申し出た。これは茂十郎が、幕府にとり入って雄飛しようと考えた手はじめである。

 

  茂十郎と三橋会所

 彼が、まず持出したのは、「三橋会所」の設置であった。そのために積立てを行うことを申し出た。こうしたことから、幕府も一応条件はつけたものの、橋の修理維持の費用が助かるため、心よくこれを許し、彼を才覚ある人間として認めたようであった。彼は表向き幕府を喜ばせ、当局に恩を売った形をとりながら、更にこれを利用、大きな彼の野心の達成に手を打った。それは、この橋の改架、修理、維持のための「三橋会所」の設立だった。

 菱垣廻船の船頭や水主たちの出金を積んでおいて、将来、永代橋、新大橋、大川橋の三橋のうち、改架を必要とした時にはこの金を使い、また積んだ金の利子は橋の修理推持に使う。そのためには事務を処理する会所、三橋会所の設置が必要であることを申し出た。杉本茂十郎はこの会所を足場にして、仲間の金融機関にしようとする考えであったという。

 幕府がこれを許可すると、彼は更に十組問屋仲間に働きかけ、冥加金を幕府に上納することを申し出た。幕府もこれを「殊勝なり」として受入れることにした。これはもちろん彼の何かこれによって特権を得ようとする工作だった。文化6年(1809)には18組の問屋仲間の人々が賛同して冥加金を出すに至り、七年から次第に数を増し、冥加金が1万2OO両に達したという。茂十郎はこの1万2OO両を基にして、毎年1万2OO両を献金上納するから、冥加金を出したものに問屋の株を認めてくれるよう、公認を願い出、冥加金上納者に株を認める証拠として鑑札の下付を願い出、これが許可されることになった。十組問屋の株数は1995株で、65組に分け、菱垣廻船積仲間と称して、何とか他を排除して独占という形に持っていこうとした。

 茂十郎の工作運動は成功を見て、文化10年(1813)には株数をこれだけに限定、以後新規加入を認めないということになった。これは茂十郎の大成功というべき事で、「独占」という形の上にあぐらをかいていられることになった訳である。

 どうも、これは町年寄の樽が一枚加わっていて、茂十郎はしっかり樽をつかみ、食いこみ、樽を何かにつけて「うしろだて」として、いろいろ工作していた事は否定できないようである。幕府も、株数限定、新規加入を認めずということに神経を使ったのか、町年寄の樽に命じて、充分これを管理するように命じている。茂十郎が樽をかついで、何かやるに好都合な「御膳だて」がうまく出来上った。 そこで茂十郎は樽を通して、年額1万2OO両の冥加金を、自分の設立した「三橋会所」の運転資金として借りることにも成功、この金を土台にして、いろいろのプランを建てて事業を行う事を計画、まず貧乏旗本などの貰うサラリーの米と町方の売り米としての米との米価の調節といったことを理由に、日本橋伊勢町に米会所の設立を願い出これもうまく働きかけて許可されるに至った。

文字通り行く所可ならざるなしといった工合で、杉本茂十郎は江戸の商業界になくてならない人物となっていった。こうしたことから幕府も彼の努力を賞して町方御用達に任命、飛ぶ鳥をおとす勢いであった。

 しかし、彼が余りにどんどん幕府の「為になる」計画をたて、その度に許可となるといった状態は、敵をつくらずにはいなかった。僅かのうちにとんとん拍子にのし上った彼に対し、事あらばと彼に目をそそぐ人々も多くなっていった。そのうち、彼が三僑会所の金、毎年1万2OO両という問屋や船頭・水主たちの出す金を借りて、自分の金かのように、いろいろに費うことに批判が出て、三橋会所の資金運用にはどうも不正があるという噂がたち、彼のやり方に対し「三橋怪所」と呼ぶ人もあり、町年寄の樽の保護も及ばず、遂に種々の取調べが行われて、勝手に会所の金を私的に利用したということで遂に咎をうけ、茂十郎は失脚するの止むなきに至った。余りに何でも幕府の当事者を動かしては許可をとり「怪物」といわれた彼も、憎まれ失脚を望む人々によって、引きずり降されてしまった。

 文政2年(1819)六月三橋会所はついに廃止された。25日杉本茂十郎の町奉行付用達と十組問屋頭取を罷めさせ、同時に米会所も廃止し、永代橋・新大橋・大川橋の請負をやめさせ、三橋会所をも解散させるに至った。

 理由は明確ではないが『重宝録』によると、十組問屋よりの冥加金1万2OO両を五カ年年延を願い「十組の組々へ割戻すべきところを、三橋会所の借金が嵩み、返済に差支えるとして、三橋会所の方へ廻し、十組へ割戻さず、不正な取扱いをし、室町の十組拝領屋敷の地代金を行事へも組々へも割戻すことなく、会所の金の千々の支払い、など行事達の取計に任せっきりで、頭取としての役目を果たしてない。特別に「町奉行付御用達十組頭取放」だけですましてやるという申し渡しが彼に下ったという。伊勢町米会所についても、6月25日に限月売買をやめさせ「古米会所ならびに延売買とも早々相止、右場所取払」、という命令が出た。その外三橋会所もやめさせ、これは、「以来町年寄共取扱」とし、毎年修復諸入用共、冥加金1万2OO両のうちで、今後賄なってゆくようにと令して、十組に対しては一万二OO両の冥加金はすべて町年寄三人の取扱いとし、毎年11月に必ず町年寄役所へ納入するようにと命令、茂十郎への下金の返納残金一万両は十組全体で引請けて、是迄の通り利金を上納するようにと命じ、また水油問屋には、大坂より海上積出しの水油に、30日・60日の延売買取引を1年千両冥加金上納ということで許可していたが、冥加金上納をやめ、延売買の立会いを直ちに止める様に命じて、これで一件落着に及んだ。

 

  日本橋の怪物などと渾名された杉本茂十郎が華々しい経済の舞台で活躍したのはこれまでで、あとは全く鳴かず飛ばずで、一応幕をとじたといえる。

 しかし、杉本茂十郎のやった事業、どう考えてもそんなに幕府側に打撃を与えたとは思えない。立派なものである。

 幕藩体制下、彼のような飛び離れたすご腕の事業家が、喜ばれなかったことは当然で、多くの敵をつくり、そのためにほうむり去られたというべきかも知れない。

 

  杉本茂十郎  『江戸時代おもしろ人物百科』

 

生没年不詳。

甲斐八代郡夏目原村の百姓次左衛門の子。

 17、8歳のころまで農業に携わったが、江戸に出稼ぎに出て、寛政10年(1798)、万町の定飛脚問屋大阪屋茂兵衛の養子となり、家業をつぐ。

 才人で弁舌にすぐれた覇気があり、定飛脚問屋仲間を牛耳った。文化5年(1808)江戸の十組問屋仲間に呼びかけ、隅田川の永代橋・新大橋・大川橋の改修修理を請け負う三橋会所を設立し、十組問屋の頭取となり、また幕府の町方御用達となるなど政商として活躍した。

 文化10年(1813)には菱垣廻船問屋中間という独占団体を結成し、その頭取となり、江戸の流通界に権威を持った。

 しかしその横暴の所業が仲間から排撃され、上納金の不正を咎められ、文政2年(1818)失脚して、失意のうちに没した。

 

杉本茂十郎 『山梨県地名辞典』

 江戸商人として活躍した杉本茂十郎は寛政10年(1798)に飛脚問屋大阪屋茂兵衛の養子になり、文化期には江戸町年寄次席、三橋会所会頭を勤め十組問屋再建などで江戸経済を支配したが、幕府の米価調製で多額の赤字を出し失脚した。

 

甲州商人   (『平松春哉家文書』)『歴史公論8』「甲州商人」村上直氏著 

 (前文略)甲州出身の商人のなかには、生国甲斐にとどまらず、他国に出て各地で活躍した者が多くいた。こうした気風や伝統はすでに武田信玄や大久保長安のなかにみることができるが、江戸時代になるといっそう顕著になってくる。やがて幕末・維新期を迎えると横浜開港をめぐって大きな動きとなっていくが、明治以降に現われる甲州財閥はこのような商人のなかからもちろん生まれていくのである。

 江戸時代に相模国高座郡の相模野台地の東北部に上矢部新田があった(現神奈川県相模原市)。現在の国鉄横浜線の矢部駅の付近である。かつての土地は高燥で地味もよくなく、水利の便も悪く、農耕や居住にあまり適さない土地柄であった。この上矢部新田を開発したのは、寛文末から延宝期にかけて、江戸の商人相模屋助右衛門という人物である。したがって、上矢部新田は町人請負新田である。この助右衛門について、『相模原市史』第二巻によると土地の古老たちはつぎのようなことを云い伝えている。

 助右衛門は甲州の出身であり、江戸に出て成功して豪商になったという。

 人格識見ともにすぐれており、新田開発にはみずから陣羽織を着て先頭に立って、農民たちを指揮したという。やがて、開発が終わり江戸に戻るにあたっては、〃立つ鳥跡を濁さず〃との例のように、新田はすべて開発した小作農にただ同様の安値で譲り、立ち去ったといわれている。

 この助右衛門はおそらく郡内地方の出身と思われる。現在の相模原市の北部の旧家には武田氏の旧臣が多くいたことから、それが縁で開発に打ち込むことになったと考えられる。しかし生産力の低い大地を何故に開発したのかは疑問が残る。

これはむしろ商業上の必要から、宿場を設けるための開発ではなかったかとも思われる。それは助右衛門が江戸に住みながら「相模屋」の屋号を用いていることでよくわかる。つまり相模国の沿岸の塩魚や干鰯甲斐の郡内地方に運ぶため中継地を設けようとしたからではなかろうか。甲州出身の商人、助右衛門が、相模国を対象に商売をもくろんでいることは興味深い。もし助右衛門が生国甲斐と江戸と相模を結ぶことを考えていたとしたら、いかにも甲州出身の商人らしい、きわめてスケールの大きい発想ではなかろうか。

 

  杉本茂十郎

 江戸時代後期、天下の大都市江戸を活躍の場としておおいに手腕をふるった甲州出身の大商人に杉本茂十郎がいる。文化年間に江戸や大坂の町人で茂十郎の名を知らないものは、まずいなかったといわれるから、彼の商才と敏腕は全国的に鳴りひびいていたのである。

杉本茂十郎は甲斐国八代郡夏目原村(山梨県東八代郡御坂町)の百姓次左衛門の末子に生まれている。八、九歳のころ江戸に出て、やがて定飛脚問屋の大坂屋茂兵衛の養子となって家業を継ぐことになった。

茂十郎は破産寸前であった大坂屋の立て直しに手腕を発揮し、さらに江戸十組問屋に発言権を強めることによって、その再建にも乗り出した。

 文化6年(1809)になると菱垣廻船の再建や問屋仲間の扶助をするため、江戸の下町を流れる隅田川の永代橋・新大橋・大川橋の架け替えや修復工事を引き受ける三橋会所を設けて、その頭取になっている。そして同10年(1813)になると十組問屋を強力な独占団体にしていくために菱垣廻船積問屋仲間に再編成した。また江戸の町年寄次席・町方御用達として、町の実力者である町年寄樽屋与左衛門と手を結んで公金の貸し付けをおこない、問屋からの冥加金・御用金の取り立てに辣腕をふるった。

 

 こうして杉本茂十郎の名は江戸の財界を風靡し、町年寄をはるかに上回る実権を握ったといわれている。しかし、やがて全盛をきわめた茂十郎の身辺にも不幸がおとずれることになった。それは三橋会所の資金で伊勢町米立会所を設立し、これによって幕府の米価政策に協力したが、結果的にはかえって大穴をあけて仲間商人からおおいに怨みを買うことになったのである。

 そして文政2年(1819)に、三橋会所と伊勢町米立会所は、幕府によって廃止され、茂十郎は追放されることになったのである。茂十郎の方法は、幕府側の江戸市場を、江戸商人の資本を利用しながら掌握しようとするものである。しかし、幕府へ協力しながら追放の運命となった理由がはっきりしない。一説には信任されていた町奉行が代わったためともいわれる。茂十郎の失脚は、米価に関する経済的変動のためだけではなく、政治的な変化によるものであったというみかたもある。       

 杉本茂十郎の最後はともかくとして、甲州の一農家に生まれ、やがて、わが国最大の政治都市である江戸の財界を一時とはいえ、掌握したというのは痛快なことであり、甲州出身の商人の面目躍如たるものがあるといえるのである。

 

甲州財閥の勃興

 甲斐国は東山道養蚕地帯に属している。この養蚕地帯は幕末の開港によって、急激な変貌をとげていった。幕末維新期の甲府盆地は、おおまかにみて東部は養蚕地帯(東山梨・東八代郡)、中西部は綿作地帯(中巨摩・南巨摩郡北部)、北西部は米作地帯(北巨摩郡)と三つの経済的性格の果なる地域に分けられ、これに甲斐絹や郡内織物の東部の地域が接続している。

 安政6年(1859)の日米通商条約の締結にはじまる横浜の開港は、甲州商人に大きな影響を与えることになった。それは甲斐が横浜に割合に近いということもひとつの理由であるが、なんといっても貿易の中心が、外国商人の需要が多かった生糸や蚕種にあったことが、投機的冒険的な商人たちの動きをいっそう活発化していった。甲斐の山を越えて生糸を運ぶ甲州商人たちは、新しい時代への移り変わりを感じながら、草木がなびくように横浜へと向かったのである。

 ところで明治20年代末になると甲州財閥の名が浮かび上がってくる。これは甲州(山梨県)出身の一群の事業家を総称したものであり、三井・三菱・住友財閥などとはちがい、系統や系列はまったくない。甲斐はまさに一国天領であり、藩主のような中心的存在がなかったために、政治上の藩閥もつくられず、型破りの野武士のような経済的集団がつくりあげられていった。こうした郷党意識で結ばれた甲州財閥は、やがて明治から昭和にかけて財界で一大勢力を占めるような実業家を輩出した。その代表的な人物には若尾逸平や雨宮敬次郎、根津嘉一郎らがあげられる。






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最終更新日  2020年09月07日 12時36分24秒
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