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2020年09月07日
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カテゴリ:著名人紹介

甲州商人 篠原忠右衛門

 

 さて、この甲州財閥の芽生えとなったのは、もちろん、天領甲斐における幕末の甲州商人であったといってよい。ところで横浜の開港後、はじめて生糸を外国人に売り込んだのは篠原忠右衛門であった。

そのため忠右衛門を生糸貿易の先駆者ともよんでいる。彼は甲斐国八代郡東油川村(石和町)の持高三四石の豪農の家に生まれた。少年時代に江戸に出て金座に勤めたが、帰村後は名主、一郡中総代となり地元の産業の振興にも活躍した。

安政6年(1859)の横浜開港のときは、五十歳であったが、いちはやく隣の広瀬村の川手五郎左衛門といっしょに横浜に出店をだすことを願い出ている。はじめ共同出資による「甲州産物会所」を計画したが、実際は横浜本町一丁目に間口一五間の店を「甲州屋」の名で開店することになった。そこでは甲州産物一式、海草・乾物・生糸・呉服・大物・茶・菓子・俵物などを取扱っている。しかし当初の経営はきわめて苦しかった。

 やがて文久2年(1862)になると、甲州屋の運命は急に好転した。それは生糸輸出の飛躍的な増大にともなって甲州屋が甲斐の生糸を横浜へ出荷する中心的な位置を占めることになったからである。こうして生糸の直仕入によって投機商としての本領を発揮し売込商人としておおいに活躍することになったのである。そして翌3年(1863)には、南北戦争が勃発し、イギリスの綿工業はアメリカ合衆国からの原綿の減少に悩むようになる。そこで日本の繰綿を大量に買い求めるようになり、甲州屋はこの繰綿による莫大な利益を得ることになったのである。さらに蚕種が新たに取引きの対象になると、甲州屋はいよいよ最盛期を迎えることになり、甲州屋の手代は蚕種の購入のため、甲斐のほか、上野・相模・武蔵から信濃・伊豆・駿河までかけ廻らねばならなかったほどである。この時期には甲州屋は経営規模を拡大し盛況をきわめたが、やがて明治の新政を迎えると事態は一変することになった。

 すなわち明治3年(1870)普仏戦争が勃発し、フランスが敗北すると蚕種のもっとも主要な市場を失うことになり、蚕種プームは崩壊した。そのため取り引きを蚕種に集中していた甲州屋は大打撃をうけることになったのである。その後、砂糖の取り引きや洋服屋などもはじめたが、明治6年(1873)には、ついに負債のため横浜の地所・家作を売払い、横浜商人の列から去っていったのである。しかしながら、このように開港にともない、忠右衛門によって開かれた甲州から横浜への道は、のちに甲州財閥がたどる甲州-横浜-東京への重要な道筋になったのである。

 

  甲州商人 若尾逸平 

 

 忠右衛門や川千五郎左衛門につづいて横浜の町に現われたのは若尾逸平である。逸平は文政3年(1820)に甲斐国巨摩郡在家塚村(白根町)に生まれた。生家は代々名主を勤め、郡中総代にも選ばれた。しかし逸平が生まれたころは家運が傾き、屈折した行商の生活がつづいたのである。横浜の開港当時には横浜弁天通りの芝屋清五郎の店を泊り宿にしたが、やがて忠右衛門の甲州屋にも身を寄せている。逸平の生糸の売込みはあた

ったが、巨利を得たひとつに甲州の水晶の買い占めがあった。そのため彼は〃水晶大尺〃ともよばれている。文久2年(1862)ごろ、逸平は生糸の品質改良を試みて、のちに若尾機械とよばれた製糸機械を発明している。これは甲州のマニュファクチュアのはじめである。

 このように、逸平ははじめ名もなき一人の甲州商人であったが、幕末維新の変革期の波にのって名士にのし上がり、横浜正金銀行取締役、若尾貯蓄銀行を創立、さらに東京馬車鉄道会社や東京電燈会社を勢力下におき、若尾財閥を形成した。逸平の商売の根底には、世界情勢から日本の前途を見透す、鋭敏なひらめきがあった。彼はのちに初代甲府市長や貴族議員にもなっており、県下一の大地主でもあった。なお、このころ、問屋制と糸の買付けによって生米商人として台頭したのは風間伊七や矢島栄助、それに雨宮敬次郎たちであった。

 

 甲州商人 雨宮敬次郎

 

 敬次郎は弘化2年(1846)に山梨郡牛奥村(塩山市)の名主総右衛門の次男に生まれた。生家は手広く農業を営んでいたが、成長してから行商をおこない、近くの村々から江戸や信濃・武蔵・駿河・遠江へと廻っていった。敬次郎の行商時代は7、8年つづいたが、これに見切りをつけ、横浜へ移住を決めたのは明治3年で、26歳のときであった。のちに軽井沢開拓、武相鉄道線開通、東京市街鉄道敷設、そのほか鉄道・電力の発展に注目すべき足跡を残している。

 

 甲州商人 小野金六

 

 甲州財閥の御三家といわれたのは、若尾、雨宮とそれに小野金六である。金六も傑物であった。嘉永5年(1852)巨摩郡河原部村(韮崎市)の名主で酒造業を営む富屋の次男として生まれた。20代で土地の酒造組合の取締役となったが、明治6年、22歳のとき、せまい甲州にあきたらず、功名心を抱いて東京へ出たのである。金六に運がむいてきたのは、深川で甲州出身の市川市右衛門の米倉主任になってからである。小野は若尾や雨宮とちがい、あくまでも堅実経営を建て前とし、富士製紙、富士身延鉄道、富士五湖開発に大きな事績を残している。 

 また、甲州商人のなかには、甲斐国山梨郡松本村(石和町)の出身の三枝与三郎のように、維新のころ、イギリス公使館の書記官ア-ネスト・サトウのボ-イを勤め、公使のパ-クスにも可愛がられ、辞めるときには支援をうけ、国際的感覚を身につけ外国人相手の商売をおこない、有数な資産家となって東京銀座で三枝商会を経営した者もいた。与三郎は赤毛とピロードの肩掛けで大当りして資産をなし、はじめてピ-ルなどを販売し有名になった。

 山国甲斐から現われた甲州商人には、江戸時代から生国甲斐を出て一旗揚げて名をなし、財力をたくわえ、故郷へ錦を飾った者も少なくない。しかし、きびしい自然条件のなかから他国におもむき産をなすのは容易なごとではない。甲州商人の多くは、後ろ楯もれば地盤もない、徹頭徹尾自力で上っていったところに大きな特色がある。こうした天領甲斐の風土と伝統はすでに武田信玄や大久保長安のなかにもみることができるのである。

 

 

 参考資料……塚原美村『行商入の生活』 

         ……小林剛『甲州財閥』 

         ……石井孝『甲州屋文書』 

         ……伊東弥之助『杉本茂十郎の研究』他参照。

                   村上直 (むらかみ・ただし=法政大学教授)






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最終更新日  2021年04月10日 18時09分45秒
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