2299913 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020年09月07日
XML
カテゴリ:著名人紹介

 斎藤茂吉*その剛毅なるもの 満々たる茂吉の自信

 

『文芸春秋 デラックス』第一巻

  「万葉から啄木まで 日本の名歌の旅」

   歌人 その生と死

 この項著者 佐藤佐太郎氏

昭和49年五月一日発行

   一部加筆 白州ふるさと文庫

 

 

昭和二十八年二月、数え年七十二歳(満七十歳)で、東京都新宿区大京町の自宅に没してから二十年経つが、そのあいだに茂𠮷を主題とした本がたくさん出ている。生前から茂𠮷に関する本はいくつかあるし、死後ますます多くなったが、茂𠮷はまだ言い尽くされてはいない。

 茂𠮷に自選歌集『朝の螢』がある。

第一歌集『赤光』から百首、第二歌集『あらたま』から二百五十余首を選んだものだが、その巻末記で茂吉は、「かくの如く約六年間の歌を私はこの選集に収めたに過ぎないけれども、おほよそ私の歌風の特徴を窺うことが出来るとおもう。

私か長崎に転任した大正七年以後、それから私が横浜から船出した大正十年以後、日本の歌壇はどしどし進歩したような気がする。これを思うごとに私は、一種のうらさびしさを憶えるけれども、大正六年に、運拙くして私が死んでしまつたとおもえば実はなんでもない。といっている。文章の語気には茂𠮷自身の満々たる自信がのぞいている。しかし自信は単なる自負ではない。

『赤光』と『あらたま』と初期の二歌集だけによって茂古が伝えられるとしても、茂𠮷は近代の傑出した大歌人として評価されるだろう。芥川が讃美したのも、その他たくさんの人に持て囃されたのも皆初期の歌であったし、今日あらわれる評論のたぐいも多くは初期の歌を問題にしている。

  

おのが身をいとはしみつつ帰り来る夕

細道に柿の花落つも

  しろがねの雪ふる山に人かよふ

細ぼそとして路見ゆるかな

  赤茄子の腐れてゐたるところより

幾程もなき歩みなりけり

  かうべ垂れ我がゆく道にぽたりぽたりと

橡の本の実は落ちにけらずや

  猫の舌のうすらに紅き手ざはりの

この悲しさを知りそめにけり

  なげかへばものみな暗しひんがしに

出づる星さへあかからなくに

  死に近き母に添寝のしんしんと

遠田のかはづ天に聞ゆる

  のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて

たらちねの母は死にたまふなり

  めん鶏ら砂あび居たれひつそりと

剃刀(かみそり)研人(とぎは)は過ぎ行きにけり

 

(以上『赤光』)

 

あかあかと一本の道とほりたり

たまきはる我が命なりけり

この夜は鳥獣魚介もしづかなれ

未練もちてか行きかく行くわれも

草づたふ朝の螢よみじかかる

われのいのちを死なしむなゆめ

さんごじゆの大樹のうへを行く

鴉南なぎさに低くなりつも

かうかうと西吹きあげて海雀

あなたふと空に澄みゐて飛ばず

真夏日のひかり澄み果てし

浅茅原にそよぎの音のきこえけるかも

はざまなる杉の大樹の下闇に

ゆふこがらしは葉おとしやまず

うつつなるほろびの(はや)さひとたびは

目ざめし雞もねむりたるらむ    

 

(以上『あらたま』

 

 ■ 言葉のひびきに最大の魅力

 このようなのが初期の作である。ここには人間感情と自然の色調とが繊細に尖鋭にとらえられているし、人間生活の悲衷と苦悩とが深刻に大胆に表白されている。そういうものが、古語を自在に駆使した万葉調の短歌によって表現されている。

芥川が

「〈赤光〉は見る見る僕の前に新しい世界を顕出した」

といい、宇野浩二が

「まったく〈赤光〉は人々を眩惑させるような強烈な光芒をおびて出現した」

といった、そのおどろきの中には歌調すなわち言葉のひびきに不思議な新鮮さを感じた一面もかならずあったろう。

 

𠮷は明治三十八年(二十四歳)に正岡子規の歌を読んで作歌に志し、伊藤左干夫に師事し、作歌集団「アララギ」の中心的作家として活躍したが、その方向というものは子規以来の写実と万葉調とてあった。それを「写生」(生を写す)という信念に統一して、生涯にわたって追求したのであった。その方向は島木赤彦でも古泉千(こいずみち)(かし)でも同じだが、おのおのの天分と個性によって結果は当然のことだが一様ではない。 

茂古の歌において、言葉は強く切実で、感情に直接なひびきをもっていた。そして、万葉の古語と漢語・洋語・俗語が一首のうちに不思議に調和して、そこから新しい感覚と情緒とがのぞいている。これはいままでの短歌に無かった独特のひびきである。おそらくこれからの短歌にも無いだろう。

 歌はもとうたわれたものだからという意味だけでなく、詩として百葉のひびきが無ければならない。私は短歌の魅力の九分九厘までが言葉のひびきにあるとおもっているが、その最も美事な例が茂古の歌である。

  かりがねも既にわたらずあまの原

かぎりも知らに雪ふりみだる

  最上川逆白波のたつまでに

ふぶくゆふべとなりにけるかも

  うつせみの吾が居たりけり雪つもる

あがたのまほら冬のはての日

  けふ一日(ひとひ)雪のはれたるしづかさに

小さくなりて日が山に入る

  夜をこめて未だも暗き雪のうへ

風すぐるおとひとたび聞こゆ

 

ひととびに晩年に移って、ここに『白き山』という歌集から五首だけあげた。

『あらたま』以後『つゆじも』『遠遊』『遍歴』『ともしび』『たかはら』『連山』『石泉』『白桃』『暁紅』『寒雲』『のぼり路』『霜』『小国』と十三歌集があって、その都度これが極致かとおもうようなたくさんのすぐれた歌がある。

 

 「松かぜのおと聞くときはいにしへの聖のごとくわれは寂しむ」

という、ひびきの長く清い歌もあるし、

「街上に樫かれし猫はぼろ切か何かのごとく平たくなりぬ」

という、心のあたたかさを奥にひそめた歌もあるし、

「街にいでて何をし食はば平けき心はわれにかへり来むかも」

という悲しい歌もある。

「北とほく真澄がありて冬のくもり(あま)ねからざる午後になりたり」

という、静かで重厚な歌もあるし、

「この二人の男女(おとこおんな)のなからひは果となりけり罪ふかきまで」

という、世の笑いぐさになるような阿部定事件に同情した歌もある。

「高千穂の山のいただきに息づくや大きかも寒きかも天の高山」

というように、充満する大歌人の力量を示した歌もある。いうべきことはたくさんあるが、分量の枠があるから省略しなければならない。

 

 ■晩年の傑作・大石田雪の歌

 そしてここに五首抄出したが、いずれも終戦後山形県大石田というところで作った雪の歌である。これらの歌で言葉はどのようなひびきを伝えているか。「かりがねも」の歌は、天から無尽に雪が降ってくるという「あまの原かぎりも知らに雪ふりみだる」が実質で、一二句はいわば虚で、ただ降る雪だけが充ちている天を修飾する言葉が、あわせて時の推移を暗示している。なまなましい現実は後退して荘厳なひびきとして昇華している。「最上川」の歌は、川に白い逆波が立って吹雪の中に夕暮れてゆくというのだが、「逆白波」という複合名詞がいい。短歌は簡潔な表現を要求するから時に造語もするが、これほど美事な造語はすくない。また「けるかも」という感動詞で終る結句だが、この大上段にふりかぶったような古語を堂々と使える作者は茂古が最後であろう。

 第一句「最上川」で「は」とか「に」とかいう助詞を省略し、第三句で「に」、第四句で「と」という助詞で続けた節奏には味わい尽きないひびきがある。

第三首は、雪の降りつもる県の中央部に、冬至の日に自分は居たというのだが、第二句で切れ、第四句名詞で切れ、結句名詞で切れる、この一首の形態からどうしておしよせる波濤のような永いひびきが聞えるのか不思議なような歌である。

「けふ一日」の歌は、連日の降雪のなかに一日晴天があって静かに暮れてゆくところだが、平穏のうちに万有の法則を暗示するような語気がある。第五首は、未明に雪の上を吹きすぎる風音だが、瞬間の音が永遠につながるような寂しさを言いあてた結句は、簡浄の極致といってもよい響きをもっている。

  

ここに来て狐を見るは楽しかり

狐の香こそ日本古代の香

  塩沢の観音堂今宿の薬師堂

汗をさまりてわが眠りしところ

  この部屋にいまだ残暑のにほひして

つづく午睡の夢見たりけり

  場末をもわれはゆきゆく或る処

満足をしてにはとり水を飲む

  茫々としたるこころの中にゐて

ゆくへも知らぬ遠のこがらし

 

茂吉は昭和二十二年秋に東京に帰った。

それからは老と衰と病との境涯にあって、定形の枠を感じているような、いないような自在さで、しかもおそろしい深刻さで、周囲と内部とを歌に表現している。

「狐の香こそ日本古代の香」

「残暑のにほひ」

「満足をしてにはとり水を飲む」

「ゆくへも知らぬ遠のこがらし」

など、言葉の色調はそれぞれ違うが、すべて、非凡の才能をもって五十年精進した人の力量が背後にある。言葉の厚みがある。

 短歌は少ない言葉でもっとも大切なものを簡潔に圧縮する形式だが、そのためには言葉はどのように働かねばならないか。その言い方と続け方を茂吉は身につけていた。言葉には大きな伊吹としての響きがなければならぬことをこころえていた。

 しかし作歌の実際において、茂𠮷はそれを計算するように操作したのではなく、ただ真率に力をかたむけることによって成就したのであった。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年09月07日 17時01分25秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X