カテゴリ:山梨の歴史資料室
『民間伝承』甲州婚姻誓書 坂本敏雄氏著
昭和24年12月刊
一部加筆 白州ふるさと文庫
中巨摩郡合村、其他 婚約 吉日を選び、予め日取りの通知を受けると媒酌人が婿を連れ朱塗の柳樽に祝い酒一升入れて行き、嫁方で婚約を承諾すれば媒酌人との間に盃を交す。これを「酒入れ」という。 若し緋約解消の場合は樽に水を入れて返す。 嫁入り 花嫁が輿入れしない先に、昼間婿が一足紀にの嫁の里方に向い、親兄弟の盃を交す。
中宿 嫁が行列の途中立寄る中宿を「うま寄り』と言い親分の家に立寄る。 吸い物つきの膳を並べ、親分子分の盃を交し、「一生面倒見てやるぞ」と嫁に言いひわたす。
婿いぢめ 明治十八年頃大才檀いた行事で、「泥うち正月」というのがあった。明治18年続いた行事で「泥うち正月」というのがあった。舊六月十四日道祖神の前に参集した青年の附前に引出された婿が 「今年は何処の田圃でお祝いをやってくれやすか」 と問うと道祖神に選ばれ指示する。 「何処々々の田圃は今年の成績が悪いから、何処々々の田圃でやれ」 と命令する。当日になると青年が総出で、素っ裸になり、田圃に出揃って、恥ずかしがる新郎新婦をこれも丸裸にして立たせ泥を投げつけ、相手の顔と云わず体全体を泥まみれにし、果は泥まみれの新郎新婦に相撲を挑み泥の中へ転がしこむ。日頃憎まれているほどこれがひどく、また意地悪く夜も遅くまでやらされた。
苗譲り
父親が総領の成長(満二十歳)の日をもって田植えの時、苗代から稲束をくくる藁のミゴ(穂先)を総領に切らせる。その際穂先を長く切ればパキパキとした良い嫁が得られ、短く切れば「ひじきり者の嫁をとる」といわれた。
杓子渡シ
嫁が主婦として認められるまで、嫁は竈のそばの板敷に座って、家の者全部の給仕をしなければならない。 「この嫁は大丈夫だ、一生家においても良い」 ということを姑が認めれば、初めて子を渡す。昔は嫁の飯の盛り方が悪いと、姑は嫁の手から杓子をひったくったものだという。 召しの盛り方は、その家の主人を先とし(留守中の主人には蔭膳を盛る)年長順に盛る。飯は茶碗にテンコモリに盛ることが良い。 また嫁は朝起きて大黒柱、小黒柱を綺麗に磨かねばならない。暖かい湯で拭けば主人の足が温まり良く眠れ仕事に疲れず働けるといわれる。大黒柱を逆さに立てると家は栄えない。大黒柱を大切にしない様では嫁としての資格がない。
南都留郡勝山村(河口湖畔) ヨヒが中心(部落同志が協同で事をなすこと)
今でも村内結婚に風雅主で、完全に行われている親類が村の中心となり、結婚も村同志でやることは、その家の日頃の心がけの良いことを証明した。 部落外との通婚は部落内のつきあいの親密を欠いている証拠とされている。 今でも村人同志は「徳平」とか「義明」とか名前を呼び捨てにし、「お前」ということを『わりやア』という。これはお互いの親密を現わす証拠である。
村人の承認 祝言披露のほか、この村には正月十四日の道祖神祭に行われる『おかたうち』は村人が嫁、婿を承認す る機会とされている。これは一面略奪婚の名残りであるという。 「おかたうち」は十四日の夜道祖神の場所に集まる青年によって、「おんべえ」(御幣とも、おしんめい)とも云う。の式が上げられ火を盛んに燃す。この時青年の一人が「おんべえ俸」(カツの木に御幣つけた御神木)をいずれかに隠す。やがてこれを取ろ出して青年同志よって「おんべえ練り」が始まる。提燈を持った青年が先登に立って、「おんべ」を持つた青年を中心に練り、奪い合いをする。「おんべ」は結局腕ぷし強い青年の手に帰す。 深夜、新郎新婦宅を訪れ練り込み衆人環視の中で青年が「おんべ」を取って婿・嫁の頭に「おんべ」いなだかせる(戴かせる)。その際、嫁の頭を捧で軽く即く。日頃憎まれいる家には決して練り込まない。 この「おかたうち」は隣村の小立村でも十数年前まで行われていたが、この方は内容も様式千言ひ、専ら青年男女(新郎新緑)に対する社会的制裁を本旨としていたようで、これは結局、制裁の方法が余り残酷だというので廃れてしまった。
子安講
八十月十二日、この日、観音様を祀る。「おんなし」(母親同志)が子供を全部引連れヤド(ヤドは輪番でする)に集まって、観音様にわが子の、無病息災を祈り、日待をする。この日は晴れて女の天下で男子立入禁止、主婦の解放される日であり、ヤドでは笑い話のうちに、一種の性教育が行われるともいわれる。
南都留郡河口村(河口湖畔)
親に代る「伍」
河口村には今も『五人組』制度の名残がある。これを通称「伍」といっている。「伍』は十二人を一組とし、現今の隣組のような役目をしていた。伍長は組で互選し冠婚葬祭を司り采配を振った。従って失敗したときは勿論伍長が全責任を負った。特に結婚式には、日頃何の関わりもない伍長が嫁乃至婿親の次席坐り、親に代って式を指示した。付人が何かの事情で遠くへ移転するような場合も、この「伍」からは決して離れなかった。明明治維新後、漸次この気風が廃れ、現在隣保組組織にその名残りを留めているに過ぎない。これは今でも部落の或る者が他の部落へ移住した場合、隣保組の配給品も元住んでいた部落で受けるという風で所属を別にしている。またこの村は昔から親分、子分の関係が密接で子分は正月と盆、節供には必ず親分方へ餅の付け届けをする。親分方では子分を家に招以て馳走する。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月08日 20時10分29秒
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