カテゴリ:馬場美濃守信房資料室
平然と首をわたす美濃守・馬場信房の碑 出沢 銭亀
一部加筆 山梨 白州ふるさと文庫
馬場美濃守信房は、信春ともいい信政・信武・氏勝とも呼ばれることがある。 はじめ、教来石姓を名乗っていたが、後に猛将馬場伊豆守虎貞の名跡を継いで馬場を名乗り、さらに 信玄に許されて「鬼美濃」の異名をとった原美濃守虎胤の武名にあやかれと、美濃守を名乗ったことによる。 信虎・信玄・勝頼の武田家三代に仕えた譜代の老臣で、知謀にすぐれていて、武田四名臣の一人とあがめられている。 また歌人川田順が「長篠」という詩に歌っているように、「美濃守さま」と慕われている人間的魅力にあふれた武人であった。 信房は信州更級郡牧の島の城主で、旗印は白地に黒の山道に御幣をえがいたものを使い、その行く所敵影をとどめなかったという。しかし設楽原での合戦については、他の宿将らとともに勝頼の自重を促したが、美濃方面で18城を攻略し、遠州きっての堅城高天神城を落して自負に燃えている主君の、到底いれる所ではなかった。
天正3年5月20日、武田車は設楽原に進出した。 信房は右翼軍の先鋒として、鵜の首で豊川を渡り、出沢・谷下を経て須長と浅木場の朝日山に布陣したと牧野文斎翁の「設楽史要」にある。明くれば21日、決戦の火蓋は切られた。 須長の丸山砦を守る6千の佐久間隊目かけて、七百の馬場隊は勇敢に突進し、ついに山道に御弊の旗印を丸山に押し立てることができた。甲陽軍鑑に、武田軍は緒戦にすべて勝利を収めたとある。
しかし、二陣の真田信綱は、青江貞次3尺3寸の大太刀を振って馬防柵に迫り、一党の根津・鎌倉・常田らとともに奮戦したが、乱戦の中で相次いで討死した。 続いて真田昌輝・土屋昌次・一条信龍らも入れ替わり立ち替わり、連合軍への突入を試みて第二柵まで取り着いたけれども、秀吉・丹羽長秀らの側面攻撃を受けて苦戦に陥り、昌輝・昌次ともに無念の最期を遂げた。
時を追って武田軍の死傷者続出し、もはや退勢の挽回不可能と見て取った信房は、赤はげの本陣に使者を送り主君勝頼の退却をすすめた。そして自らは丸山に踏みとどまり、敵を引き着けていた。やがて、大将勝頼の「大」の旗印が後方に遠ざかるのを見届けてから、馬場隊・一条隊ともども撃って出て、信濃路目ざす本隊の援護をしながら、出澤の橋詰まで後退して来た。
この日の信房の出で立ちは、 卯の縅の具足に、 鍬形の星兜をいただき、 月毛の馬に、白覆倫の黒鞍を置き、 白旄を胸板の鐶に指す
という美々しさであった。
殿としてのつとめを終えた彼は、 槍を馬の平首に持ち添え、 きっと敵方に向き直って大音声に呼ばわった。
我こそは、武田方の馬場なるぞ。 討ち取って手柄にせよ
と、刀に手もかけずに敵方に首を授け、あたら62歳の最期を遂げた。
織田方の記録にも、 馬場美濃守の働き比類なし
と、その壮絶な戦いぶりをたたえている。
出沢村誌に、
馬場美濃守ノ墓 字前畑ニアリ 柳田ノ戦ニ敗軍シテ此所ニテ戦死ス。 武田ノ家臣ニテ此地ニ葬ル。 現今桜ノ老樹アリ。 今緒巻桜ト称ス
とある。また出沢村ゆかりの武田の遺臣で、信州岩村田の出沢由次郎は、「鳳末寺道ノ記」に
大渕ノ西ノ方山際少シ高キ所、 是長篠合戦ノ刻、 甲州馬場美濃守信房切腹之所也
と述べている。 大潮の西の小高い、緒巻桜のある所、ここが出沢村の延宝の古地図に残る「猿橋の阿て」に当たる所である。現在字前畑65に今泉金次郎願主の「馬場美濃守戦死墓」があって、毎年8月25日、出沢区でお祀りをしている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月12日 11時42分56秒
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