カテゴリ:俳人ノート
新鋭作家論 飯田蛇笏私論
著者 鈴本詮子氏 一部加筆 山梨歴史文学館
一 はじめに 昭和文学史は芥川の死によって始まったという説がある。 説の当否は別として、芥川は既にして私どもには過去の、それも甚だしく遠い過去の人物であった。 その芥川が一文を草して飯田蛇笏に触れ、 自作「労咳の頬美し今冬帽子」などは蛇笏の句境を剽窃して「製造」した、 という意味のことを言っている。
私はこの文章を読んで俳人飯田蛇笏の名をつとに承知していた。 しかしそれから十年もたってから、飯田蛇笏は現役の俳人であり、 今なお瞿鑠として俳誌「雲母」を主宰していることを聞くに及んでは、 私の文学史的実感がどこか狂っているような錯覚に把われた。 考えて見れば、三十六才で死んだ澄江堂のことであるから、 その頃生きていても別に不思議はないのである。 澄江堂に七才を長ずるに過ぎぬ蛇笏には甚だ迷惑な私の実感である。 そんなこともこれまた凡そ十年前の話となった。 私にはその時に感じた奇異の感がしこりのように残っているだけである。 その頃からぼつぼつ私は「雲母」の庇を借りて俳句を作るようになった。 さればといって私は飯田蛇笏に傾倒したわけでも、 「雲母」に特別の魅力を感じた者でもなかった。 私は「雲母」の中では終始傍読者であった。 ただ呆然と眺めている体の傍観者であった。
「飯田蛇笏と斎藤茂古」(進藤均「雲母」29・10~11)なる文章があった。 青草を一っぱい詰めし蛍籠 蛇笏 と あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 茂吉」
を冒頭に並べて、両者を「徹底的に論及し、解剖しなければならぬと信」するとあった。 私の当時の鑑賞力を以ってしても、この二作品に関する限り、 優劣は自ら明らかであると思われた。 私は蛇笏に同情しながらも、 甘んじて足を引張られている様子が見えるようで飽足らぬものを感じた。 「飯田蛇笏と目夏歌之介」 (早矢仕宝三「雲母」28・11~29・1)なる一文がこれより先にあった。 「この稿に於いて両先生についての批評をわざと避け」 無闇矢鱈な、殆ど無差別な博引と傍証から成る代物である。 例えば両先生の眼先についてとして、蛇笏については次のごとき文章を引用する。 「人は屡々蛇笏先生の眼光の燦々として人を射る底の鋭さを指摘するが、 この眼は実は六十年来、ひたすら対象を見据え、見抜いて来た眼である。 それが尋常ならぬ強い鋭い光を宿すことは、決して偶然ではあるまい。 先生の作品が、その対象把握において毀かに諸家に懸絶する所以は、実にここに存する。 (河野喜雄)」と。 書いた者はもとより、引用する方も、全くどっちもどっちである。 蛇笏の眼光燦々としていることが、作品の対象把握と一体どこに、 どういう関係があるというのだろうか。 私にはこの無茶苦茶な論理の飛躍は不可解であり、笑止ですらあった。 飯田、樋口(日夏)両家は歴代の大地主であったから、 自ずと小作人どもが慴伏するに足る容貌的成敗は遺伝されていたとでも考える方がましである。 こんな埓もない文章を読まされて、私は飯田蛇笏も焼きが廻ったのではないかと思い始めていた。 結社というものはえてしてこうしたことになるのだということは、 後年ややあって私も理解するようになったが、 兎角、芥川を引付けた飯田蛇笏ともあろう者がそんな筈はなかろうではないか。 その頃から私は飯田蛇笏の私説を、私なりに育て温めるほかにないことを悟ったのだ。
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最終更新日
2020年09月13日 21時22分53秒
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