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2020年09月13日
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カテゴリ:俳人ノート

 新鋭作家論 飯田蛇笏私論 三、「山虚業」その他

 

****その美意識の意味するもの****

 

著者 鈴本詮子氏

一部加筆 山梨歴史文学館

 

 

 蛇笏の処女句集は「出廬集」であった。私は俳句は一作品のみか取上げて論ずるのは十分でなく、

一句集を、その全体との開運に於いて、一作品に代表させて論ずべきだと考える者である。

その際の誤解を怖れぬ断定に、恐らくは批評の自縛作用があるであろう。

そのことを含めて、理解のふんぎりのつけ方のある意味の不遜さを容認した上で、

私はこの考え方に固執する。

虎子は私のようなこだわり方を故意に避けた例外的な人であった。

曰く「五百句」、

曰く「五百五十句」

などとさりげなく名付け、自ずからなるけじめをっけているとはいえ、

句集に纒める意味の大半をこれら無内容な書名に解消している。

ただ、虎子というその名のみを唯一無二とした思い上りを、

その故意らしきところに見て取ることも出来ようか。とまれ言わでものことを言った。

 

こうした見地から「山廬集」を見るとき、蛇笏五十年の何某はその最も個性的な意味で、

この一巻を出るところはなかった。

この四十八才の処女句集はそ出版の遅きに失した事情も併せて、

飯田蛇笏を「山廬集」の俳人と考えて大過ない重味がある。

蛇笏の詩人的真骨頂はその強烈な主観の内面化もしくは深化の方向にあった。

そしてそこに自から初期の佶屈を脱して、平明な詩境を現出しもした。

それをしも含めて個性釣と規定する限り、私は私の大胆な断定を翻えそうとは思わない。

 

なかんづく学窓の灯や露の中 蛇笏

 

青年蛇笏の細やかな心情の肌理は露の灯のようにふっくらと私には感得される。

時代は明治の末、そこばくの物語もありそうな情景ながら、

恬淡無欲に、感動のポイントに直情的に体当りした気概が窺える。育ちのよさもあろう。

長閑かな御時世ではあったろう。

 しかし、それはそれとして、蛇笏の青春の気息が溌剌とここに息づいている。

 

鈴の音のかすかにひびく日章かな

あら浪に千鳥たかしや帆綱巻く  蛇笏

 

これら同時代の作品のナイーヴな感性に、特定の美意識に支えられた青春を同じように感ずる。

先に触れた「飯田蛇笏研究」の力説する自然主義の影響による美意識であろうと私は思う。

ただ、その後天正三、四年頃にみられる所謂小説的な作品に於いて、

そこに自然主義を指摘出来るとすれば、例えばつぎの如き言葉に、

より濃く気脈の通ずるところあるやに私には思える。

「自然は自然である。善でもない、悪でもない、美でもない、醜でもない。ただ成時代の、

成国の、成人が自然の一角を捉へて、勝手に善悪美醜の名を付けるのだ。

小説また想界の自然である。

善悪美醜のいずれに対しても、叙すべし、或は叙すべからずと羈絆せらるる理窟は無い、

ただ読者をして、読者の官能が自然界の現象に感触するが如く、

作中の現象を明瞭に空想し得せしむればそれで沢山なのだ。云々」(小杉天外 はやり唄序)と。

 

また、詩人の使命は

吾人の霊魂をして、肉として吾人の失ひだる自由を、

他の大自在の霊世界に向って欲しいままに握りしむる事」(北村透谷)

 

という言葉を読むとき、透谷における詩と宗教の分離を、

倫理によって僅かにっなぎとめるようとしている蛇笏の後年の志向が窺えるやに思う。

これが「霊的に表現されんとする俳句」という発想に連なるのではないだろうか。

とまれ私はここに取上げた二作品に、青年蛇笏に強い影響を与えた独歩と牧水をしきりに思う。

そして、これらのことを併せ考えると、蛇笏が俳句に持込んだ自然主義は、

肉としての人間解放を目的として俗化の道を歩んだ、後期のそれではなく、

ロマンテイズムを背負うた初期のものではなかったかと感ずる。

その時期かずれて蛇笏作品に於いて大正初期に現れる事情は、

明治四十二年から数年のブランクによるよりも、

文学思潮一般に対する俳句の後進性に基くものという考え方に私は傾く。

そして私の臆測は更にひろがり、蛇笏がそれに自覚的に対処したとすれば、

その身振りの大きな非文学的態度に、

インフェリオリテイ・コンプレックスとなっていて廻ったに相違ないと見当をつけるに至る。

しかしこれは私の直感の域を出るものではない。

この時代の秀句にはっきり次のようなものがある。

 

幽冥へおつる音あり灯取蟲

芋の露述山影を正うす

死病得て爪うつくしき火桶かな

雪晴れてわが冬帽の蒼さかな

 

 今は「出廬集」以後昭和十年代にかけての蛇笏秀作を録するにとどめよう。

  

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり  蛇笏

  死火山の膚つめたくて草いちご   ″

  雪山を匐ひまはりゐる谺かな    ″

  秋風やみだれてうすき雲のはし   ″

  ふところに暮冬の鍵のぬくもりぬ  ″

  なにもゐぬ雲水ふかくうごきけり  ″

 

  四 おわりに 

 

私は既に老境にある飯田蛇笏の若年の一読者として、思うところを忌憚なく開陳した。

「秋風や災厄を聴く耳ふたつ 石原舟月」

なる句をゆくりなく思う。心耳の清澄なるに感嘆これ久しうする。

門下一統のやや行過ぎた礼讃に組せず、かえって貶する偏に私自身はあるのであろうか。

私としては否である。

蛇笏の真骨頂の過不足なき評価を翼う二人であることに変りない。

 

「飲む顔の瞳の笑ひだる麦茶かな 飯島朴余子」

「たわたわと薄氷に乗る鴨の脚   松村葺石」

「秋風や洗ふてかつぐ肥柄杓    松沢敏江」

 

など、それぞれの個性の根深く巣喰う往時に門下高弟の力量の一半を推す。

彼等を擁してもその師蛇笏の泰然たる景観は、

既にして村夫子の域を超えて遥かなものがあるとみていい。

 

蛇笏老来堅固な詩心の証しとして、虚子が「進むべき俳句の道」で望蜀の感を表明した、

「平坦な、奥深い味ひをもってゐる」作品をあげてこの稿を結ぶ。

昭和三十四年蛇笏七十五才の作である。

  

後山に蔦ひきあそぶ五月晴  蛇笏






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最終更新日  2020年09月13日 21時28分03秒
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