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茶人物語**陸羽**茶の古典「茶経」を書く
『茶人物語』茶の湯ライブラリー 讀売新聞社 編者 日野忠男氏 昭和43・10・1 一部加筆 山梨歴史文学館
茶の本の原産地については、いろいろの学説があるが、今ではイソドのアアッサム地方とするのが定説となっており、ここから中国の四川省に伝えられたとされている。 中国にはいった茶は薬物学の古典である『神長本草径』にもあるとおり、初めは解毒、精神安定 あるいは胃腸薬として飲まれていたもので、現在のような嗜好飲料となるのは、かなりあとのこと である。 茶が一般の人たちに広まりだすのは唐の時代(六一八~九〇七)のことで、このころになると、各地に今の喫茶店のような茶店ができ、人々はここでお茶を飲みながら世問話にふけるようになった。
茶道の古典といわれる『茶径』を陸羽が書いたのは、このころのことである。 陸羽という人物は、『新唐書』にもその名が出ており、自叙伝も書いているが、その幼いころのことはまったくわからず、すべてが伝説に包まれている。
湖北省大門県の竟陵というところで、湖畔に群れている鴈の羽の中で眠っているのを智積という禅僧が発見、拾い上げて育てたと伝えられ、陸羽という名前も智積が易占いでつけたといわれている。 智積は陸羽加成長するにつれ、弟子として教育しようとしたが、生いたちが不幸だったせいか、ひどく反抗的で、手に負えないところがあったという。禅宗の戒律の一つである独身の戒めを説くと
そんなことでは自分の子孫が絶えてしまう。 ひいては自分を生んでくれた両親に対して不幸に当たる
と答えて、しまいには、たとえかりそめて心仏弟子であるのに、そのころ仏教に代わって広がり出した儒教の教えをふりかざし、智積に論争をふっかける始末となった。 もっとも、彼は野山を散歩するとき、いつも口の中でブツブツとお経を唱えていたというから、まんざら仏教を捨て切ったわけではなく、すでに形式化しかけていた仏教や世の中に対し、いかにも青年らしい抵抗を見せていたとみるべきであろう。
養父で師である智積も、このひねくれものにはほとほと手を焼いたとみえ、初めは鞭で叩いたり、怒鳴りつけたりしていたが、やがてその気力もなくなり、掃除や牛の世話など雑用だけをいいつけるようになった。 自尊心の強い陸羽は、これは胆に据えかね、ある日忽然と姿を消し、いずこへともなく立ち去ってしまった。しかしまんざら智積への息を忘れ切ったわけではなく、後に智積が死んだと伝え聞いたとき
宝も地位もいらない ただ智積が生前住んでいた 竟陵へ竟陵へと流れる西江の水が欲しい
という意味の詩を作って嘆き悲しんだと伝えられている。
寺を飛び出した陸羽は、旅まわりの役者の仲間にはいって、もっぱら脚本書きに精を出した。 大宝年間(七四二~七五三)には復州の知事、季斎物が催した宴会にまぎれ込んでいたのを発見されたりして
どこでなにをやりだすかわからない人物だ
とされ、その後も長らく中国の代表的狂人の一人に数えられたものである。
陸羽は有名な醜男で、その上ひどいドモリだったが、そんなことをいっこうに気にするような男ではなく、高名な詩人で学者だった魏(前四〇三~二二五)の王粲のことを
おれよりひどい男ぶりだったし、 壮漢(前二〇二~後八)の文人、 司馬相卸、揚雄はもっと激しくどもった。 才能のある人物はとかくそうしたものだ
というようなことをどもりながらしゃべり散らし、いっそう嫌われたということである。 この時代の陸羽は、ありあまる才能をもてあまし、いったいどこへぶっつけたらよいのかわからず、荒れ狂っていたのである。 そんな陸羽にも、やがて天与の機会加めぐってきた。 それは揚貴妃加役された安禄山の乱である。 戦乱をさけて湖州にきた伊は、ここで皎然という詩人に会い、正式に禅と作詩、そして茶を学ぶこととなった。間もなく書道家の顔真卿が行政長官となり『韻海鏡原』という百科辞典の編集が始められ、陸羽もそのメンバーの一人に選ばれた。 このときの経験が、茶の百科辞典ともいうべき『茶径』を書く上で、おおいに役立つのである。 『茶経』は巻頭に「茶は南方の高本なり」とあり、源・具・造・器・煮・飲・事・出・略・図の十節で構成され、茶の本の伝来から説き起こし、茶の葉を摘む道具、製茶法、飲む器など、およそ茶に関するいっさいのことが述べつくされている。 当時茶はまだ神秘的な植物で、山奥では葉を猿に摘ませるという話がまことしやかに伝わっていたが、陸羽も猿をからかっては怒らせ、矛をむきだした猿が投げつける茶の木から新芽を摘み、それで作った茶を楽しみながら『茶経』を書いたといわれている。
『茶径』の特徴の一つは、単なる百科辞典的なものではなく、陸羽の茶に対する心構えが入っていることである。たとえば煮の節に
茶の性は使なり、広によろしからず
また源の節に
茶を飲むかは、もっとも精行使徳の人によし
などとあり、後年の茶の湯のはしりともいうべき考え方が、ほのかに散見するのである。
『茶経』によると、当時の茶の飲み方はいろいろであったようである。 湖北・四川省などの片田舎では茶の葉に糊を加えて餅のように練り、これを赤く変色するまで火で焙り、粉末にした上で熱湯をそそぎ、葱、生姜などを薬味として飲んでいた。 香辛料を入れたのは、茶の渋い味をやわらげるためだが、それらが持っている薬効を合わせて、茶の効用をいっそう高める狙いもあったのである。
これに対して陸羽は、香辛料をいっさい入れず、茶に熱湯をそそぐ代わりに釜で煮出す方法を採った。つまり水を沸騰させ、湯玉が上がってきたところで少量の塩を入れ、そこへ薬研で摺った粉にした茶を入れて煮出して飲んだのである。 この煮茶法はやがてすたれ、抹茶や煎茶に変わっていくのだが、陸羽が茶の飲み方に大変化を与えたことは事実である。 茶の本がインドから中国へ伝来したこともあって、陸羽の時代には茶は仏教と深く結びついていた。寺の境内には茶店が開かれ、斎飯に集まる信者に茶が施されるのは普通で、今も残っている墓に茶を供える習慣も、このころに生まれたものである。 つまり茶を広める上で主役を果たしたのが僧侶というわけだが、僧侶白身は、修行のときの眠け覚ましに用いていたものである。
陸羽は晩年、粛宗皇帝に才能を見出され、皇太子の文学の師となったりしたが、生まれつきの野性は消し去ることはできず、散歩中突然大声で詩を吟じたり、気にくわないといって上役と激しく衝突したりしたあげく官を辞し、貢元年間の末(八○四年ごろ)八十歳で死んだと伝えられている。
中国での茶は、彼の言いた『茶経』によって一つの性格を与えられると同時に、急速に一般大衆の 中へ浸みとおる傾向を見せたので、唐の時代の茶店は、みんな陸羽の像をかまどに祀り、感謝を捧げたということである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月13日 21時34分27秒
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