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2020年09月14日
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徳川幕府 柳営服制の創定








 『史料 徳川幕府の制度』

  小野清氏著 高柳金清氏校注

  人物往来社 昭和43年刊

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

  柳営服制の創定

 

元和元年、柳営年中行事服装の制度定めらる。

 

◆元和元年(一六一五)、この年柳営年中行事服制を定めらる。

 **正月朔日、二日柳束帯に付き、柳給仕衆装束、五ケ目は長袴たるべき事。

**三月三日出仕の衆長袴の事。

**四月朔日より給着用。並びに九月八日迄踏皮(たび)を禁ず。

**五月五日染帷子長袴。

**六月十六日御宴祥。

**七月七目白帷子長袴、

八朔御太刀折紙長袴着用。但し五千石以上御太刀折紙進上。

**九月朔日より八日迄袷着用。

**九月九日より染小袖。同日より踏皮御免。

**十月玄猪は長袴たるべき事。

(当代年録・泰平年表)

 

 (注) 

①徳川家康元亀三年(一五七二)六月十六日、一向一揆の際に、危うく難を逃れる。

これを記念し、江戸時代には六月十六日を嘉祥の祝日として、年々祝賀の鍍を行なえり。

 ②天正十八年(一五九〇)八月一日家康江戸に入府する。

このため江戸幕府においては、毎年八月一日を八朔と称し、祝賀の儀を行なえり 

③十月の初の亥の日を玄猪(げんじょ)といい、江戸時代には祝日に定めた。

 

  装束着用の例

正月元日、二日、其の他装束着用の例、およそ左の如し。

概するに神事祭事は将軍以下すべて束帯。

その余の大礼は将軍以下すべて衣冠。

その余の儀式は、将軍は直立、侍従以上は直垂、従四位は狩衣、従五位は大紋。

その他は、将軍以下すべて熨斗目長上下。

 

今これを詳言すれば則ち下の如し。

 

束帯、衣冠

 

将軍より従五位(諸大夫)に至るまでこれを着用する。

 束帯は神事祭事の時、将軍宣下等の時

 衣冠は将軍の官位昇進等の時

 この余、将軍は紅葉山参詣等の吟、芝・上野参詣の時、衣冠を着せらる。

但し芝・上野参詣の時、途中は熨斗目麻上下を着用せられ、

芝は方丈、上野は御霊屋脇なる装束所に於いて、衣冠に改め参拝せらる。

 

直衣 将軍これを着用せらる

直垂 侍従以上

狩衣 四  位

大紋 五位(諸大夫)

 ◎ 上記 正月元日年始御礼等の時 正月四目芝・上野参詣等の時

 

因に記す。

京都にて公卿は、

官位の高き人より卑しき人に至るまで、

狩衣を着用することなれども、

関東即ち武家はこれに異なり、

四位の外は狩衣を着用せず。

狩衣裏附きは公卿に限る。

関東(武家)は狩衣に裏を附けること相成らず。

故に京都に於いて狩衣を拝領したる人は、

関東へ伺い済みの上、

京都表に於いてのみ右拝領(頁附き)の狩衣を着用することを得れども、

江戸表に於いてはこれを着用することを得ず。

 

布衣 布衣着用仰せ付けられし者

素袍袷 目見以上の者

熨斗目麻上下 御目見以下の者

 

◎ 正月元日等上記を着用す

 

また右官服着用の時、すべての扮装はおよそ左の如し。

 

**正月元日・二目、将軍は紫御直垂、御召物白綾、御立烏帽子、御小さ刀、御桧扇、 

御太刀(御近侍持ち居り、但し袱紗等を用いず素手なり)

御宮内太臣、柳本大御在住。

 

 **文恭公(十一代将軍 家斉)太政大臣御転任以来は御小直衣となり、

**慎徳公(十二代将軍 家慶)また御小直衣なり。

**温恭公(土三代将軍 家定)に至り、また御直垂となる。

 

**将軍の御世子は緋の御直垂、白御小袖、御立烏帽子(俗にいう三位烏帽子)、

御小さ刀、御桧扇、御宮右大将、匹夫御在住。

 

**元来緋の御直垂なりしに、将軍御小直衣と御改めありしより以来、改めて裏附御狩衣となる。

  上の如く将軍は紫御直垂、世子は緋の御直垂なるにより、三卿三家及び諸大名ども、

一切この二色を用い得ず。但し拝領したるものは、この例外なり。

 

**侍従以上は、直垂、白綾、左折風折烏帽子、小さ刀、中啓。

 

〔註 中啓〕

経緯とも練糸または経に練糸を用い、緯に生糸を用いた絹織物。

地質が緻密で精巧なため、精好(せいごう)の名がある。

 

 

烏帽子の掛紐は飛鳥井家より免許を得たる人は紫紐を用いることを得、

その免許を得ざる人は、白の元結を用いるなり。(飛鳥井官は蹴鞠の師家なり)

 

**四品以上は、狩衣(単狩衣なり)ちぢら熨斗目、左折風折烏帽子、小さ刀、中啓。

**五位は、大紋熨斗目、左折風折烏帽子、小さ刀、中啓。

**布衣の役人は、布衣熨斗目、左折風折烏帽子、脇指、扇子。

**御目見以上は素袍、熨斗目、折烏帽子(侍烏帽子)脇指、扇子。

**御目見以下は、麻上下腿斗目、脇指、扇子。

**法印は、(じき)(とつ)、精好長袴、小さ刀、中啓、返り物なし。

**法眼は、直綴、無袴、脇指、扇子、冠り物なし。

 

束帯衣冠を初め、総じて礼服著用の時、拝礼その他とも、冠り物を冠り居るなり。

これ明治根 新の前、朝廷・幕府を通じて公行せられたる所の礼式なり。

 

**正月三日、将軍は御脱熨斗目御長袴。

**出仕の面々及び御番方(御目見以上)はすべて熨斗目長袴。

**御目見以下は、黒羽二重麻上下。

**法印、法眼は、直綴。

 

(注) 

① 練貫の一種で、緯に練糸、経に生糸を用いて織り、

無地で袖の下部と腰の辺りに縞をあらわしたもの。

江戸時代には士分以上の者の礼服として、麻上下などの下に着た。

     扇の一種で、親骨の上部を外へ反らし、畳んでもなかば開いているように造った。

 

(参考) 

幕府の装束着用については、その後、あまり大きな変化はなかったが、幕末に至り、

つぎのとおり大変革があった。

 

◇ 衣服の制度御変革  文久二年八月二十二日

   今度、左の通り仰せ出され候間、明二十三日より書面の趣き相心得うべく候。

一、勅使御馳走、御能の節はすべて服紗、小袖、半袴

一、御礼衆万石以上以下とも、すべて服紗、小袖、同袷または染帷子、半袴

一、月次は別御礼衆の外は平服

一、平服は以来羽織、小袴、福高き袴を着用致すべく候

上の通り、万石以上以下とも洩れなき様、相触れらるべく候

 

  武家礼服図(第十六図)

武家礼服国前掲の如し。

 

編修者(小野清)は、武家礼服図(着色密画、束帯より白張まで)二十三図を蔵す。

この図は頗る参考の益あるも、今節に従い『青縹紙(あおびょうし)』所載の図を用う。

 

 






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最終更新日  2020年09月14日 18時28分46秒
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