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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年09月17日
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近代の短歌

 

『文芸春秋』デラックス 昭和48

「万葉から幕末まで 日本名家の旅」

一部加筆 山梨歴史文学館

 

幕末維新の大業が遂げられ、明治期に入って、新体詩という新しい詩のジャンルが確立(明治十五年)され、散文世界では二葉亭四迷(ふたばていしめい)の『淳子』(明治二十年 1887)などが出て、近代の夜明けをもたらしたが、和歌の革新はずっと後れた。

古い伝統と囚習を持っている文学だけに簡単にそのことをおこなうことができなかったのである。もっとも二十年前後から和歌改良の論などは行われていたが、それを実践に移すまでにはかなり手間取ったのである。

 落合(おちあい)(なお)(ぶみ)のあさ香社(かしゃ)結成の二十六年をもって近代短歌の開幕が見られるのだが、しかしまだ直文の歌論や実作は微温的で新旧折衷という程度のものであった。

  

城あとと聞きにし岡に古瓦桧ひてをれば雄子(きぎす)鳴くなり  落合直文

 

真の近代の開花は直文門の与謝野鉄幹の手によっておこなわれた。彼が新詩社を興し『明星』を創刊したのは三十三年であるが、その前、数年にわたって、旧派攻撃を続け、自らの歌論を作品の上に実践してきていた。はじめは、ますらおぶりを唱え、国家主義的な時流に乗ったが、やがて唯美的な時流に乗ったが、やがて唯美主義的な憧憬・恋愛至上主義的な人間讃歌を昂揚するに至った。

既に文壇において開花していた北村透谷や島崎藤村の浪漫主義を継いだ本然の浪漫精神を樹てるに至ったのである。そして多くの俊秀をその傘下に集めたのであるが、いち早くその才華を輝かせたものは、激しい恋愛ののちに得た妻の晶子であって、彼はその妻の文学によって自らを輝かせるに至った。

昌子の歌集『みだれ髪』は本能的な面における人間解放の情熱をたぎらせ、憚ることなく官能の顫動(せんどう)を特異新粧なリズムに乗せたもので、それは一冊を驚倒さすら暦史的な業績であった。

  

いたづらに、何をかいはむ。事はただ、

此の刀にあり。ただこの大刀に     与謝野鉄幹

  

あめつちに一人の才とおもひしは

浅かりけるよ君に逢わぬ時    与謝野鉄幹

 

その子二十櫛にながるる黒髪の

おごりの春の美しさかな     与謝野晶子

 

  春短し何に不滅の命ぞと力ある

乳を手にさぐらせぬ       与謝野晶子

  

 『明星』からは古井勇・北原白秋・石川啄本らが出たが、勇は青春の欲情を酒と情痴の中に歌いこめ、白秋は短歌に西欧の近代詩的香気を移して鮮烈な官能と感覚との愉悦を歌い、啄木は浪漫の世界から出て、やがて現実生活の苦悩を歌い、けては社含有義的な傾向を辿って、生活派の始祖となった。

  

かにかくに祇園はこひし寝るときも

枕の下を水の渡るる       𠮷井 勇

  

ふくらなる羽毛()襟巻()をの句ひを新しむ

十一月の朝のあひびき      北原白秋

 

みぞれ降る

石狩の野の汽車に読みし

ツルゲエネフの物語かな    石川啄木

 

この浪漫生義に対して、ほとんど時を同じくして正岡子規が出て、客観的な観照態度に立って写実的な歌をなし、『万葉集』ヘの帰一を万へ「写生」を主張した。彼が根岸短歌会を結成したのは三十二年であるが、その門に伊藤左千夫・長塚節が出、正岡子規の没後左千夫は『アララギ』を創刊、そこからは島木赤彦・斎藤茂吉・中村憲吉・古泉千樫(ちかし)土屋文明俊秀輩出明星衰退後の大正期の歌壇に君臨するに至った。

  

裏戸出でて見る物もなし寒々と

曇る日傾く枯草の上に     伊藤左干夫

 

此のごろは浅蜊浅蜊と呼ぶ声も

すずしく朝の(うが)ひせりけり   長塚 節

 

夕焼空焦げきはまれる下にして

氷らんとする湖の静けさ    島本赤彦

 

ほのぼのと目を細くして抱かれし子は

去りてより幾夜か経たる    斎藤茂吉

 

鈴懸樹(ぷらたぬす)かげをゆく()(まな)(ふた)

血しほ色さし夏さりにけり   中村憲古

 

池の魚の生きのにほひの焰だち

この夜の空の更けがたきかも  古泉千樫

  

山の上は秋となりぬれ()葡萄()の実の

()きにも人を恋ひもこそすれ  土屋文明

  

目ふたげば、くわうくわうとして照り来る。

紫摩(しま)黄金(おうごん)の金貨の光り  釈 迢空

 

それぞれが、先行の浪漫派の精神をも摂取しながら強烈な生命感を籠らせて、若き日に樹てた個性をその後も長く輝かすことになるのである。

 

短歌革新の功は主として前記二派に帰せられるのであるが、傍流として竹柏会を主宰した佐佐木信綱・直文門の尾上(さい)(しゅう)・金子(くん)(えん)らの功も没することはできない。

 

 『明星』の衰退は文壇に自然主義が勃興したことが主なる原因であるが、その自然主義の潮流に乗って現われた歌人に前田夕暮・若山牧水がある。夕暮は平面描写によって生活の現実を歌い、牧水は人生の苦患を自然のなかに放浪することによって払拭しようとして、近代人的悲愁を歌って一時歌壇の注目を浴びた。

その他啄木とともに生活派的傾向を示した歌人に土岐哀果(あいか)(善麿)があり、夕暮・牧水とはまた別に自然主義的傾向をとった歌人に窪田空穂があった。

  

 

大門のいしずゑ苔にうづもれて

七堂伽藍ただ秋の風        佐佐本信綱

 

瑠璃鳥の夢呼び過ぎし森かげや

しめり覚ゆるしろがねの笛     尾上柴舟

 

ひとすぢの本郷通り夜はふけて

年くれがたの雪しづかなり     金子薫園

 

襟垢のつきし袷と古帽子

宿をいでゆくさびしき男      前田夕暮

 

白鳥はかなしからずや空の青海の

あをにも染まずただよふ      若山牧水

 

指をもて遠く辿れば、水いろの

ヴオルガの何のなつかしきかな。  土岐哀果

 

鉦鳴らし信濃の国を行き行かば

在りしながらの母見るらむか    窪田空穂

 

短歌の近代化はこうして明治三十年代の初頭から、末期、そして大正初期にかけて、多くの秀れた才質を持った前記の歌人たちによって豊かな成育を遂げ、ある時期においては文壇において小説その他をリードするほどの勢いをさえ示し、千二百年の古い伝統を持った、短い詩型の強靭かつ尖鋭さを示したので

あった。

 そしてそれが大正期を経て昭和期に入り、すでに半世紀近い歳月を重ねた現在に至るまで、幾変転をしてなお日本文芸界の一角に生き生きとした活力を示しつつあるという事になるのである。

 千二百年の和歌の歴史のあらましを短小な一文で書くということは困難なことであって、ほんのあらまししか書くことができなかったが、一応のことは記述したつもりである。






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最終更新日  2020年09月17日 22時09分56秒
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