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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年09月22日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室
山梨県 富田武陵とその墓誌

 

   徽典會 会報第9号 1972

佐藤八郎氏著

一部加筆 山梨歴史文学館

 

 

 徽典館の初代教授富田武陵は、文化元年(1812)六月三日、享年七十一歳で世を去った。

ことしから百六十年前のことである。

 その墓は甲府市城東一丁目、浄土宗尊躰寺境内にある。

昭和十五年五月、山梨県はこれを史跡に指定し、石標を立てて次の文を刻しこれを顕彰した。曰く、

   

富田武陵之墓   山梨県

 

名ハ幹、通称富五郎、武陵ト号ス、幕府旗本ノ士ナリ、

寛政中、徒リテ甲府城衛士トナル、

博学ニシテ経義ニ通ズルヲ以テ、公務ノ余暇子弟ニ教授ス、

享和中(180103)、府戸滝川利雍其ノ才学ヲ愛シ、

為ニ甲府学問所(後、徽典館ト称ス)ヲ開キ其ノ教授ニ任ズ、

本州官学ノ興ルハ実ニ此人ノ功ニ依ル、

文化九年歿ス、享年七十一、当山墓地ニ葬ル、

     昭和十五年五月 建之

【註】県史跡富田武陵墓石標 甲府市 尊躰境内

 

この石標を距る五十メートルばかり北方に武陵を初代とする甲府富田家歴代の奥津城がある。数基の石碑の中央に南面して、ひと目でそれと知れる武陵の墓碑があるが、なお訪ずれる人びとのために、碑側に「富田武陵墓」と刻した石標が立てられている。碑石の質は山崎石(甲府市)、四角柱状の位牌型で、正面に   

 

「豁然院広誉篤学源武陵居士」

 

の法浴を美しい隷書で、また側面から背面にかけて、武陵の親友小池正俊が撰んだ墓誌を楷書で、ともに

武陵の嫡男壌が揮毫したものを刻している。

 

二、武陵の出自

 

武陵は、諱を幹、宇(あざな)を君楨、通称を富五郎といった。武陵はその号である。

本姓は源氏、近江源氏佐々木氏の支族といわれる。

祖先が伊賀の国に移り住んで地持となり、いわゆる伊賀者として忍びをもって活躍した。武陵の六世の祖先の某が、伊賀者の巨魁服部半蔵に属していた天正十年六月二日、京都に本能寺の変が起った。当時織田信長に招待され京都に候し、さらに和泉の堺に遊んでいた徳川家康は、変を聞いて直ちに帰路に就き、間道をとって大和から伊賀を経て伊勢の白子浜に出て、海路三河大湊に帰着した。途中で土冠・一揆に襲われ、家康の生涯での最大の危機であったが、幸いにして服部の率いた二百人の伊賀者の奮闘によって事なきを得たのであった。家康は、伊賃者の奉仕を賞して禄千貫文を与えたが、のち幕府に出仕させて御広敷・小普請方・山里・明屋敷番等に配置した。その数合わせて百人、これを伊賀者百人同心といい、江戸青山の組屋敷に住み青山百人町の名は、これに起るといわれる。

 

武陵の祖先もその同心の一人で、御広敷番として三十俵二人扶持

割註(米五合を一人扶持という。二人扶持は日に一升、年に三石六斗の禄高に当たる)

を受ける下級幕吏であった。

 

武陵は、寛保二年(1742)に江戸青山の組屋敷にあった富田家に生まれた。

温良で慈愛の心に富み、恭謙や学問を好む性格であった。儒学は朱子学にかたよらず、陽明学の実践的なのを喜んで兼ね究めた。また書道に達し、武芸は剣法は柳生、槍法は大島、それぞれ免許皆伝の腕前であった。長じて家を継ぎ、御広敷番に出仕したが、すぐれた学識と誠実な人柄が認められて抜擢を受け、御広敷添番に栄進、役高百俵を加俸される身となった。

御広敷番は、伊賀同心の幹部である。その職分は大奥に勤め、部下を指揮して奥女中の出向に随行し、また社寺などへの使番の役目を与えられることもある。

武陵の器量をもってすれば、雞を割くに牛刀を用いるの観がしないでもないが、封建制下にあっては真にやむを得ないことであった。武陵は恭謙な循吏として職分に精勤し、公務の余暇には学問に精進した。日々の生活は平穏であった。

 

三、武陵 府勤番となる

 しかし、武陵の江戸での平穏な生活に、はからずも破綻が訪ずれたのである。

 それは、武陵が五十一歳の寛政五年(1793)のことで、部下の伊賀同心の間に起った不祥事件に関し責任を問われたものと推察される。

県立図書館甲州文庫所収「甲府御城付、巻の六」に、次の記事がある。

 

寛政五丑年三月、伊賀同心五人甲府勝手小普請仰せ付けらる。

同六寅年二月十四日、右五人の内四人甲府へ着す。

  一、三拾俵弐人扶持、内七俵五升地方

         追手組  塩沢利兵衛

    (外三人は略す)

   右五人の内残り壱人 同年二月廿一日甲府へ着す

  一、参拾俵武人扶持 内七俵五升地方

          追手組 富田富五郎

 

また宮本定正の著述「甲斐の手振」には、

 

「富田富五郎、御広敷添番より子細あり胞甲府勝手小普請に遷さる」

 

と見えている。こうして武陵は寛政六年二月二十一日に甲府到着、代官町の同心組屋敷に入ったのであった。

 勝手小普請とは、職務に失行のあった御家人(ごけにん、下級幕臣をいう、伊賀同心など)に対する罰として、免職のうえ小普請入り申付け、年々金二両の小普請金を納めさせ臨時の公務に出仕するを待機させる制度で、これを命ぜられた御家人は、まことに退屈な身分となるのである。

 

甲府勤番は、幕府のいわゆる遠国役に属しとかく敬遠され勝ちであったが、中にも「山流し」と呼ばれた左遷組の勝手小普請入りの同心らは、自暴自棄に陥って酒色に溺れる者も現われるなど、勤番士の風紀は必ずしも良好とはいえなかった。

 武陵は、連坐による処罰の結果甲府勝手小普請左遷を天の試練と心得ていたようで、ひたすら文武の道に励み、学問に励み時には庭に下り立って花舟に水を濯いだりした。

 武陵の非凡な学殖はいつしか識者の認めるところとなり、入門を請う者が踵を接した。

武陵は上司の許しを得た上で自宅を教場として門下の教授に当たった。その結果絃誦の声が巷に溢れるようになり、勤番士の風紀も次第に矯正されて、大手支配大久保遠江守教近・山手支配永見伊予守為貞の両

人も心から満足していた。

 

四、武陵 府学開所教授方となる

 

寛政七年(1795)十二月、甲府勤番大手支配に異動があって、大久保遠江守は幕府の槍奉行に転じ、その後任には小普請組支配近藤淡路守政明が就いた。近藤は、山手支配の永見から武陵の人柄と学殖の程をつぶさに承知して、用いる人材であると感じた。

 やがて近藤・永見両支配は、甲府に学門所を設けることについて相談し、その教授方に武陵を起用する事の案を立て、その企画を幕府へ察議して許可を得ることができた。学門所は甲府学門所と呼ばれることになり甲府城大手門前の近藤の役宅が仮学舎に宛てられた。

 甲府学開所開設の年月は明らかでないが、寛政八~九年の間にあったことは確かである。

 武陵は、甲府学聞所教授方に任命された。すでに鋒鋩を顕わしていた嚢中の錐は、遂に穎脱したのである。これまでの教場であった組屋敷の一室と違い、勤番支配役宅の宏壮な教場で、俊秀な若殿原に囲まれて経書を講ずる武陵は、身が貶諦の境遇にある事を忘れて、孟子三楽の金言を噛みしめたことであろう。

 しかし、甲府学門所が創立されて間もない頃、永見・近藤の両支配は相前後して甲府城を去った。永見は寛政十年正月、江戸城本大小性組番頭に転出し、また近藤も同年十二月に永見と同じ小性組番頭に転出したのである。

 

【註】幕府の制、小性組は書院番ともいい、江戸城内警衛の重任を帯びる。その長を番頭といい、定員は十人、四千石高、従五位下に叙任され、必ず徳川家重代の士の中から選任した。したがって永見・近藤は十人の内であった。)

 

両支配の知遇を得て張り切っていた武陵は、この異動にいったんは力を落したが幸いに近藤の後任として大手支配に就任した滝川長門守利雍も、人一倍学問を好きな旗本であったから、武陵はまことに仕合わせであった。

 

滝川長門守利雍

江戸西久保の浄土真宗光明寺住持雲室了軌和尚の随筆「雲室随筆」の一節に

   扨て、其の後滝川安芸守殿甲府勤番頭仰付けられ、

彼の地へ参らる。本と此の人毛利伊勢守殿公子にて、

伊勢守殿は学問熱心にて天下に聞えし蔵書の家なり。

安芸守殿も 其の兄弟故、学問も勤められ、

就中著述好 きにて詩の聞えある人なり

 

とある。ここに安芸守とは利雍を指す。はじめ長門守、ついで出羽守を経て文化二年に安芸守を受領したから、こう呼ばれるのである。

 利雍は豊後佐伯藩二万石、毛利高慶の庶子義方の子である。

高慶四世の嫡孫高標(たかすえ)が、宮室のいわゆる毛利伊勢守で、学問熱心の天下に聞えた蔵書家であった。高標の文庫は蔵書八万巻を超え、天下三大文庫の一に挙げられていた。文教とともに産業を興し、九州の名君とたたえられ、明治に至り従四位を贈られた。

 高禄の末弟高納は、四千石の旗本滝川大学的利広の家を継いで一貞と名乗った。一貞にも実子がなかったので、天明五年二月世を去るに当たり、生家毛利氏の分家義方の子拓之丞を養子に定めた。これが利権で当時二十六歳であった。利雍も毛利家の血は争われず好学の質で、南谷と号して聞えた詩人であった。しかし「雲室随筆」に利雍と高標を兄弟の如く述べているのが誤りであること勿論である。

 

利雍は甲府勤番支配に就任し、学開所教授方富田富五郎すなわち武陵を一見してその重厚な人柄、深遠な学殖に敬服し、且つ学門所の運営が宜しきを得ているのに満足した。

 

五、甲府学開所が徽典館と改称される

 甲府勤番大手支配滝川利雍は、高四千石従五位下長門守という大身の旗本、富田武陵は三十俵二人扶持、伊賀同心の軽輩で、しかも勝手小普請という左遷の身分である。それにもかかわらず両人は学問を介して無二の友となり、甲斐峡中の文教振作に大きな貢献をする結果を生むのである。その第一が甲府学門所の

充実と、徽典館への発展である。

 大手支配役宅を充用していた甲府学門所仮学舎は、日に狭阻を告げて来るので、利雍は新たに本格的学舎を建築されたい旨を幕府当局に申請することしばしばであったが、事は容易に進捗せず、漸く新築許可が発令されたのは享和三年(1803)も冬に入ってからであった。旧甲府町年寄『坂田家御用日記』によ

れば、その当時の記事として

 

享和三年十一月十八日、小川彦兵衛より手紙を以て、

明十九日学門所目論見これ有り候間、

大工壱人差出し候様申し来るに付きこれを触る

 

とある。この建物は甲府城南、郭内大手門南三町に地を相して広大な敷地を画し、ここに造営工事を起したもので、翌々文化二年(1805)秋になって工事は竣工した。

 これより先、利雍は竣工近い新学舎にふさわしい館名を時の大学頭林衡(述斎)に懇請した。衡は、書経舜典に「慎徽五典、五典克従」とある中から徽典の二字を撰び、「徽典館」と命名した。これを知った前老中・白川城主・越中守松平定信は、新館名を大書し、これに次の添え書きをして賜わった。

 

文化二年乙丑九月四日書

  幕府世臣白川城主越中守源定信

 

ところが同年七月、甲府勤番支配の異動があって大手支配滝川利雍は江戸城西大小姓組番頭に転出、同八月には後任松平伊予守定能が着任している。定能は利雍の志を継いで、同十月これを良材に刻して扁額とし、徽典館の楣間に掲げた。学裏に以下五十五字を彫り由来を明かにした。

 

甲府学館成大学頭林衡命名白川侯松平定信揮毫

出羽守滝川利雍伊子守松平定能命工鐫之扁額

文化二丑冬十月也 温故張寛彫之

 

文中、出羽守滝川利雍とあるのは、利雍が二年前の亨和三年に長門守から出羽守に昇進したからである。此の額宍に利雍の官氏名を刻したのは後任定能の行届いた配慮によるもので、落成直前の異動のため、永年苦心の成果を見るを得なくなった利雍の胸中を察し、モの功績を高く評価したからである。

 

新学舎には教官住宅も附設された。武陵は代官町の同心組屋敷からこれに引き移り、徽典館の教育事業はいちだんと活発になった。

 

六、武陵 志資料調査の先鞭をつける

 武陵は、利雍の内命を承けて、甲斐国志編纂のための資料調査に従事した形跡がある。

それは前記『坂田家御用日記』享和三年(1803)の記事に

 

十一月廿九日、追手御役所へ与一左衛門罷り出で候節、

此度出羽守様御目論見にて甲斐国志御撰に付、

勝手小普諸富田富五郎へ右御撰仰せ付けられ候に付ては、

右富五郎甲府町方・寺社其の外へ胆り越し、

品々問合せ候儀もこれ有るべきに付、兼ねて其の趣き心得居り

(中略)

富五郎罷り越し承合せ候義もこれ有り候はば事実相答え腕様

 

とあることから知られる。利雍の意を承けて武陵が資料調査に従事したと云っても、これは企画の中心になった意味で、武陵は部下を指導督励したものと思われる。それは前記「雲室随筆」に

 

此の節、林家にて諸岡の国志集めらるる事始まり、

甲斐志を安芸守殿集めんと発起致され、

都下より書生を招き段々古跡等尋ねられしが、

小国とは云ヘー国の事なれば中々速かに知ること難し。

これに依り郡内領の方角をば子与に申付けらる。

 

 とあることから知られる。子与は谷村の森島其進である。

これにより、利雍の意を承けた武陵が、郡内方面の調査主任として其進を推したことが察せられる。「雲室随筆」はこれに続けて次のように述べている。

 

扨て、安芸守殿任満ちて帰府致され、其の跡へ松平伊予守殿仰せ付けらる。

是れ亦た勤学の人と申し且つ安芸守より右の趣申し達せられし故、

大いに世話も行届きける。

 

 利雍が甲府在番中、徽典館の拡張発展や『甲斐国志』立案等文運興隆に寄与した功績は永く記憶されなければなるまい。しかしその智嚢の武陵がいて、これらの文教政策を最も効果的に推進した結果であることは言を待たない。

 

 甲府市北郊の塚原恵運院に「楳樹碑」と題する一基の碑がある。これは享和二年正月に滝川利雍の撰文、富田武陵の書ならびに篆額に或るもので、同院境内の信玄手植の梅の枯れるのを借しんだ武陵が、その枯死直前に、ひこばえを育てて若木に接ぎ、遂に或木として古木の跡に植え、後世の人に永く信玄の遺徳を偲ぶことを得しめたことをたたえて利雍が文を草し、これを武陵に揮毫させたもので、まことにゆかしい「いしぶみ」である。

 武陵が武田家を愛し、慕った例をもう一つ挙げよう。

 

それは東山梨郡春日居町鎮目の蜀薬塚に現存する武陵撰文理竜の「芍薬(しゃくやく)之碑」である。この塚は、武田家滅亡の哀史のひとこまを秘めている。天正壬午(十年)三月、新府を落ちて東に向かった勝頼が、途中幼弱な愛児を鎮目村の渡辺加兵衛に託したが、加兵衛の愛育にもかかわらず、幼主は翌年三月夭した。加兵衛は幼主に「武性院殿斉珊瑚哲大童子」と諡(おくり名)し、墓に一株の芍薬を植えてその霊を慰めた。加兵衛の子孫また永く春秋二季追福を怠らなかった。世にこの墓を芍薬塚といった。この話を聞いた武陵は渡辺家の陰徳に深く心を動かし、すなわち筆を執って碑文を草し且つ揮毫したものである。

時に文化四年(1807)八月、武陵六十六歳であった。

武田氏を追慕し、薄命な幼主を悼み、忠貞の遺臣渡辺氏を旌(しょう)する意図、惻々として詣でる者の涙を誘って已まない。杓薬塚・渡辺家のことは甲斐国志に詳しい。

 

七、武陵の終焉とその墓誌

 

恵運院の碑を見る者は、武陵の能書に斉しく感歎するのであるが、当時甲斐三筆の一人に挙げられた人でもある。すなわち市川の座光寺南屏、甲府の富田武陵、一宮の古屋蜂城がそれである。(生年順)

 文化二年松平定能が甲府勤番大手支配に就任すると、滝川の意志を継いで『甲斐国志』の編纂に着手したが、定能は年老いた武陵をその主宰とするに忍びず、専ら徽典館の経営に当たらせたのである。

 文化元年夏、武陵は病いに罹り、その死期の近きに在るを知った。武陵は無二の親友小池琴河に墓誌を作ることを托したが、琴海は固く辞退した。

六月三日武陵は臨終の日を迎え、嗣子穣字は民甫に遺言して琴河に墓誌を請わせ、七十一歳を以て易簀した。穣は亡父を菩提所尊躰寺の堅城に葬ると、その足で琴河を訪ねて亡父の遺言を伝え、あらためて墓

誌を懇請した。重なる知己の遺志に琴何も意を決し、心血を注いで墓誌を撰した。穣も亡父に似て能書であったから、自ら墓誌を揮毫した。

武陵の門弟のうち、野田順成をはじめとする勤番士七十九人も斉しく建碑資金を醸出して工を助けた。全員の氏名が墓碑の側面に刻されている。

 武陵の墓は、本県教育史跡として重要であるが、その質素な墓域は世人の注目を惹かず殊に墓誌のあることは殆んど知られていない。幸いに「山梨県師範学校創立六十年記念誌」と、「甲府域総合調査報告書」とには収められているが、両書とも誤植が多く、且つ句読・訓点が十分でない。以下がそれである。

 

先生、姓源、諱幹 字君槓都人也。其先伊賀の出自。

世為・伊賀百夫隊。自己祖先君至 先生几六世。

先生、弱冠嗣家、数年為隊長。寛政五季春三月坐事遷峡中。

囚率家属・喬居閭閻、近藤淡州公治下焉。先生、為人品恭謙遜、

敦厚恤物見人之厄、慨然振身而趣焉。性嗜典籍。才識博通、

  旁善書窺故人妙。寸堵隻字、得者以為拱璧。又喜撃剱槍法、

極柳生大島二家秘訣、其佗技藝、無不通暁。平昔花卉、手躬濯園、

以邀幽賞云。是以莢中、嚮風慕悳、入其門者、日益多矣。

亡何、永見豫州公、近藤淡州公両鎮台、舘中假設學舎、延先生、

以誘掖郭中衛士。享和三年亥秋、台命新開學校、見任教授。

移居于此、教論於國中子弟、講業勉励、無少懈焉。風俗純厚、

倫理益盛。於是乎、賞賜加秩、時以為栄。門人彌衆、

為城市邨里所推尚焉。

文化元年六月三日、罹病而卒。享年七十一。葬于郛内尊躰寺。

郭中衛士、共議建碑。余、與先生、交情尤親。先生未卒之前、

豫請余作碑銘、謝余不敏。歿後、嗣子民甫、来告以附托之意義。

不可辞。即繋之銘、銘曰、鳴呼先生、恭而克安。既除藚菉、慈樹薏籣。

徽音雖絶、徳宇維寛。汪汪風□=(上が「既)、下が木」、永以可観。

 

維旹文化九捻冬十月

         小池正俊謹撰

男富田穣粛書併建

           荒井蛙克謹刻

 

富田武陵 遺墨

南宋の名士陳述𠮷の座右戒を草したもの。

 

 富田武陵 書 五岳真形図

  武陵は隷書に秀で、この五岳真形図は傑作である。

  五岳とは、中岳(嵩山)・東岳(泰山)・西岳(蓽山)・南岳(衡山)・北岳(恒山)をいい、

  中国の霊山とされていた。五岳真形図は、道教の護符であるといわれる。

この書は武陵の勝手小普請入りの後で甲府赴任の前に書かれたものである。

 

武陵 楳樹碑(楳樹は梅樹に同じ)甲府市 恵運院

  享和二年正月建てる、甲府勤番支配滝川利雍撰文、

  武陵書ならびに篆、荒井惟克彫刻である。

 

武陵撰 芍薬(しゃくやく)塚の碑

        春日居町鎮

  武田家滅亡の際、主君勝頼の遺 命を奉じて幼主の傅育の任を全うし、

その夭折を悲しみ墓に芍薬を植えて菩提を弔った

義臣渡辺兄弟の節を称えて武陵が撰文執筆したもの。加筆)












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最終更新日  2020年09月22日 18時10分25秒
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