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終戦直後の日本を率いたワンマン宰相 吉田茂
『歴代内閣総理大臣のお仕事』 2017・11.20発行 編集者『内閣総理大臣研究会』
吉田内閣 第45代(1946・5・26~1947・5・24) 第48代~51代(1948・10・15~1954・12・10)
生年 ■1878年9月22日 没年 ■1967年10月20日(89歳) 出身地■東京都
終戦直後の日本を独立に導いた総理大臣。それが𠮷田茂だ。戦前の𠮷田は外交官として終戦工作にも関わり、戦後は東久邇宮稔彦内閣と幣原喜重郎内閣で外務大臣を務めた。 そして、次問総理の候補だった鳩山一郎がGHQによって公職追放されたことで、𠮷田に組閣の大命が下る。吉田が総理に選ばれたのは、終戦工作などの親米的活動がGHQに評価されたことが大きく、同時に、大日本帝国憲法下で組閣した最後の首相となる。 1946年5月に発足した第1次𠮷田内閣では、幣原内閣で決定した新憲法の発表とGHQの政策実行が課題となった。 幣原が端緒を閣いた農地改革や教育改革が本格化したのも第一次吉田内閣であり、任期中の1947年5月3日には、新憲法「日本国憲法」が施行される。だが、当時の日本はまだ連合国との講和条約が結ばれておらず、加えて農林省による政府統計では、食料不足による餓死者の大量発生が警告されていた。 これらの問題に、吉田は外交力で対抗。食料問題については外国からの支援に頼ることを決め、GHQに490万トン前後の援助を要求する。マッカ-サ-から支援の確約を貰ったものの、用意された食料はわずか約70万トン。しかし、吉田はなんとか危機を乗り切った。だが、要求の約16%でも乗り切れたことに対し、マッカーサーは政府統計がずさんだと抗議。これに、吉田が 「我が国が統計を完備していたら、無謀な開戦などしなかったし、しても勝っていただろう」 と言って煙に巻いた事は有名だ。 そうして国内問題を解決した一方で、労働組合を「不逞の輩」と呼ぶような失言が問題となり、1947年4月の総選挙で自由党が社会党に敗れる一因となる。 所属政党が第一党の座を追われたことで、吉田は5月24日に一旦総辞職することになった。 翌年10月の芦田均内閣の総辞職で、民主クラブと自由党が合併した民主自由党の総裁である吉田は、再び総理大臣に返り咲く。 しかし、民主自由党は野党だったので政権維持が難しく、翌年2月には早くも解散総選挙を実行。この解散にはGHQの意向も絡んでいたため、当時の新聞各社からは「馴れ合い解散」と呼ばれたが、選挙の結果は民主自由党の圧勝に終わり、党名を再び自由党とした。 そうして政権を安定化させた𠮷田は、アメリカが提示した金融引き締め政策を1949年4月に実行する。その政策がドッジラインである。 公共事業費の大幅削減、交通運行の値下げを主とするこの政策と同時に税制改革も行われ、国民生活は一時的に悪化。だが前年度まで300%を超えていた物価上昇率が政策の結果20%にまで抑えられ、終戦内直後から続いた経済の混乱は収束へと向かう。そして1950年に起きた朝鮮戦争の特需もあって、日本経済は回復に向かう。 アメリカが日本に再軍備を要請し、警察予備隊(のちの自衛隊)が発足しとのもこの年の8月だ。 また、第一次内閣からの議題であった講和成立にも進展が見られ、アメリカ国務省が対日講和条約を検討中であると日本側に言明した。これは、ソ連と対立するアメリカによる、冷戦構造への日本の組み込みを狙った思惑によるものだったが、日本にとっては最大の機会である。ソ運や共産圏を含む全面講和を望む一部の声を押さえ込み、吉田は平和条約締結を最優先として西側諸国のみとの片面講和を決断した。 1951年9月、サンフランシスコ講和会議が開催。吉田は48カ国と講和条約を締結する。条約は翌年4月に発効され、日本は正式に主権を回復。だが、同時に結ばれた日米安全保障条約によって、アメリカ軍基地は日本国内に残されることにもなった。
通算7年5期にわたった長期政権
このころになると、ワンマン的な𠮷田に反抗する議員が勢力を強め、公職追放が解除された鳩山一郎を旗頭に吉田降ろしの機運が高まった。 そこで吉田は1952年8月に「抜き打ち解散」と呼ばれる解散総選挙を実施。しかし、反吉田勢力は衰えず、予算委員会で吉田が社会党の質問に「バカヤロー」と返したことから内閣不信任案を出された。 この不信任案は可決され、翌年3月に総辞職。総選挙の結果、自由党の議席は過半数を割り込む。さらに詐欺で得た出資金が政界工作に使われた10月の保全経済会事件と、政府出資の造船計画への賄賂が発覚した1954年1列の造船疑獄事件で政権批判が高まる。 吉田は外交成果による権力強化を狙って9月から欧米外遊に旅立つも、2ヵ月もの外遊の間に国内では鳩山が新党結成の準備を進める。そして、吉田が帰国した一週間後の11月24日に日本民生党を結成。12月6日に左右両派の社会党と合同で内閣不信任案を提出する。このとき、政界からの支持を失っていた吉田は不信任案を受け入れ、12月7目に総辞職。こうして5期にわたった吉田政権は、終わりを遂げたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月24日 18時53分10秒
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